再び原点回帰なり!

未熟なビジネスマンの心のつぶやき

COP16における公平性の争点

2010-12-04 11:01:55 | コラム

先月末からメキシコにて始まった気候変動枠組条約・第16回締約国会議(COP16)も中盤に差し掛かっている。

今回の最大のテーマは、昨年のCOP15での積み残しである「ポスト京都」の枠組みとルール決めである。

単純な京都議定書の延長論が出ている中、米国、中国、インドなど、当議定書で削減義務のない排出大国を含めた合意とするか、これが最大の争点となっている。

その合意に至るためのキィーワードは、各国の「公平性」であると思う。

それぞれの国家の思惑の絡んだ中で、どのように国家間の「公平性」を保つのか。極めて難しい問題ではある。

私は、そもそもこの問題解決の起点は、われわれ自身が人類という共通の生物種であり、公平性はその地平から考えるべきものだと思う。つまり、先進国であろうが、途上国であろうが、大前提として人間一人ひとりは、この地球上で暮らす以上、同等の権利と義務を持つということ。

その前提から敷衍するに、温暖化問題は、一人当たりの排出許容量という発想からスタートすべきではないか。

ただし、CO2に代表される温室効果ガス(GHG)は、人間の諸活動の結果的な産物であり、その結果としての排出量によって公平性を議論することにはかなりの無理がある。むしろ、その結果を生み出す原因の公平性、つまり、まずはGHGの最大要因である「エネルギーの使用量」の公平性を考えることではないだろうか。

一人当たりのエネルギー使用量であれば、共通の単位として、熱量(ジュール)や原油換算(KL)などを用いれば、公平性が定量的になり分かりやすくなる。つまり、各国は地球上の資源であるエネルギーを同等に使える権利を持つということである。

GHGの議論が複雑になるのは、その使うエネルギーの種別や使い方によって、GHGの排出量が異なってくることであり、ここに国ごとが置かれた地勢的・経済的・歴史的等の諸事情が絡む。

今回のCOPでは、もう一度、原点に立ち返って公平性を考える時ではないか。

そうした前提に立てば、一人当たりのエネルギー使用量がまだまだ先進国に比べると低いレベルにある中国やインドなどの途上国が単純な排出量規制に同意できない理由がもっともだと理解できる。

同じ排出大国だからと言って、米国と中国を同じ枠組ではあっても、同じルールで規制することは、やはりおかしい。とは言うものの中国やインドがまったく無規制であって良いというものでもない。

途上国としての何らかの抑制スキームと効率化の義務などを決めるべきである。もちろん、その前提として、先進国は率先して一人当たりのエネルギー使用量をあるレベルまで引き下げる義務を認めることである。でなければ、途上国を納得させることは難しい。

今の日本政府の立場は、米国や中国の排出大国を含めない京都議定書の単純延長は認められないというもの。それは日本の国益を考えれば、当たり前のことではあるが、同時にならばどういうルールであれば米国や中国、特に途上国が合意するのか。そのソリューション案としての日本としての提案が欲しい。

おそらく水面下では政府の関係者がご尽力されていることであろうが、少なくともわれわれ一般人には、その動きも姿勢も、そして何よりもこの温暖化問題は日本が仕切るぞという覚悟も情熱も感じなれないのは、私だけでしょうか。

今回のような国益が大きく絡む国際交渉の場では、いかにして「仕切り役」となるかが重要である。EUや途上国に仕切られて、そこから出てくる裁定案を受身的に待つのではなく、自ら積極的にあるべき姿を示し続ける。

それこそが地球益を背負ったリーダーの役割となる。

もうすでに、日本は坂の上の雲を追いかける「小さな国」ではない。自らが輝ける坂の上の雲となるべき存在なのだということを自覚し、覚悟すべき時ではないだろうか。

そうした気概ある思考と行動のみが、経済的にも再び輝ける日本を取り戻す唯一の道ではないかと考える次第である。


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