再び原点回帰なり!

未熟なビジネスマンの心のつぶやき

日本のエネルギー政策を考える(11):どうする再生可能エネルギー#2・技術論2

2011-06-12 10:33:13 | 日本のエネルギー政策を考える!

電力会社の「発送電分離」と「再生可能エネルギーの大量導入」とがどのように関連するのか。この議論は、今まであまり突っ込んで行われてこなかった。

その最大の原因は、どこにあったのか?

どのようなできた人間であっても、現状の自分自身の生活基盤を崩されることには抵抗するであろう。

極めて有能、優秀な人材が集まっている電力会社であっても、その摂理は変わることはない。発送電分離と言えば、電力会社を分割することとなってします。それに電力会社が積極的に議論へ参加するはずがない。

太陽光や風力発電からできる電気は、質が悪いことは前回述べた。そして、電気は発電したら即送電網を通して需要家に供給しなければ、その役割を果たせないことも述べた。

その質の悪い電気を大量に送電線に大量に導入すればどうなるか。これは電力供給の安定性を損なうこととなる。つまり、電圧のブレやひいては突然の停電などが起こってしまう。

このような状況を避け、電気を安定的に供給することが電力会社の第一の使命であり、戦後、日本の電力会社はこの使命を全うしてきた。このためにはたゆまぬ努力が必要だったと思うが、その事実にはまず国民すべては感謝すべきである。

ここで問題なのは質の悪い電気の量である。その量が一定割合であれば、電力会社としても、なんとかマネージできる。日本の電力会社と送電網は優秀・スマートなのである。

では、その割合はどの程度までか?この点になるとなかなか分かりにくい。また、電力会社も明確には示していない。技術的にここまでだったら大丈夫だと、純粋技術的にもなかなか示せないのかもしれない。

では、さらに割合を小さくするためには、もう一つ手があるではないか。割合を計算する分子だけに目を付けるのではなく、分母をもっと大きくすれば、結果として割合は小さくなる。

では、分母を大きくするとは、どういうことか。

東京電力は東京電力が供給義務のある関東地域のみの総需要量を分母として考えている。東北電力も、中部電力も、関西電力もしかり。

その限定されたエリアにおける安定供給を考えると、確かに質の悪い分子の量も小さくなる。もっと分母を大きく考えることができれば、質の悪い電気を送電網に流せる量も増えるはずである。

そのためには、送電線を9の電力会社が別々に管理するのではなく、日本全国一体として、少なくとも東日本と西日本の2ブロック程度で考えられないのか。

そのためには、発電送電の一貫経営をしている電力会社の送電網だけを独立させるというアイデアが生まれる。

すでに世界の電力供給における送電網のあり方からいうと、発電と送電の分離形態の方が主流となっている。

確かに日本の9電力の限定された供給エリアだけをミクロ的に見れば、そこでの送電網は効率的でありスマートであろう。ただし、日本全体で見た場合には、スマートと呼べるのだろうか。それをよりスマートにするには、という議論が今まであまりなされて来なかったのだ。

JRはかつて日本国有鉄道と呼ばれ、全国一律の経営にあった。それを6つの鉄道会社に分割した。分割した方が効率的であることは、その後の歴史が証明している。

では、そもそも9つに分かれている電力会社の方が効率的であり、全国あるいは東西などと統合すれば、かつての国鉄になるのではないか。

ただここでよく考えてもらいたい。国鉄はJRに分割されてから、東京から博多に向かう時、大阪で新幹線の列車を乗り換える必要ができたか。青函や関門トンネルの入口と出口で列車を乗り換える必要ができたか。会社は分割されても、鉄路は一つであり、その点でのわれわれの利便性はまったく損なわれていない。

今の電力網では、東京電力と東北電力を電気が通る時、その経路が一部に限定されており、列車に例えると順番待ちのため数時間待ちという感じ。また、富士川を超える時(50Hz60Hz変換)には、列車自体を乗り換える必要があるのと一緒である。

発送電分離の本質は、電力会社を単純に分断することではなく、JRの乗客に例えられる電気の利便性と融通性を高めることなのだ。そのためには送電網を誰がどう整備していくのか。ヘルツ問題も数十年かけて長期的には乗り越えたい問題ではないか。

この点からの議論と制度改革が、質の悪い電気である再生可能エネルギーの大量導入には、不可欠なのだ。

電力会社には、日本国全体の利益というマクロな視点での発想転換と積極的な議論への参加を期待したい。


日本のエネルギー政策を考える(10):どうする再生可能エネルギー#1・技術論

2011-06-05 11:30:20 | 日本のエネルギー政策を考える!

前回は総論として、現時点における再生可能エネルギー普及の最大のネックであるコスト負担論からスタートしたが、このコスト問題において、必ず出てくるのが、「だったら、大量に普及すればコストは下がる」という単純論理である。

このこと自体はまったく間違っておらず、過去の歴史においても、枚挙に暇がないほど同種の事例を挙げることができる。

直近では、コンピュータや薄型テレビなどであろうか。世界的な普及拡大で、おそろしい速度でコストが下がった。まだまだ、これからも下がる余地はあろうし、かつ安くなりつつ、性能が向上するところが驚きでもある。

一方、再生可能エネルギーはどうか。太陽光パネルや風力発電も、同様だという期待は一面では正しいが、どうしてもそこには電気供給という特殊問題が立ちはだかる。

電気は生産即消費、つまり在庫を持てない。この厳然たる事実をどう乗り越えるか、この点が他のコストダウン経験と異なるところである。

さらに、電気には質の問題も絡んでくる。電気は色も匂いもなく、もちろん目に見えないが、確かに質の違いはある。電気の質とは何か。

例えば、太陽光や風力発電による電気は、天気任せであり、風任せ。夜間の太陽光発電はゼロ。無風時の風力発電はゼロ。逆に台風時は風車が破壊されるので、発電量をゼロにする。

つまり、欲しい時に欲しい量がすぐに手に入らない。発電量も天気によって変動が激しく、需給調整を乱す。これが低質の電気と言われる所以である。

では、こうした低い品質の電気をどのように送電線に流し、最終需要家まで届けるか。

だからこそ電力会社は、安定的な電気供給を維持するためには、低質な電気の大量導入は避けたいと主張する。技術的に系統安定化を図るためには、一定割合以上は受入できないと言ってきた。つまりコストダウンを促すための大量導入戦略の抵抗勢力は、この電力会社による技術論に行きつく。この送配電の専門家である電力会社に、技術論で戦える人はまずいない。

だから、電力会社が駄目ならしかたがないねとなる。それ以上の知恵も発想もストップする。

例えば、需要家側に蓄電池を設置し、ある程度きまぐれな電気をきれいに整えれば、安定化は可能となるが、そのためには蓄電池のコストが明らかに増加する。また、蓄電池は電気のロスを発生させるため、100蓄電しても、70から80程度しか使うことができない。決して省エネにならない。

では蓄電がまだ駄目なら、送電網を強化すればという議論には、やはりそのコスト負担が不明瞭なままでは電力会社を説得できない。電力会社も株主による民間企業なのだから、利益を生まない無駄な投資などはできるはずがない。

だから苦肉の策として、需要側のスマート化(能動的需給管理)を推進することが必要だとなる。これをスマートグリッドと呼び、政府も民間もそこに大きなビジネスポテンシャルを期待している。電力会社は、皆で安定供給を考えてくれるのならと重い腰を上げる。上げたふりをしているだけといううがった見方もないことはない。

ここまでは2011311日午前中までのお話。

ここで今回の大震災。この不幸な出来事を機として、実はパンドラの箱は開けられつつあるのだ。

つまり、上記まで記してきたある意味常識的な見解は、ある大きな前提に立っていたのであり、その前提を覆すという大変革論には、誰も真正面から主張もできなし、議論すらできない状況があった。

これこそがわが国の再生可能エネルギーも含めたエネルギー政策上の大きな壁・障害であった。

日本と言う米国の一つの州であるカリフォルニア州程度の広さの国に、9の電力会社がそれぞれの地域を分担して存在している。

この9電力体制そのものがすべての前提条件として、暗黙的に認知されていたことは、実はあまり意識されていない。そのことが何を意味しているかも、なかなかエネルギーの専門家以外には見えない。専門家の中には、意識的に避けてきたい人も多々いる。

2000年代初頭に少しだけそうした議論が起こりかけたが、さまざまな力学によってたちまちしぼんでしまった。

発送電分離。この言葉と再生可能エネルギーの大量導入とがどう関連するか。

この点を明確に分かりやすく、偏見を持たず、しがらみもなく、長期的な日本の国益に沿って主張し、その主張を実行に移せる人がどれほど存在するか。

やっと志ある専門家がさまざまな呪縛から逃れて、本当の意味で国民的な議論ができるようになるかもしれない。

この点は震災という極めて大きな不幸の中での、数少ない光の一つとなることを今は心から祈っている。また、その議論の末席に位置する者として、新しい国づくりへの協力をしていきたいとも思っている。


日本のエネルギー政策を考える(9):どうする再生可能エネルギー#1・総論

2011-05-29 09:51:41 | 日本のエネルギー政策を考える!

いよいよというか、今話題のというか、私にとっては20年近く追いかけてきたテーマでもある再生可能エネルギーについて、今回以降何回かにわたって私見を述べたい。

今回の不幸な出来事が、日本の再生可能エネルギー政策について間違いなく追い風となるであろうが、古くからこの普及促進をビジネスとして展開すべきだと主張してきた者としては、今回のことが単なるブームとして終わらないことをまずは期待したい。

日本のエネルギー関連の現状と実情がある程度理解している人であれば、再生可能エネルギーを普及促進していくことが、それほど容易なことでないことが分かっている。

例えば、原発は危険だから、じゃあ再生可能エネルギーにしよう。というような簡単かつ単純な問題ではない。

現状のマスコミ等の論調は、そうした単純図式を煽るようなものが多く、それにつられて国民全体も全体として一定方向に扇動されているのではないか。

単なるポピュリズムで導入普及が進むほど、再生可能エネルギーは単純で甘くはない。

何と言っても、まずは発電コストの問題である。つまり、現時点で再生可能エネルギーを入れれば入れるほど、電力コストに占める発電コストの割合は間違いなく高くなる。

ということは、このコストを何らかの形で誰かが負担することでしか、普及が進まない。こうしたコスト負担論を抜きにした再生可能エネルギー礼賛論が多すぎる。

一方、コストを下げるためには、普及を進めなければならないのも事実であり、このバランスが難しいところである。

1990年代から、再生可能エネルギーの普及政策としては、初期投資への補助金付与というのが一般的であり、今でもこの政策が最も有効なものの一つであることに変わりはない。

また20034月に施行されたRPS法(電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法)は、ある意味日本の再生可能エネルギー普及政策としては、画期的だったと今でも信じている。

だからこそ、誰よりも早くこの政策を活用したビジネスモデルを世に問うという決断もした。

結果として、その挑戦の大失敗は、私自身の経営者としてのリスク管理能力の不足に起因しているが、一方でこの法律の大きな欠陥にも気付かされることとなった。

この画期的と信じた法律の問題は、一口で言えば、前述したような再生可能エネルギーによるコストアップをすべて電力会社の経営努力に委ねたところにある。本来は電気を使用する国民全体での負担にすべきところを、そうしなかったのか、あるいはできなかったのかは定かでないが、いずれにしても一民間企業に過ぎない電力会社に負担させるスキームであったことが最大の欠陥であった。

今、議論されている再生可能エネルギーの全量買取制度では、このコスト増分を電力料金として受益者負担としている。私は個人的にはRPS法の改正によって、コスト負担において国民負担を入れる方が、法律の主旨から、また中長期的な普及促進効果から言っても、優れている政策だといまだに信じている。

RPS法の良いところは、市場機能を活用しつつ、その結果としての導入量をあらかじめ確定できる点である。全量買取では、導入量はなりゆき任せになり、結果として再生可能エネルギーの市場が育たないリスクがある。そうなれば、やはり結果として再生可能エネルギーの発電コストダウンにつながらず、新産業も起こらないことになるのではないか。

民主党政権になって、今まで自民党時代のものとは違った形でやろうということで始まった全量買取であるが、これさえもなかなか決まらないていたらくな現状を見ていると、本当に民主党案でいいのだろうか、おそらく良くないのではないかと最近確信を持つようになってきた。

そもそも原発反対の人間が多くいる民主党に、この国の将来に大きな影響を与えざるを得ないエネルギー政策の見直しを任せてもいいのだろうか。

いや良くない!というのが、今の偽らざる気持ちである。

じゃあ誰が日本のエネルギー政策全体を主導できるのか。そう思うと、はなはだ心もとなく、無力感に襲われるばかりである。なんとかしなくては・・・・・。


日本のエネルギー政策を考える(8):どうする化石燃料#3・天然ガス

2011-05-21 12:09:34 | 日本のエネルギー政策を考える!

想定外というか、図らずもというか、今後のわが国のエネルギー政策上、原子力発電の役割の低下を避けることはできないであろう。

そうなると、その低下分をいかに補填していくか。それが当面のエネルギー政策上、大変大きな課題となる。

もちろん、大幅な省エネや節電は強化していくものの、供給側での解決策として最も確実かつ早期に実現性が高いものは、天然ガスの利用拡大である。おそらくその考え方に大きく異論を唱える者はいないのではないか。

何よりも天然ガスは、温室効果ガスの排出量という視点から言っても、化石燃料中、最も優等生だからである。石炭などに比べると、約4割も排出量が少ない。

ただし、天然ガスも化石燃料である以上は、その埋蔵量に限界があり、価格の変動もさまざまな国際情勢に左右され、その意味で石炭や石油と同じではある。

ただ最近、エネルギー業界関係者の間で急速に注目度が高まっているのが、新しい天然ガスである。「シェールガス」や「炭層ガス」と呼ばれる新型、非在来型の天然ガスは、硬い岩盤層や石炭層に閉じ込められたもので、原油価格の高騰や世界的なエネルギー需要増に対応するために、それらの開発が加速され始めている。

この新型ガスの採れるガス田開発は、米国に端を発し、その後、中国、欧州、インドネシア、オーストラリア、インドなどで、世界各地で急速に進められている。

この新型ガスの総埋蔵量はまだ正確には分かっていないが、従来型ガス以上に膨大な量がありそうだとの大きな期待が高まっている。また、このガスの利点は、その埋蔵地域が、中東などに偏在することなく、あまねく世界にありそうだということ。これはエネルギー安全保障上、極めて重要である。

わが国としても、こうした世界市場でのガス田の開発競争に乗り遅れることなく、自国のエネルギー安定供給のために、新型ガス田の上流権益の確保や輸入源の分散化など、戦略的かつ迅速な意思決定とアクションが求められている。

図らずも起こった原発の不幸を乗り越える意味でも、早期のエネルギー政策の転換とその政策に基づいた具体的な行動計画と予算措置が必要である。

いずれにしても、21世紀の半ば頃までは、天然ガスの上手な確保と利活用によって、低炭素化を維持しつつ、供給サイドの安定化を図っていくことになるであろう。


日本のエネルギー政策を考える(7):どうする化石燃料#2・石油

2011-05-15 10:14:40 | 日本のエネルギー政策を考える!

今回は石油について概観したい。

そもそも石油は、石炭などと異なり、実にさまざまな用途がある便利な資源であるが、その元となる原油は、ほぼ100%が輸入である。

その用途としては、大きくは燃料油と化学用原料として使われるが、2009年度では燃料油が約80%占めている。

燃料油の国内需要は、オイルショック後もある程度一定の水準(2kl)を保ってきたが、2009年度にはその水準を下回り、かつその中の用途構成は大きく変貌を遂げている。

つまり、1973年の第一次オイルショック時における燃料油に占めるガソリン(自動車燃料)の割合は約12%に過ぎないが、2009年度では約30%まで拡大している。

また、発電用や産業用の重油(ABC)については、1973年度で約60%であったものが、2009年度では約15%と減少している。

つまり、国策でもある「脱石油」によって、産業分野や民生・業務分野で石油から石炭・天然ガスへの燃料転換が進展してきたのである。

最近の石油産業固有の問題は、まずはCO2を始めとした温暖化効果ガス削減に寄与しにくいこと、国内需要は減退が著しいこと、そもそも石油産業自体の構造が脆弱であると言われている。

この構造が脆弱であることというのは、実は日本の石油産業発展の歴史にも大いに関連するところであるが、端的に言えば、国内石油産業の「上流」と「下流」が分断されていることである。

つまり、石油精製と石油化学が分断され発展してきたこと、また石油ビジネスと天然ガスビジネスも別物として発展してきたことなどがあげられる。これは元を質せば、1962年の石油業法による国家的な産業統制政策が大きいと言われている。原則論として、国家的な統制により企業の自由な活動は制限され、結果的には企業の自由な発展が阻害されるということは正しい。

いずれにしても、国内の石油関連企業には、世界の市場で互角に戦える石油エネルギー企業が存在せず、このことが日本のエネルギーセキュリティ上も大きな問題となっている。

石油という化石燃料は、その源泉である油田地域が、中東などの地球上の特定地域に偏在している。そもそもそのことが石油における最も大きな問題であり、現在でもわが国はそのリスクからはまったく回避できていない。

所謂、原油輸入量の中東依存度は、1973年度で92%であったものが、80年代中盤では70%程度まで低下したものの、2000年に入ってからは8590%の高水準を維持している。つまり、世界的に政情が極めて不安定な地域や国に、われわれの重要なエネルギー源の元を握られている。日本国民の殺生与奪権が彼らにあるのである。

これからの日本のエネルギー政策として、やはりこの状態を放置することは、エネルギー安全保障上、極めて問題であろう。

少なくとも電気エネルギーを作る燃料としての石油の役割は、非常用のバックアップ電源としてのみ明確に位置づけ、その代替策を積極的に採っていくべきである。

石油業界の方々は、石油の埋蔵量はまだまだある、ピークアウトはまだ相当先であると主張するが、そのことが事実であるかどうかよりも、むしろ日本国民のセキュリティの面において、石油燃料の依存から早期に脱却をしていくべきである。

ただし、石油には備蓄できるという石油独自の特性があり、その特性を活かした重要な役割も残されており、そのためにも有限の石油資源をできるだけ有効かつ大切に使っていきたいものである。

石器時代が終焉したのは、石がなくなったからではない。石油もまったく同じことが言えるのではないだろうか。