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『坂本正直〜平和への祈り〜』展


「クリークの月」


「九州には三人の坂本という絵描きがいる」。友人が教えてくれた言葉だ。そういう言い方があるとは知らなかったが、一人は久留米の坂本繁二郎、もう一人は熊本の坂本善三、そしてもう一人が宮崎の坂本正直だ。坂本正直については、宮崎県外ではあまり知られていないかもしれない。しかし、もっと知って欲しい人だ。今回、県民ギャラリー(宮崎県立美術館)で開催された展示会を観て、改めてそう思う。約70点の絵と向き合うことができた。

最も記憶に残ったのは「クリークの月」と題されたシリーズ。『莫愁湖-馬はみていた』の一連の絵だ。遠目には藍の染にも似た印象で美しくも写っていた。月そのものは描かれてなく、画面の上方に夜の空と遠景。その下に月の光を反射している白い湖面が大きく描かれ、画面の約下半分は暗闇の中に馬の顔や人の手などが描かれている。暗闇の中の馬の顔はどこまでも静かだが、どこか寂し気だ。人の手などにまじって赤い点も描かれている。
ちょうど会場で案内役をしていた友人が赤い点について説明してくれた。肩章なのだそうだ。軍服の肩についているものだ。暗闇の中には、銃剣を突きつけられて水に消え行く人のような絵もある。あるいは、白い布を掛けられ地をかきむしる人の手のように見える絵もある。ただ、具象画ではないので判然とはしない。
「莫愁湖」を調べてみた。中国南京市郊外の湖だ。ということは、これは南京事件前後の光景なのか。資料を繰ると、坂本氏は、1937年7月招集後朝鮮半島経由で中国に入り、北京、石家荘など転戦し11月杭州湾に上陸している。南京事件は12月だからつじつまは会う。




「坂本正直氏さんが語る『私のなかの風景』(聞き手 木村 麦)」の中に「言いようのない光景」とされる一節があるので引用してみたい。

 私たちは、南京、蕪湖、安慶、漢口、大治、九江、徳安、長沙近くと転戦し、中国で三年半を過ごしました。
 最初の正月は南京でした。
 日本軍は南京を方々から攻めていました。私たちの前の方で地雷がさく裂したり、皆殺気立っていました。南京には夕方着いて莫愁湖の近くに宿舎を定めました。あちこちに火災が見え、城壁の周りの堀を渡って多数の中国兵が逃げてくるのが見えました。ざん濠のなかには脳の出た死体がありましたし、周りにも生きているのか死んでいるのか分からない人間が横たわっていて 精神状態も荒れていました。
 その晩、歩哨に立っていて、突然目の前に現れた中国人を撃ってしまうのです。それなのに歩哨を交替した後、平気で眠ったと思うのです。そのとき月が出ていたのですが、どのくらいの月だったのかは分かりません。それが「クリークの月」です。弔いのような気持ちで描いています。



「めしを食いつつ見ていた」

戦争をテーマに絵を描くのは大変なことと思う。まして自身の体験を元にした絵だ。消し去ることもできない記憶の奥底に焼き付いているであろう光景だ。「クリークと月」の他に、よく知られている絵に「めしを食いつつ見ていた」という絵がある。画面下には飯盒が描かれ、上方にはちぎれて飛んできている手が大きく描かれている。爆弾でやられた手が飛んできても平気でご飯を食べている異常な精神を描いたのだ。

作品の並ぶ一角に、手描きの説明があった。漢口での戦闘が終わり、山岳戦に入る前のことのようだ。




  戦争(人間の命) 

人間の顔と体がするめいかのように
なって ボクボクとほこりのたつ道路に
へばりついていました。
その上を ほこりをかぶった軍用自動車が、十何台通過しました。
わたし共 小行李の兵隊と馬は
道路わきに しばらく立ったまま
でした。
出征して一年たった兵隊の
神経は平常ではなかったことは
たしかです
戦場で つくられてゆく精神状態が
どんなものあるかを描きたかった
のです       (中支戦線で)
                    坂本正直


香月泰男はシベリア抑留体験を元に『シベリア・シリーズ』で、望郷と鎮魂そして希望を描いたが、坂本正直は「普通の人々が、戦場においては、人をただの『モノ』としか見なくなる異常な精神を描き止めた。」のだと思う。
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