いや~~、野茂が引退したねえ。
その前に、桑田も引退したよぉ。
高校野球の地区予選も、熱戦が続いているねぇ。
息子の母校は1回戦敗退、
イバラキの 亭主の母校も 私の母校も
準々決勝まで進むことができなかった(怒!)
今夏 もはや 私の楽しみは
「復活した常総学院の木内監督がどこまでやるか?!」だ(爆)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/09/3fda73572892046df53de1fae70c07c5.jpg)
タイトルの「K・K」とは、
一部の人には常識の、プロ野球選手の 桑田&清原のこと。
このふたり、PK学園の頃には 超高校級、といわれて
凄く注目されていた。
それだけじゃなくて、K・Kは実績も残していた。
何しろ、高校在学中には
甲子園の夏の大会には毎年決勝戦まで行き、
そのうち 2度の優勝。
すごいじゃないか。
高校1年で、レギュラーで、夏の甲子園で優勝したなんて。
3年でも優勝。
2年のときは、準優勝。
つまり、3度の夏の大会では
2年のときの決勝戦で ただ一度 負けただけだった。
その時の相手とは・・・・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/1c/538560f63684f9fae4a4eb8141fc1a42.jpg)
取手二高というのを・・・ご存知だろうか?(汗)
イバラキの県南にある。
昔は女子校だった。
野球なんて、強くなかった。
でも なんだか 強くなった時期があって。
現在 常総学院を率いる木内幸男氏(77)が
監督をしていた時だった。
私はイバラキの県南の出身である。
亭主の昔の職場には 当時 取手二高の野球部出身という人がいたそうだ。
当然、夫婦で応援するでしょ。
それぞれの場所で。 覚えてないケド。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/b0/300d26121988f49cfa13a1cd90fd1bcf.jpg)
取手二高と PL学園の決勝戦があったのは、
昭和59年8月21日。
当時、
セミプロ集団と称され、
日本中の良い選手が集まって来るPL学園は
強かったからからこそ、憎まれ役で、
県立の弱小(だと私は信じているのだが)取手二高が挑む相手としては
あまりに巨大なイメージがあった。
その取手二高が PLに勝った!
快哉!!!!!!
その時の興奮と シンジラレナイくらいの喜びは
今も記憶にあり、
だから 子ども達にも その時の話を 何度か聞かせてきた。
馬鹿な親!(爆)
整列の時間になっても、あいつら、喜んでて、
グラウンドの中で はしゃいで、飛び跳ね回っててよ、
なかなか整列しないもんだからよ、
審判に注意されてんのよ。
早く整列しろなんて注意されてんのなんか、
見たことねえよな。
こんな話をしていると
亭主も興奮してくるのだった。
それがよ、あいつら、バカばっかりだからよ、
プロの野球選手になんか、なれねえのばっかりなんだよ。
「卒業後の進路は?」なんてインタビューで聞かれてもよ、
「実家の○○屋の跡を継ぎます!」なんつってよ。
甲子園で優勝したヤツらなのによ。
確か、ひとりくらい、プロになった選手がいたと思ったなあ。
その、「ひとり」が、この人だったのか?(→サンスポ)
優勝投手の、石田文樹氏。(→読売新聞 茨城版)
あの時、はしゃいでいて なかなか整列しなかったひとりだよね(泣笑)。
石田クン。
あの時は、楽しい思いを、ありがとう。
胸がスッとする思い出を、ありがとう。
ご子息が 神奈川県大会で投げてるそうですね。
ご冥福を祈ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/46/243c050c8ad89e94b703dacaaa6bc855.jpg)
「天井の竜 動き出す 大暑かな」 下川冨士子
今日は 大暑。
その前に、桑田も引退したよぉ。
高校野球の地区予選も、熱戦が続いているねぇ。
息子の母校は1回戦敗退、
イバラキの 亭主の母校も 私の母校も
準々決勝まで進むことができなかった(怒!)
今夏 もはや 私の楽しみは
「復活した常総学院の木内監督がどこまでやるか?!」だ(爆)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/09/3fda73572892046df53de1fae70c07c5.jpg)
タイトルの「K・K」とは、
一部の人には常識の、プロ野球選手の 桑田&清原のこと。
このふたり、PK学園の頃には 超高校級、といわれて
凄く注目されていた。
それだけじゃなくて、K・Kは実績も残していた。
何しろ、高校在学中には
甲子園の夏の大会には毎年決勝戦まで行き、
そのうち 2度の優勝。
すごいじゃないか。
高校1年で、レギュラーで、夏の甲子園で優勝したなんて。
3年でも優勝。
2年のときは、準優勝。
つまり、3度の夏の大会では
2年のときの決勝戦で ただ一度 負けただけだった。
その時の相手とは・・・・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/1c/538560f63684f9fae4a4eb8141fc1a42.jpg)
取手二高というのを・・・ご存知だろうか?(汗)
イバラキの県南にある。
昔は女子校だった。
野球なんて、強くなかった。
でも なんだか 強くなった時期があって。
現在 常総学院を率いる木内幸男氏(77)が
監督をしていた時だった。
私はイバラキの県南の出身である。
亭主の昔の職場には 当時 取手二高の野球部出身という人がいたそうだ。
当然、夫婦で応援するでしょ。
それぞれの場所で。 覚えてないケド。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/b0/300d26121988f49cfa13a1cd90fd1bcf.jpg)
取手二高と PL学園の決勝戦があったのは、
昭和59年8月21日。
当時、
セミプロ集団と称され、
日本中の良い選手が集まって来るPL学園は
強かったからからこそ、憎まれ役で、
県立の弱小(だと私は信じているのだが)取手二高が挑む相手としては
あまりに巨大なイメージがあった。
その取手二高が PLに勝った!
快哉!!!!!!
その時の興奮と シンジラレナイくらいの喜びは
今も記憶にあり、
だから 子ども達にも その時の話を 何度か聞かせてきた。
馬鹿な親!(爆)
整列の時間になっても、あいつら、喜んでて、
グラウンドの中で はしゃいで、飛び跳ね回っててよ、
なかなか整列しないもんだからよ、
審判に注意されてんのよ。
早く整列しろなんて注意されてんのなんか、
見たことねえよな。
こんな話をしていると
亭主も興奮してくるのだった。
それがよ、あいつら、バカばっかりだからよ、
プロの野球選手になんか、なれねえのばっかりなんだよ。
「卒業後の進路は?」なんてインタビューで聞かれてもよ、
「実家の○○屋の跡を継ぎます!」なんつってよ。
甲子園で優勝したヤツらなのによ。
確か、ひとりくらい、プロになった選手がいたと思ったなあ。
その、「ひとり」が、この人だったのか?(→サンスポ)
優勝投手の、石田文樹氏。(→読売新聞 茨城版)
あの時、はしゃいでいて なかなか整列しなかったひとりだよね(泣笑)。
石田クン。
あの時は、楽しい思いを、ありがとう。
胸がスッとする思い出を、ありがとう。
ご子息が 神奈川県大会で投げてるそうですね。
ご冥福を祈ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/46/243c050c8ad89e94b703dacaaa6bc855.jpg)
「天井の竜 動き出す 大暑かな」 下川冨士子
今日は 大暑。