日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

疎外感

2009年12月14日 | Weblog
疎外感

僕と都会の間に断絶が起こった。都会の町をぶらつかない間に、町も人もどんどん自分から離れていった。連帯感が薄れていき、僕一人が孤立しているように感じる。人はおそらく誰でも僕と同じように、都会の孤独に悩んでいるのだろうが、疎外感というのか、孤立感というのか、ひとしお強く感じる。
若いときの意識の過大な広がりが、これで正常に戻ったのかしら、孤立感はいやしがたい。

信念

2009年12月13日 | Weblog
信念


信じて、念じること。妄想と思われることでも、それを確信することによって実現することがある。
信じることがものの始まりで、無意識のうちに、実現のための条件整備がなされているのだろう。

塩加減4-7

2009年12月12日 | Weblog
           塩加減

奥さんにこれをあげよう」
師は気軽におっしゃって師の著書。「あるがままでいええやないの」

を贈ってくださった。師は余白にサラサラと筆を走らせて。なにやら書き込んでから手渡された
恐る恐るを開けたページには、墨のことも鮮やかに「塩加減」とあった。
塩加減。私はニヤリとした。市は初対面の我々夫婦の中を即座に読み取って書いてくださったのだろうか。そう。塩加減一つで、人生楽しくもあり、つらくもある。

3度3度の食事のうまさの元は正に塩加減一つであるし、食べ物にとどまらず、夫婦関係も塩加減一つで、愉快にもなり、不愉快にもなる。

 さて、一口に塩加減というが、これがなかなか難しい。塩が足りないと、ノンベンだらりと間延びして、すかみたいで、つまらないことおびただしいが、さりとて、効きすぎると顔を引きつらせる。
ほどほどのがいちばん良いのだが。それが難しい。

 江戸時代、農村に浸透する貨幣経済によって幕府や武士が疲弊していくのを食い止めようとして、コメの価格の調整を自らの手で行おうとして、コメの価格に振り回され、米将軍の異名をとった将軍がいたが、考えてみれば、彼と同様、塩加減、甘さからさの調節を求めて、生涯振り回されているのが案外、我々の一生かもしれない。
そして、塩加減、たった3文字の中身が分かりかけてくる頃になるとお迎えがやってくる

作成日: 06/11/28


行方

2009年12月11日 | Weblog
 行方

夢や希望をもっている人は多いが、夢や希望で人生を喜びで飾っている人は少ない。
どの顔を見てもつまらなさそうな顔をして歩いている。
あと100年もたてば、今目の前を通り過ぎていく群衆はきれいさっぱり居なくなる。どこかへ行ってしまう。一体どこへ行くのだろう。

継続と中断

2009年12月09日 | Weblog
継続と中断

今まで一生懸命努力して、継続したことを、一旦中断して時間が経つと、
元の状態に戻るには不可能に近いような努力が必要である。

言い方を変えると、いったん気持ちが切れてしまうと、そこからはい上が梨元の状態まで成るのは至難の業だ。
いくらがんばろうとしても、気持ちが切れた後は、どうしても奮い立たなかった
この状態は東洋の魔女を作ったニチボー貝塚のバレボール監督・大松監督の言葉でもあったし、自分も経験した。
物事をなすに継続がどれほど大切か。この継続という一言につきる。 
 

近頃の犯罪

2009年12月08日 | Weblog

近頃の犯罪


近頃の犯罪を見ていると、ゲームの一種と間違っているのではないかと思われる節がある。
これに対処するには厳しく規制して違反者は遠慮無く罰することである。人権を振りかざして犯罪を隠そうとしたり、罪の意識を薄めようとしたり、罪を軽くしようと考えたり、そちらのほうばかりに目が向いて肝心の罪の意識に目覚めないのは困りものである。
犯罪はあくまで犯罪である。犯罪の多様化、犯罪意識の希薄化ということばで現代の世相を語るだけでは、世の中は良くならない。教育の是非が論じられるが、教育によって犯罪が無くなるとは思えない。犯罪者の意識はもともと人間が進化する中で本能的な部分として、命にまとわりついているからである。見せしめに厳罰化してもこの本能部分をねこそぞぎとりさる事は出来ない。だが社会防衛のために凶悪犯罪・恣意的に他人の命を奪った人間は己の命で罪をあがなう必要があることを法制化する必要があると思う。

芸能人

2009年12月07日 | Weblog
芸能人

人々は日々の生業の中で退屈を感じているのではないか。
芸能は退屈(ストレス)の解消に大きく影響をして、日々の生活に多彩な彩りを添える。

芸人は自分の芸を売り物にするために、修業をかさねる。芸能人にとっては、芸が日々の生活であり、それが生業である。それは一般サラリーマンと違って無限の何かを求める性質の仕事である。だから9時5時の規則正しい生活だけでは何も生まれてこない。

私生活上ではドロップアウトするケースガ多々あるが、そこに潜む真実が芸としてうける場合がある。要するに芸人は並の人のするようにしていてはだめで、はみ出し部分を利用して如何に芸を太らせる肥やしにするか。その部分を忘れたら失格である。そこに真面目さがなければ、世間の笑いものになるのがおち。

生業に疲れた芸人は、心を癒やすために、「自分忘れ」をするものに逃避する。それに加えて現代では明治時代までは、を侮称されたものが様かわりして、往々にして現代のヒーローになる。そしてそこには特権意識が芽生える。

「自分忘れ」や特権意識に惑われて、人倫に反することや、法律違反を犯す。そうでなくてはやりきれぬと言う叫びは判らないでもないが、
全てに優先して人はプライドをもって、清々どうどうと生きられる様な生き方が社会的に求められていることを忘れてはならない。

テロについて思う

2009年12月06日 | Weblog
テロについて思う。

近頃は、自爆テロが盛んに行われる。これを行う人間は、大抵イスラム過激派である。イスラム過激派は、パレスチナとイスラエルの衝突をしょっちゅう起こすし、イラクでは、アメリカ軍や占領軍に力を貸すものすべてを標的として、自爆攻撃をやる。こういう風潮がおそらく、今後長く続くであろうから、世界平和にとってやっかいな存在である。宗教はときとして過激集団になる。そうでなければ、布教など出来たものじゃ無い。両極端をきらい中道にこそ真実があると説いたのは釈迦である。マホメットが両極端の過激はいけないと戒めておいてくれれば、世界の様は多分現状とは違ったものになっていたことだろう。人間の存在は曖昧なものである。だって何時生まれたのか、何時死んだのかも本人すらも判らない存在なのだから、原理主義、過激主義者というのは多分人間のご都合で生まれたものだろう。原理にもとづかなくても、過激に走らなくても、ちゃんと生きていけるではないか。
現在政戦の名の下に行われているテロなどは、なんだかんだ口実をつけるけれども、決して世界平和には寄与していない。

太平洋戦争末期には日本には、武器が無くて、武器代わりに生身を使うという、とんでもない思想があった。
日本の特攻隊は、特攻精神というものがあり、それを支えたのは、軍国主義時代の天皇制であり、国家神道で、今風に言えば、飛行機を使って、アメリカ軍艦に、攻撃をかける
一種の自爆テロである。
いずれにせよ、宗教や国家の名において、自分の宗教や他の国家の存在を認めないというのは、世界平和の精神からはずれている。

アレキサンドロス大王

2009年12月05日 | Weblog
アレキサンドロス大王

東方に遠征することによって、ヨーロッパ文明を中近東方面に伝えた

彼はヨーロッパ文明を東に伝えることが目的なのではなく、て彼の征服地版図を広げるために遠征したのである
文明はついでに西から東へ伝わった

第一の目的が何であれ、文明が伝わり人類の文明歴史のなかで、彼は 燦然と輝いた

、今日われわれが、西洋文明を享受できる端緒が、彼によって開かれたのは大きな人類に対する貢献であった


自然破壊の利益とコスト

2009年12月04日 | Weblog
自然破壊の利益とコスト

自然が自然の力で自然環境を大きく、変えたことはない。人間は、ここ100年の間に自然を大きく変えた。

そのために、今、存亡問題、いたくクローズアップされ環境問題が大きく取り上げられている。

環境破壊によって得た利益と環境破壊修復のために支払わなければならないコストの差を考えなくてはならない

八方にらみ

2009年12月03日 | Weblog
八方にらみ

今年秋の連休に11月1日二日三日の三連休。.関西地方は1日が晴れ、2日が曇り、3日が雨だった。

2日に嵐山に行った。人混みがすごくて銀座四丁目顔負けの混雑でまともに歩けなかった

渡月橋を渡ったら、ひばり会館前は大勢の人だかり。目と鼻の天竜寺まで行くのに十分ぐらいかかった

天竜寺は大入り満員である。皆紅葉狩りにやってきたのだろうが、まだ紅葉しているのは広い境内でわずか数本だけ。

方丈に上がったが、庭を見るくらいで、建物自体は特別なものを感じなかった。方丈では大勢の人が池を挟んで対岸にある岩石の配置の妙を楽しんでいる風情。くたびれたのか、大勢の人が腰掛けている。特に早く切り上げる必要はないのだが、池の周りを散策したら秋の、自然をを満喫した気分になった。

天竜寺のお目当ては法堂にある雲竜図。
法堂と方丈は渡り廊下でつながってはいるが、特別拝観中で別料金をとられた。

寺は経済的には、非生産的なところだから、維持費や管理費を参拝客の入場料や寄進によらないと手入れもままならないものである。今日のように毎日が混雑するならば寺も楽々と維持するお金を集めることができるであろうが、一年中でこのように混雑する日は少ないだろうとは思った。

さて今日の圧巻は八方にらみの龍である。どういう手法が用いられているのか分からないが、右下でも真下でも左下でも、天井の竜は自分をにらみつけている。

こういう龍は生まれて初めて見たので、なかなかおもしろく、龍の下を何回も行ったり来たりして、目の合う具合を確かめた。s

アンコールワットのすぐ隣にあるバイオンへ行った時のことである。この石造り寺には石の塔がいくつも立っていて、塔の先には東西南北、四面に仏の顔だけが刻まれている。
世間ではこれを四面仏というらしいが、境内に入ると塔から仏たちが自分を見つめているようで面食らった経験がある。

これらは一つ一つの仏の顔が数多く、なんでも200近くあるらしい。どこにでも、どんな角度からでも、こちらを向いているような気がする。多数の観音さまが僕一人を見ていてくれるような作りになっている。
それにひきかえて、天竜寺法堂の天井にある直径9mの円の中に書かれた竜の目は場所を移動しても常に自分を見つめているという感じがした。
一匹の龍が、多くの違った場所にいる人に対して、にらみを利かしている、というのがこの龍である。
それにひきかえ、一人の人間を大勢の仏たちが見守るという構図がバイオンではとられている。

いずれにせよ仏の教えが、天竜寺では一人のお釈迦様が大勢の人に向って説法し、仏法の光を当てているというのに比べて、バイオンでは多くの菩薩が一人の人間を見守るというそんな気がした。

いずれも仏の教えの功徳があまねく世の中に行きわたる。そのために釈迦が直接民衆に語りかけるか、それとも大勢の菩薩が一人一人を温かく見守って釈迦の教えを垂れたまうか。その辺のちがいだ。

方丈からまっすぐに石畳が通じている。道の左側にはこの寺の支院があり、道端に沿ったもみじは枝の上の方の葉っぱは、紅葉し下の方まだ緑に輝いていた。


至高の芸術

2009年12月02日 | Weblog
至高の芸術

平穏無事な生活を送っていて、血のにじむような至高の芸術は生まれることは無い。至高の芸術は苦しみぬいてやっと手の届く所にあるからである。深海の深い深いところに有るので、そこへ到達するまで潜らなければならない。

韓国やタイの路上食べ物

2009年12月01日 | Weblog
韓国やタイの路上食べ物

10年前8月夏に韓国はソウルやプサンに行った。人埃のまいたつ路上ですしや、餅など食べ物を売っている。日本の露店とは違い非常に非衛生で食べる気はしない。

翌年4月春タイ行った。韓国のように直に路上において食べ物をうってはいないが、ものすごい車の排気ガスや騒音や砂埃の歩道にところせましと食べ物屋台が並んで、皆そこで食べている。これも汚い。おまけに屋台の後ろには悪臭を放つどぶがある。それでも人は平気で食べている。

慣れてしまえばこんなものをなのか。これを思えば日本は清潔な国である。どや街をのぞいて、
汚くしている食べ物屋はまず人が寄りつかない。  

ソウル駅の裏。浮浪者が何か話しかけてきた。百ウオン渡してその場を離れた。哀れみと言うよりは不快感が先立ってその場を離れたのであった。