ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

倫理・道徳・品格・武士道(1)

2007-05-14 | 考えたこと
忠恕のこころ、と呼ぶ人もいる、
ヒトに なくてはならない、思いやりの心。

思いやりを失くしては 生きていく資格がないとする、道徳観。

あるいは、

だらけた部分とそうでない部分、
公と私、ハレとケ、表と裏に
区別をつけ、ケジメをつけ、メリハリをつける生き方。

そんなものが
なんだか 最近 どこかへ行っちゃったなあ、と 
ここんとこ数年来、ずっと思っていた。

言葉足らずになることを恐れずに 
頭の中でムジュムジュと考えていることを
文字に変換してみよう。




花が咲き出したので 家の中に入れ、
ミニ胡蝶蘭をどかして事務所の一等地に置いた 丁子草。
ここがお客さまの目の前、一番良く見える場所。



というか、最近 様々なところで
私の頭の中のムジュムジュと同じようなことを
それぞれの人が いろんな言葉で発信しているのに
出くわすことが増えた(ような気がする)。

つまりこれは
私と同じように感じている日本人がたくさんいる、
ということではないかな?

『武士道』というお札の顔になったことのあるオジチャンの
古い古い本が
ベストセラーになったり

『国家の品格』なんていう、
ちょっと前だったら絶対売れないようなタイトルの本が
昨年の年間を通じてのベストセラーになったり

これらは つまり 大勢の人が

ちょっと今の日本、おかしいゾ、
昔の方が正しかったかも知れないゾ、
進む方向が 違ってるかもしれないゾ、
今のままでは ちとヤバイゾ、

と 振り返ったり 反省したりし始めてる証拠じゃないかな?



上手くいえないから
ちょっとずるいけど 
いろんな人が言ったり書いたりしたものを
集めてみたいと思っている。

見つけたら その都度 
私の窓に掲示してみようと思う。

だから、タイトルに(1)と付けてみた。

さて、これから どうなるかな?(笑)




黄緑色の葉に 薄紫の花。はかなげだけど、思いのほか丈夫。



エジプト考古学の吉村作治氏。

「衣食足りて 礼節を知る」
という言葉があるが、
氏は
「礼節を知って、衣食が足りる」のだ、と言う。



日本がアメリカに負けたのは
精神力の敗北ではなく、モノを持たなかったから負けた、と
日本は勘違いをした、と語る。

(いや、モノがなかったから負けた、とは思うけどね。

 でも一番の原因は 
 戦争を始めてしまった指導者のモノを見る目、冷静な判断、
 戦争を止めさせられなかった人たちの指導力の欠如か?)

とにかくそれで、
日本は 
「とにかく、モノだ!」
という考えにスイッチしてしまったのだと 氏は言う。

お腹一杯 食べ物を食べたい、
いい服を着たい、
美味しいものを食べたい、
確かに 一時期 それらが幸福を運んでくれた、
とは思うけれど。



氏は 戦後 物質一辺倒でやってきたことを
今 もう一度 スイッチを切り替えるべき時期に来ている、とする。

精神のありかを問い直せ、
そして
礼節を知れ、と。(サークルアーツ 増刊103号)



精神の在処。

忘れてしまっているかも。

礼節。

失くしてしまったかも。

とにかく、面倒なことは全部
古いもの、遅れたもの、要らないもの、悪いものだとして
かなぐり捨てて 走ってきたような気がする。



その頃は 
走っていく先にあるものは明るい未来で 
楽しいことばかりがあるような気がしてたんだけど。

ラクして、面倒がなくて、楽しい。

人間関係でも、モノ作りの手間でも。

それが正しいことだと思っていたし
「アメリカ的」なことだと思っていたような気がする。

私たちは 正しくて輝かしい未来に向かって
突き進んできたはずだった。



どこで間違えたんだろう?

それとも、最初から方角を間違えてきちゃったのかな?

礼節って、面倒で要らないモノじゃなかったのかな?

道を間違えたのなら 来た道を戻るとか
本来の道の方へ行き先を変更するとか舵をとりなおすとか

方法はきっとあるはず。

・・・・・・そうすれば 全ての人がシアワセになれるのかな?







それから、
これは 私から、
宗教教育について、ちょっとだけ。

従来、
日本において 
宗教教育というものは
道徳教育と同じく、家族が担っていた。
(おっと、近所もだね。)

それが なし崩しにされたのが 戦後日本の姿だ。

「先生、どうして、人を殺しちゃいけないんですか?」

この問いに答えられない教育者を育ててきた、

それが この 戦後日本の 宗教教育なのだ。

けれど私は この問いに 自信を持って答える自分を
想像できないでいる。