ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

着付け

2006-07-03 | なんでもないこと
ゆかたをひとりで着始めたのは
小学生から中学生になった頃だったと思う。

オレンジ色の半幅帯だった。

その頃の私にとって、
着物というのは 夏の浴衣のことだった。



姉が高校生になった年の暮れ、
私たち姉妹に 母はウールのアンサンブルを作ってくれた。

私の中で 着物とゆかたは 違うものになった。

着付けは 簡単なものなら なんとか自分でできた。

着崩れたら、脱げばいいのだから。



その後 
日本は高度成長の波が農村部にまで及び、
収入は増えたが 
インフレもものすごく、
父は貯金というものをバカにして
まったく、本当にまったくしなかった。

母は どうせお金を使うのなら、と
父が浪費する前に 
娘の私たちに着物をこしらえようと
せっせとヘソクリを貯めては
呉服屋へ出かけた。

もっとお金持ちのお得意さんだったら
呉服屋の方から訪問してくれるらしいが
学費にお金のかかる時期のこと、
そうそうへそくりも貯まるはずもなく、
それでもめげずに 
母は 一枚 一枚 
私たちの着物をふやしていってくれた。

自分が結婚した頃の年齢に 姉がなっていったので
嫁入り道具、のつもりだったようだ。

いざ結婚、となった時に
半年や一年で あれもこれも、とは 揃えてはやれないから。

そういう言い訳もあって
母は 着物を誂える喜びを味わっていた。

そんな母に同行して
呉服屋や 染物屋ののれんをくぐって
私も結構楽しんでいた。



東京に下宿する大学生になってからも
二十歳になるころまでは頻繁に実家に帰った。

実家に帰れば
夏休みには ゆかた、
正月には 袷(あわせ)を着るようになった。

母は どうしてもうまくいかない部分があるので
公民館主催の着付け教室に何度か通い、
着付けの腕は相当上達した。

私の着付けの腕も 母に鍛えられて(?)
少しは手際が良くなった。

母の着付けは 決して、きつくない。

けれど、決して、着崩れない。

楽で、キレイで、晴れがましい気分になれて、
着物を着る、それだけで嬉しく 楽しかった。



二十歳を過ぎた頃には
あまり実家に帰らなくなった。

そのまま東京で就職し、
ますます実家に帰る日は減った。

当然、着物を着る機会も減り、
減れば着るのが億劫になり、
どんどん着物との縁が遠くなった。

母は 相変わらず 呉服屋に行っては
今度は私の嫁入り支度を整えていた。

近所の息子さんの‘たて仲人’を引き受けた時には
結納の時や あいさつ回りの時など
花嫁に着付けをしてあげて
喜ばれては嬉しがっていた。

(ただし仲人はこれ一回きりだった。)



私が結婚をしたのは
母が結婚した年齢より、そして 姉が結婚した年齢よりも
だいぶ遅くなった。

そして その頃には すっかりシティーガール(爆)になっていた私は
着物というものを 
すっかり忘れていた。

「せっかぐ こしぇーで(=こしらえて)やったのに。」

自分で着られないんだから、しょうがないじゃない。



同じイバラキ県人と結婚することになったが
仲人は東京の人、招待客もほとんど東京、
披露宴は都内ですることになった。

結納は東京で行い、結婚披露宴をする会場の美容室で着付けてもらった。

きつかったけど、緊張していたので乗り切れた。

結納のあとで
私の実家から 亭主の実家へ 桐のタンスが運ばれ、
着物は 田んぼの中から 山の中へ移動した。



義母に着付けてもらう最初の機会は
新婚旅行から帰ってきたすぐ後の
近所への挨拶の時だった。

この頃は 義母もまだ 着付けは下手で、
自分のは着付けられるんだけど、という状態だった。

その後 
義母は 通信教育で着付けの免状を取った。

通信教育だと、
一定期間のスクーリングがある。

夏の暑い時期、
都内に泊り込んで 学校に通ったのだが
その時 義母は風邪を引いて熱を出しつつ
気力で頑張りとおして 資格を取った。

これは
自分で着る、
人に着せる、
それから 説明しながら人に着せる、などなど、
所要時間も何分と決められた
やはりそれなりに高度なテクニックを必要とした資格だったようだ。

紋付・袴のほか、裃も着付けられる、と
義母は言っていた。



すると それまでの いい加減な着付けではなくなってしまい、
私には手が出せなくなった。

着付けは 着ている本人も 自分の前の部分は
手伝える。

私も少しは自分でやれていた(はず)。

それが
義母のやり方が変わり
私には何が何やらわからなくなったのだった。



子どもが生まれた後には
何回か 着物を着る機会があり、
洋装だとウエストが合わなくなってしまっている私は
手持ちの和服が経済的。

そのたびに義母に着付けてもらったが
私は ただ カカシのように 突っ立っているだけになった。

義母の着付けは 実家の母の着付けとは違い、かなり苦しいのだった。

そして 子どもが成長してからは
着物というものがこの世にあることを忘れていた。



義母の急死の知らせを聞いて
私は喪服の準備をしたが
長じゅばんを持っていかなかった。

着物というものを忘れていたので
どれが長じゅばんかを忘れてしまっていたのだ。

そういえば
仲人が亡くなった時には
父はまだ生きていて

結婚するときに誂えた喪服を
自分の親の葬式ではない時に着ることができるのは
いいことだ、
と 義母は喜んでいたっけ。

あの時は
東京にいくらか近い我が家に 義父母に来てもらい、
義母には留守番と子どもたちを頼み、
喪服を着付けてもらって
義父と亭主と三人で出かけたのだった。

あの時も
喪服はきっちりとしていて 少しの着崩れもなかった。

苦しかったけど。



義母の葬儀は
斎場が空くまで待つことになり、
時間の余裕ができたので
亭主は一度 
修理中のワンボックスの代車として借りていた
ワゴンRを運転して家に戻り、
自動車屋のアニキに返した。

やりかけの仕事をきっちりやり終えてから
修理を済ませたワンボックスで
もう一度実家に来る時に
亭主に 私の長じゅばんを持ってきてもらった。

置いてある場所がハッキリわかって
亭主に説明できたから、持ってきてもらえた。

長じゅばんを触っていながら、
これじゃない、と 脇へのけておいたのだ。

父の葬儀の時には ちゃんと準備して持っていけたのに。

着物を忘れるにもほどがある(涙)。