埼玉県深谷市にある
吉祥寺の住職のブログ
イチョウの下のよもやま話
仏名会 その11
次神分
抑(そもそも) 仏名懺悔の庭、滅罪拝経の砌(みぎり) 等
但第三日目、抑も三箇日 仏名懺悔の庭等
次霊分
登霞聖霊、大師等聖霊、成等正覚の奉(おん)為に
釈迦牟尼宝号 丁
次祈願
天皇陛下宝祚万歳の奉(おん)為に
薬師宝号 丁
伽藍安穏、興隆仏法、諸徳大衆、善願円満の為に
観音宝号 丁
乃至法界平等利益の為に
妙法経名 丁
文殊宝号 丁
次勧請
敬礼十方三世仏 仏名教主釈迦尊
一万三千諸善逝 滅罪生善仏名経
宝達喜王諸聖衆 還念本誓来影向
次香炉を置き経を取りて題を揚ぐ 表紙開否二説
南無仏説仏名経 南無滅罪生善仏名経
南無仏説仏名経 南無滅罪生善仏名経
経置否二節
次如意を取り仏名を申す
南無帰命頂礼 万三千善逝 還念本誓来影向
次教化
一日
一心の誠を凝して 法主三劫の仏をぞ拝み給いける。
能札所礼性空なれば 感応道交しぬらんこそ 覚えれ。
二日
仏名懺悔の筵(えん)を思えば 喜王菩薩の誓いぞたのもしき。
現在賢劫の仏にそえて 利益人天のためしを留め給いければこそありけれ。
三日
一心に思いを凝らして 法主三劫の諸仏を招き奉り給えば、
八難を離れて 速やかに四八妙相を備え給うべきものにぞありける。
今日は、ここまで!
抑(そもそも) 仏名懺悔の庭、滅罪拝経の砌(みぎり) 等
但第三日目、抑も三箇日 仏名懺悔の庭等
次霊分
登霞聖霊、大師等聖霊、成等正覚の奉(おん)為に
釈迦牟尼宝号 丁
次祈願
天皇陛下宝祚万歳の奉(おん)為に
薬師宝号 丁
伽藍安穏、興隆仏法、諸徳大衆、善願円満の為に
観音宝号 丁
乃至法界平等利益の為に
妙法経名 丁
文殊宝号 丁
次勧請
敬礼十方三世仏 仏名教主釈迦尊
一万三千諸善逝 滅罪生善仏名経
宝達喜王諸聖衆 還念本誓来影向
次香炉を置き経を取りて題を揚ぐ 表紙開否二説
南無仏説仏名経 南無滅罪生善仏名経
南無仏説仏名経 南無滅罪生善仏名経
経置否二節
次如意を取り仏名を申す
南無帰命頂礼 万三千善逝 還念本誓来影向
次教化
一日
一心の誠を凝して 法主三劫の仏をぞ拝み給いける。
能札所礼性空なれば 感応道交しぬらんこそ 覚えれ。
二日
仏名懺悔の筵(えん)を思えば 喜王菩薩の誓いぞたのもしき。
現在賢劫の仏にそえて 利益人天のためしを留め給いければこそありけれ。
三日
一心に思いを凝らして 法主三劫の諸仏を招き奉り給えば、
八難を離れて 速やかに四八妙相を備え給うべきものにぞありける。
今日は、ここまで!
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仏名会 その10
法要次第
1、台門行要抄
仏名会導師作法
先礼仏頌
当願衆生 得無碍眼 見一切仏
唯願如来哀愍我 当今都見大悲身 三業無倦奉仕尊 速出生死帰真際
次三礼対懟 本儀法要、唄・散華・薬師梵音。仏名有り
次表白
謹み敬って、三身即一釈迦牟尼如来・十二上願医王薄伽・
一万三千諸仏善逝・十方三世応正等覚者・滅罪生善仏名妙典・
八万十二権実聖教・宝達喜王等の諸大菩薩・迦葉阿難等の諸賢聖衆、
総じては仏眼所照塵数世界海の現不現前の三宝の願海を驚かして
白して言さく。
方に今
当寺恒例の斎会と為して、仏名懺悔の梵筵を展ぶる事あり。
其の趣旨如何となれば夫れ
我等無明の眼り一たび起きて、長夜の夢永く結びより以来、
結業無蔓として冥より冥に入り、
塵労浩然として迷より迷に還る。
加之
十悪五逆悪として 造らずと云うこと無く、
謗法闡提罪として犯さずと云うこと莫し。
悲しいかな、現生後に鎮えに苦悩を受けんこと。
傷いかな、将来世に永く出離を忘れたること。
爰に我が大師釈尊、此の倒惑を愍みて、以って滅罪の経文を宣べ、
其の沈没を哀んで、以って礼仏の方軌を留めたまえり。
したがって之を修すれば忽ちに衆罪の霜を拂い、
信じて之を行ずれば自から九品の蓮に託す。
仏語は誠謗なり。
誰か帰せざらん。
但し罪業は重縁より生ず。
懺悔は須らく重心を用ゆべし。
山岳を移すに非ずんば 焉んぞ紅海を塡ん。
宜く事理の一心を専らにして、過現の衆罪を懺すべし。
嗚呼一息追わざれば千載永く徂く。
前路遥遠にして資量有ること無し。
冥使追め来る。
怖る心何ぞ緩まん。
仰ぎ願わくは
一万三千諸仏善逝、互いに哀愍を垂れて此の誠を照見したまえ。
凡そ厥の貴賤の檀王、結縁の霊寺、
各々苦域を出て有縁無縁平等に利益せん。
今日は、ここまで!
1、台門行要抄
仏名会導師作法
先礼仏頌
当願衆生 得無碍眼 見一切仏
唯願如来哀愍我 当今都見大悲身 三業無倦奉仕尊 速出生死帰真際
次三礼対懟 本儀法要、唄・散華・薬師梵音。仏名有り
次表白
謹み敬って、三身即一釈迦牟尼如来・十二上願医王薄伽・
一万三千諸仏善逝・十方三世応正等覚者・滅罪生善仏名妙典・
八万十二権実聖教・宝達喜王等の諸大菩薩・迦葉阿難等の諸賢聖衆、
総じては仏眼所照塵数世界海の現不現前の三宝の願海を驚かして
白して言さく。
方に今
当寺恒例の斎会と為して、仏名懺悔の梵筵を展ぶる事あり。
其の趣旨如何となれば夫れ
我等無明の眼り一たび起きて、長夜の夢永く結びより以来、
結業無蔓として冥より冥に入り、
塵労浩然として迷より迷に還る。
加之
十悪五逆悪として 造らずと云うこと無く、
謗法闡提罪として犯さずと云うこと莫し。
悲しいかな、現生後に鎮えに苦悩を受けんこと。
傷いかな、将来世に永く出離を忘れたること。
爰に我が大師釈尊、此の倒惑を愍みて、以って滅罪の経文を宣べ、
其の沈没を哀んで、以って礼仏の方軌を留めたまえり。
したがって之を修すれば忽ちに衆罪の霜を拂い、
信じて之を行ずれば自から九品の蓮に託す。
仏語は誠謗なり。
誰か帰せざらん。
但し罪業は重縁より生ず。
懺悔は須らく重心を用ゆべし。
山岳を移すに非ずんば 焉んぞ紅海を塡ん。
宜く事理の一心を専らにして、過現の衆罪を懺すべし。
嗚呼一息追わざれば千載永く徂く。
前路遥遠にして資量有ること無し。
冥使追め来る。
怖る心何ぞ緩まん。
仰ぎ願わくは
一万三千諸仏善逝、互いに哀愍を垂れて此の誠を照見したまえ。
凡そ厥の貴賤の檀王、結縁の霊寺、
各々苦域を出て有縁無縁平等に利益せん。
今日は、ここまで!
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仏名会 その9
知恩院の納骨仏名会は、十二月二日~四日 阿弥陀堂で修され、
その年に納骨された亡霊の冥福と
越年招福を祈る家族連れの参拝でにぎわう。
今は期日に隔てがあるが、
知恩院仏名会は もと二十一日より三日間で、
十九日の一山煤払いと、
二十日 御影堂安置 法然上人像の塵落としである、
御身拭式(おみぬぐいしき)と
一連の行事であった。
道場と 祖師と 衆生の身心を清め、
一年の御恩に感謝し、
新年の修正会で 社会の平安と信者の幸福を祈るわけである。
奈良 長谷寺の仏名会は 一月八日~十日で、
信者が裸参りをする裸祭りである。
これは 年越しの祓いである禊の要素を含んでいる事を
意味するという。
この外、現在でも
京都 清水寺(十二月一日~三日)、
大津石山寺(十二月六日~八日)、
東大寺二月堂(十二月十四日)、
金峯山寺蔵王堂(十二月十四日~十六日)、
奈良 矢田寺(十二月九日)
などで 仏名会の法会が行われている。
歳末行事には 懺悔 や 払い に関わるものが多い。
身心を清浄にして 新しい年を迎えようというのである。
煤払い(祓い)、禅宗別時念仏、知恩院御身拭式などと同義の中に
仏名会も位置付けされるであろう。
今日は、ここまで!
その年に納骨された亡霊の冥福と
越年招福を祈る家族連れの参拝でにぎわう。
今は期日に隔てがあるが、
知恩院仏名会は もと二十一日より三日間で、
十九日の一山煤払いと、
二十日 御影堂安置 法然上人像の塵落としである、
御身拭式(おみぬぐいしき)と
一連の行事であった。
道場と 祖師と 衆生の身心を清め、
一年の御恩に感謝し、
新年の修正会で 社会の平安と信者の幸福を祈るわけである。
奈良 長谷寺の仏名会は 一月八日~十日で、
信者が裸参りをする裸祭りである。
これは 年越しの祓いである禊の要素を含んでいる事を
意味するという。
この外、現在でも
京都 清水寺(十二月一日~三日)、
大津石山寺(十二月六日~八日)、
東大寺二月堂(十二月十四日)、
金峯山寺蔵王堂(十二月十四日~十六日)、
奈良 矢田寺(十二月九日)
などで 仏名会の法会が行われている。
歳末行事には 懺悔 や 払い に関わるものが多い。
身心を清浄にして 新しい年を迎えようというのである。
煤払い(祓い)、禅宗別時念仏、知恩院御身拭式などと同義の中に
仏名会も位置付けされるであろう。
今日は、ここまで!
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仏名会 その8
習俗
陰暦十二月を「師走」と言う。
これは 一年の総仕舞「師極つ」の転訛という説と、
僧侶の忙しい様子を語源とするという説が
あるのだそうだ。
後者であれば 仏名会もその一因であったのだろうか。
交替で修行する仏名会の導師が揃わない事もあり、
臨時に 所謂 野伏(のぶし)僧が呼ばれる事もあったらしい。
それほど盛行した仏名会も
現在では左程ポピュラーな仏教行事ではなくなったようだ。
仏名会を仏名懺悔、仏名悔過、御仏名とも別称する。
前述したように、三会以外で 仏名会は
灌仏会、施米、文殊会等と同様 宮中の重要行事であった。
皇室と関連の深かった天台宗においても
いつしかこの法会が行われるようになり、
現在でも 十月二十日から 二十二日まで
根本中堂で修されている。
もっとも、法華懺法が 法事などでよく修されるように、
懺悔という事を重視する天台宗で仏名会が行われるのは
当然であろう。
過去に行ぜられた仏名会に関する資料も 数点伝わっており、
それらによると 特に 無動寺谷と根本中堂で
この法会が盛んであった事が伺える。
また、所依経典は『三千仏名経』で、
その精神は『華厳経』の
「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
従身口意之所生 一切我今皆懺悔 」
であるという。
今日は、ここまで!
陰暦十二月を「師走」と言う。
これは 一年の総仕舞「師極つ」の転訛という説と、
僧侶の忙しい様子を語源とするという説が
あるのだそうだ。
後者であれば 仏名会もその一因であったのだろうか。
交替で修行する仏名会の導師が揃わない事もあり、
臨時に 所謂 野伏(のぶし)僧が呼ばれる事もあったらしい。
それほど盛行した仏名会も
現在では左程ポピュラーな仏教行事ではなくなったようだ。
仏名会を仏名懺悔、仏名悔過、御仏名とも別称する。
前述したように、三会以外で 仏名会は
灌仏会、施米、文殊会等と同様 宮中の重要行事であった。
皇室と関連の深かった天台宗においても
いつしかこの法会が行われるようになり、
現在でも 十月二十日から 二十二日まで
根本中堂で修されている。
もっとも、法華懺法が 法事などでよく修されるように、
懺悔という事を重視する天台宗で仏名会が行われるのは
当然であろう。
過去に行ぜられた仏名会に関する資料も 数点伝わっており、
それらによると 特に 無動寺谷と根本中堂で
この法会が盛んであった事が伺える。
また、所依経典は『三千仏名経』で、
その精神は『華厳経』の
「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡
従身口意之所生 一切我今皆懺悔 」
であるという。
今日は、ここまで!
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仏名会 その7
ところで、仏名会は
当初において 懺悔だけを目的としていたわけではない。
『十二巻本仏名経』には、
「三世諸仏の名字を受持し読誦するならば、
現世安穏、諸難遠離、諸罪消滅、来世得無上菩提
の功徳が得られる」
と説かれている。
また、日本でも
当然 仏名会を修行した功徳については
意識されていたわけで、
永観二年(984)成立の『三宝絵詞』には、
三千仏名経中の
『過去荘厳経千仏名経』冒頭の文を引いて、
「三世三劫の諸仏の名を聞き、
書写し、
形像を描き、
香華、伎楽を供養し、
至心に礼拝すれば
無量の功徳を得られる。
住する所では 常に三宝に遇う。
八難に堕ちることもない。
礼拝する時には
心に観想し 口に唱える。
願わくば、
三悪道に堕ちることなく、
国を富ませ、人民に安心を与え、
よこしまな人の心に善心を生まれさせ、
すべての衆生と共に 極楽浄土に往生させたまえ。
ホトケの名を聞いたら 心から礼拝せよ。
礼拝しない者がいても 謗ってはならない。
計り知れない長い間に犯した一切の罪は
消滅するであろう。」
と記している。
この内容でみる限り、
仏名経読誦の修法は
修道儀礼を超えて、祈祷儀礼の領域にも依用される
十分な要素を持っているといえるのである。
現実に 仏名会が 宮中で修されたとしても、
それは 貴族自らが参加すると言うよりは
むしろ 僧侶による代受苦の修行であったという。
『建武年中行事』などに記された宮中仏名会の様子によると、
導師は 寒夜の行として下賜された被綿(かずけわた)を身に着け、
一仏毎に 五体投地礼を繰り返す。
これは 三日の各一夜を 初夜、半夜、後夜に分けて
交替で修行した。
この間 貴族も立ち会うが、
村上天皇などは 和琴を奏し、
右大将は 悪魔払いとて 弓弦をかき鳴らしたり、
寒いので 別室に下がった公卿たちは
摂津栢梨(かえなし)庄から献上させた酒を飲んだり(栢梨の献杯)
などしたという。
『三宝絵詞』では
『阿含経』を引いて
僧に衣を施す功徳を殊更に述べているが、
仏名会に被綿を布施するのは 恒例であったようだ。
また、仏名会の道場には、
正面に三千仏の掛け軸が掛けられ、
参拝者を取り囲むように 地獄変屏風が立てられるのが
通例であった。
罪を懺悔しない者の堕ちる世界を
絵画によって教示しようとしたわけで、
『枕草子』では 清少納言が
その図柄を 不気味がっている。
地獄変屏風を立てたり、
念仏の心得として
観念、称念 の両門を主張する事は、
当時の天台浄土教の影響が
強く作用していると考えられる。
このように、日本における仏名会は
古来からの大祓と同様の感覚で受容されながらも、
そこに求められたものは 穢れの浄化のみならず、
国土安穏や五穀豊穣、極楽往生なども含まれていた
と認識しなければならない。
さらに、懺悔という自己修養が基本にある修行であったものが、
祈祷という対他的法会にまで拡大されてきて、
必然的に 僧侶は 施主の代受苦者として
三千仏礼拝をおこなったのである。
歴史上の仏教法会のなかで言えば、
むしろ 仏名会は
対他的祈祷法会の側面が 半分以上であった
と言っても良いのかもしれない。
今日は、ここまで!
当初において 懺悔だけを目的としていたわけではない。
『十二巻本仏名経』には、
「三世諸仏の名字を受持し読誦するならば、
現世安穏、諸難遠離、諸罪消滅、来世得無上菩提
の功徳が得られる」
と説かれている。
また、日本でも
当然 仏名会を修行した功徳については
意識されていたわけで、
永観二年(984)成立の『三宝絵詞』には、
三千仏名経中の
『過去荘厳経千仏名経』冒頭の文を引いて、
「三世三劫の諸仏の名を聞き、
書写し、
形像を描き、
香華、伎楽を供養し、
至心に礼拝すれば
無量の功徳を得られる。
住する所では 常に三宝に遇う。
八難に堕ちることもない。
礼拝する時には
心に観想し 口に唱える。
願わくば、
三悪道に堕ちることなく、
国を富ませ、人民に安心を与え、
よこしまな人の心に善心を生まれさせ、
すべての衆生と共に 極楽浄土に往生させたまえ。
ホトケの名を聞いたら 心から礼拝せよ。
礼拝しない者がいても 謗ってはならない。
計り知れない長い間に犯した一切の罪は
消滅するであろう。」
と記している。
この内容でみる限り、
仏名経読誦の修法は
修道儀礼を超えて、祈祷儀礼の領域にも依用される
十分な要素を持っているといえるのである。
現実に 仏名会が 宮中で修されたとしても、
それは 貴族自らが参加すると言うよりは
むしろ 僧侶による代受苦の修行であったという。
『建武年中行事』などに記された宮中仏名会の様子によると、
導師は 寒夜の行として下賜された被綿(かずけわた)を身に着け、
一仏毎に 五体投地礼を繰り返す。
これは 三日の各一夜を 初夜、半夜、後夜に分けて
交替で修行した。
この間 貴族も立ち会うが、
村上天皇などは 和琴を奏し、
右大将は 悪魔払いとて 弓弦をかき鳴らしたり、
寒いので 別室に下がった公卿たちは
摂津栢梨(かえなし)庄から献上させた酒を飲んだり(栢梨の献杯)
などしたという。
『三宝絵詞』では
『阿含経』を引いて
僧に衣を施す功徳を殊更に述べているが、
仏名会に被綿を布施するのは 恒例であったようだ。
また、仏名会の道場には、
正面に三千仏の掛け軸が掛けられ、
参拝者を取り囲むように 地獄変屏風が立てられるのが
通例であった。
罪を懺悔しない者の堕ちる世界を
絵画によって教示しようとしたわけで、
『枕草子』では 清少納言が
その図柄を 不気味がっている。
地獄変屏風を立てたり、
念仏の心得として
観念、称念 の両門を主張する事は、
当時の天台浄土教の影響が
強く作用していると考えられる。
このように、日本における仏名会は
古来からの大祓と同様の感覚で受容されながらも、
そこに求められたものは 穢れの浄化のみならず、
国土安穏や五穀豊穣、極楽往生なども含まれていた
と認識しなければならない。
さらに、懺悔という自己修養が基本にある修行であったものが、
祈祷という対他的法会にまで拡大されてきて、
必然的に 僧侶は 施主の代受苦者として
三千仏礼拝をおこなったのである。
歴史上の仏教法会のなかで言えば、
むしろ 仏名会は
対他的祈祷法会の側面が 半分以上であった
と言っても良いのかもしれない。
今日は、ここまで!
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仏名会 その6
3、仏名会の日本的意義
ここで一度 仏教法会の分類を 振り返っておこう。
対自儀礼――― 修道儀礼 ~ 自己の信仰の開発、深化を求める
――― 法恩儀礼 ~ 恩得に感謝し、後進の微意を表す
中間儀礼――― 特殊儀礼 ~ 開眼式、晋山式、結婚式等
自行化他のいずれにも分類できないもの
対他儀礼――― 祈祷儀礼――― 祈願 ~ 心願成就のために仏神に一方的に祈る
――― 祈祷 ~ 仏神と一体化することによって願成就を祈る
――― 回向儀礼 ~ 葬送儀礼、追善儀礼等
主に生者が死者に対して行う
一つの法会は 目的や時代によって分類上 様々に変化するのだろうが、
仏名会もまた その代表で、
自利利他の両面を兼ねて行われてきた。
そして、それが 本来の仏教理論と
日本の民間信仰の交錯による結果であることは
言うまでもないだろう。
日本人は 伝統的に 浄罪という意識を強く持っていたようで、
宮中では
大宝元年(701)以降 6月と12月の晦日に
定期的な大祓が行われており、
宮中での儀式が衰退してからも
神社などにおいて 夏越(名越)の祓、年越の祓は 継承されてきている。
仏教では 6月の仏名会がこれに当たるのである。
つまり 神道的祓いの観念と 仏教の懺悔思想の対応である。
また、歳末に その年に犯した一切の罪を懺悔し祓ってしまう
という事は、
翌年正月の修正会に継続される行事である事を 見逃してはならない。
一切の罪を無くして新年を迎え、
国家安穏、天下泰平、五穀豊穣、万民幸い などを祈るのである。
ここで一度 仏教法会の分類を 振り返っておこう。
対自儀礼――― 修道儀礼 ~ 自己の信仰の開発、深化を求める
――― 法恩儀礼 ~ 恩得に感謝し、後進の微意を表す
中間儀礼――― 特殊儀礼 ~ 開眼式、晋山式、結婚式等
自行化他のいずれにも分類できないもの
対他儀礼――― 祈祷儀礼――― 祈願 ~ 心願成就のために仏神に一方的に祈る
――― 祈祷 ~ 仏神と一体化することによって願成就を祈る
――― 回向儀礼 ~ 葬送儀礼、追善儀礼等
主に生者が死者に対して行う
一つの法会は 目的や時代によって分類上 様々に変化するのだろうが、
仏名会もまた その代表で、
自利利他の両面を兼ねて行われてきた。
そして、それが 本来の仏教理論と
日本の民間信仰の交錯による結果であることは
言うまでもないだろう。
日本人は 伝統的に 浄罪という意識を強く持っていたようで、
宮中では
大宝元年(701)以降 6月と12月の晦日に
定期的な大祓が行われており、
宮中での儀式が衰退してからも
神社などにおいて 夏越(名越)の祓、年越の祓は 継承されてきている。
仏教では 6月の仏名会がこれに当たるのである。
つまり 神道的祓いの観念と 仏教の懺悔思想の対応である。
また、歳末に その年に犯した一切の罪を懺悔し祓ってしまう
という事は、
翌年正月の修正会に継続される行事である事を 見逃してはならない。
一切の罪を無くして新年を迎え、
国家安穏、天下泰平、五穀豊穣、万民幸い などを祈るのである。
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仏名会 その5
天長7年(830)閏12月8日 禁中にて 三箇日夜 仏名経儀礼(日本紀略前篇14等)
承和2年(835)12月20日 清涼殿にて 三日を限り 仏名経礼拝(同15)
承和5年(838)12月15日 清涼殿にて 三日三夜 仏名懺悔を修す。 内裏仏名会の始(続日本紀7)
承和13年(846)10月 太政官符により五畿内七道諸国において 12月15日から17日まで 国内の名僧を請して国衙で仏名懺悔を修するのが恒例となる。
布施は正税を用い、期間中は殺生禁断とされた。
仁寿3年(853)11月 太政官符により右の期間を19日から21日までに変更。
貞観5年(863)4月 賢永は 凶作と疫病の退散を願って一万三千仏画像、観音像、一切経を 伯耆国分寺に安置(三代実録)
貞観13年(871)9月 元興寺静安の奉請により宮中仏名会が恒例化し(類聚三代格2)、弟子賢護の奏進によって一万三千仏画像が 太政官ほか諸国に 計72安置される。
貞観18年(876)6月 一万三千仏画像19鋪が 諸国に安置される。
延喜18年(918)玄鑒の上奏によって 所依経典が『十六巻仏名経』から『三千仏名経』に改められる(塵添壒嚢鈔14)
以降 宮中弘徽殿、清涼殿、常寧伝、綾綺伝、仁寿殿等で 毎年12月に3日間仏名懺悔が行ぜられたが、歳末で公事多く(雲図抄)、神事に当たる(年中行事秘抄)時などは 1日だけの修行もあった。
長寛以降 建久の頃(1163~1199)12月19日から25日までの1日だけの修行(玉葉)
建武年中(1334~1338) 一夜のみ修行
康永年中(1142~1345) 一日の修行に復される。
永和年代(1375~1379) 宮中仏名会断絶。鑒
以上の事項から、仏名会は 宮中における三会以外の公式行事にもなったが、
目的は 個人の懺悔というよりは、
懺悔を通して五穀豊穣や疫病退散などを祈る祈祷的性格が
当初より見られ、
やがては年末年始の神事(仏教行事としては成道会)に押されて
行われなくなってしまったようだ。
しかし、仏名会は 宮中だけでなく、諸寺においても伝えられ、
『薬師寺新黒草紙』『東宝記』『四天王寺年中法事記』『塵添壒嚢鈔』
等に記事が見られ、
現在でも 大寺を中心に重要な仏教行事として伝えられている。
また、『枕草子』『栄花物語』『拾玉集』等
文学の中にも宮中仏名会の様子が語られ、
民間においても
『兼盛集』『本朝文粋』等に
各家毎や 有志によって修行された仏名会の事が記されている。
今日は、ここまで!
承和2年(835)12月20日 清涼殿にて 三日を限り 仏名経礼拝(同15)
承和5年(838)12月15日 清涼殿にて 三日三夜 仏名懺悔を修す。 内裏仏名会の始(続日本紀7)
承和13年(846)10月 太政官符により五畿内七道諸国において 12月15日から17日まで 国内の名僧を請して国衙で仏名懺悔を修するのが恒例となる。
布施は正税を用い、期間中は殺生禁断とされた。
仁寿3年(853)11月 太政官符により右の期間を19日から21日までに変更。
貞観5年(863)4月 賢永は 凶作と疫病の退散を願って一万三千仏画像、観音像、一切経を 伯耆国分寺に安置(三代実録)
貞観13年(871)9月 元興寺静安の奉請により宮中仏名会が恒例化し(類聚三代格2)、弟子賢護の奏進によって一万三千仏画像が 太政官ほか諸国に 計72安置される。
貞観18年(876)6月 一万三千仏画像19鋪が 諸国に安置される。
延喜18年(918)玄鑒の上奏によって 所依経典が『十六巻仏名経』から『三千仏名経』に改められる(塵添壒嚢鈔14)
以降 宮中弘徽殿、清涼殿、常寧伝、綾綺伝、仁寿殿等で 毎年12月に3日間仏名懺悔が行ぜられたが、歳末で公事多く(雲図抄)、神事に当たる(年中行事秘抄)時などは 1日だけの修行もあった。
長寛以降 建久の頃(1163~1199)12月19日から25日までの1日だけの修行(玉葉)
建武年中(1334~1338) 一夜のみ修行
康永年中(1142~1345) 一日の修行に復される。
永和年代(1375~1379) 宮中仏名会断絶。鑒
以上の事項から、仏名会は 宮中における三会以外の公式行事にもなったが、
目的は 個人の懺悔というよりは、
懺悔を通して五穀豊穣や疫病退散などを祈る祈祷的性格が
当初より見られ、
やがては年末年始の神事(仏教行事としては成道会)に押されて
行われなくなってしまったようだ。
しかし、仏名会は 宮中だけでなく、諸寺においても伝えられ、
『薬師寺新黒草紙』『東宝記』『四天王寺年中法事記』『塵添壒嚢鈔』
等に記事が見られ、
現在でも 大寺を中心に重要な仏教行事として伝えられている。
また、『枕草子』『栄花物語』『拾玉集』等
文学の中にも宮中仏名会の様子が語られ、
民間においても
『兼盛集』『本朝文粋』等に
各家毎や 有志によって修行された仏名会の事が記されている。
今日は、ここまで!
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仏名会 その4
2、変遷
中国では 東晋以降に 仏名経の訳出が盛んになり、
仏名懺悔も行ぜられるようになった。
『往生論註』巻下では 菩薩の行法として
十万一切の諸仏を 昼三時夜三時に礼するべきだと示す。
『法苑珠林』第八十六には
会昌寺得美が 十二巻本を誦して 懺悔毎に礼拝し、
夏に一日一万五千仏の礼讃を行じた事が記られている。
『仏祖統記』第三十九では
海陵の恵盈が 民の苦を救うために
六時に三千仏を礼したと記し、
『広弘明集』第二十六には
如来の正業に限量無く、
本師釈迦と方広経諸説の三宝を
礼すべき旨が説かれている。
中国の仏名を誦するという行は、
恵盈のように利他のための呪術的行という例もあるが、
あくまで一つの懺悔法と見るべきで、
期日や時間、所依なども 様々であったと推測されるのである。
日本の現在の仏名会の起源を求めるとすれば、
悔過行事という大枠の中において、
民族的祓(はらい)の観念との習合や、
仏教行事としての儀礼化などと関連して
しだいに形を整えたものとみるべきで、
中国直輸入の仏名会が そのままの形で
現在に至っているわけではないと考えるべきだろう。
記録に残る日本仏教の初期的悔過行事としては、
朱鳥元年(686)七月 天武天皇の御悩祈祷の悔過、
天平十一年(739)七月 五穀成熟経の転読と七日七夜の悔過、
同十六年(744)十二月 諸国への七日間の薬師悔過修行の令、
神護景雲元年(767)正月 国分寺に五穀豊穣のための
七日間の吉祥悔過修行の令
などがある。
特に薬師、吉祥の二法は 以後 恒例化し、
また、弥陀懺悔、釈迦懺悔なども 盛んに行ぜられるようになった。
こういった中において、
宝亀五年(774)十二月 方広悔過が宮中で行われ(年中行事秘抄)、
弘仁十四年(823)十二月二十三日 長恵、勤操、空海等によって
清涼殿で大通方広懺方が修せられた(日本紀略前篇十四等)。
この方広懺悔が 仏名会の前身であると言われるが、
内容的には『大通方広懺悔滅罪荘厳成仏経』を所依としていたようなので、
正確には この方広悔過が 日本における仏名会の起源とは
言えないかもしれない。
その立場から、
仏名会の初期的展開から恒例化するまでの
主な記録を挙げてみよう。
今日は、ここまで!
中国では 東晋以降に 仏名経の訳出が盛んになり、
仏名懺悔も行ぜられるようになった。
『往生論註』巻下では 菩薩の行法として
十万一切の諸仏を 昼三時夜三時に礼するべきだと示す。
『法苑珠林』第八十六には
会昌寺得美が 十二巻本を誦して 懺悔毎に礼拝し、
夏に一日一万五千仏の礼讃を行じた事が記られている。
『仏祖統記』第三十九では
海陵の恵盈が 民の苦を救うために
六時に三千仏を礼したと記し、
『広弘明集』第二十六には
如来の正業に限量無く、
本師釈迦と方広経諸説の三宝を
礼すべき旨が説かれている。
中国の仏名を誦するという行は、
恵盈のように利他のための呪術的行という例もあるが、
あくまで一つの懺悔法と見るべきで、
期日や時間、所依なども 様々であったと推測されるのである。
日本の現在の仏名会の起源を求めるとすれば、
悔過行事という大枠の中において、
民族的祓(はらい)の観念との習合や、
仏教行事としての儀礼化などと関連して
しだいに形を整えたものとみるべきで、
中国直輸入の仏名会が そのままの形で
現在に至っているわけではないと考えるべきだろう。
記録に残る日本仏教の初期的悔過行事としては、
朱鳥元年(686)七月 天武天皇の御悩祈祷の悔過、
天平十一年(739)七月 五穀成熟経の転読と七日七夜の悔過、
同十六年(744)十二月 諸国への七日間の薬師悔過修行の令、
神護景雲元年(767)正月 国分寺に五穀豊穣のための
七日間の吉祥悔過修行の令
などがある。
特に薬師、吉祥の二法は 以後 恒例化し、
また、弥陀懺悔、釈迦懺悔なども 盛んに行ぜられるようになった。
こういった中において、
宝亀五年(774)十二月 方広悔過が宮中で行われ(年中行事秘抄)、
弘仁十四年(823)十二月二十三日 長恵、勤操、空海等によって
清涼殿で大通方広懺方が修せられた(日本紀略前篇十四等)。
この方広懺悔が 仏名会の前身であると言われるが、
内容的には『大通方広懺悔滅罪荘厳成仏経』を所依としていたようなので、
正確には この方広悔過が 日本における仏名会の起源とは
言えないかもしれない。
その立場から、
仏名会の初期的展開から恒例化するまでの
主な記録を挙げてみよう。
今日は、ここまで!
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仏名会 その2
歴史、思想
1、経典
現在 仏名会の所依として用いられている経典は、
『過去荘厳千仏名経』
『現在賢劫千仏名経』
『未来星宿劫千仏名経』 各1巻、
合して 『三千仏名経』3巻で、
仏名法会の残る各宗派とも
ほぼ 同教を用いているようである。
しかし、仏名経典 それ自体は 意外に多く、
現存のものだけでも 14種17巻 ある。
日本では 天平勝宝6年(754)に
鑑真和上が『十六巻仏名経』を請来して
9世紀中には
宮中仏名会が恒例化されたが、
『塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)』によると
延喜18年(918)に
『十六巻仏名経』が 現在の『三千仏名経』に改められた
という。
十六巻本には 一万三千余仏の名が記されていたというから、
むしろ これが敬遠されて 三千仏がポピュラーになったのであろうか。
ただし、
道場荘厳や式次第には さほどの変化はなかったようだ。
問題は 十六巻本が現存仏名経の中に無い事だが、
『開元釈教録』によると
菩提流支訳『十二巻仏名経』を中心に
唐代に編集されたものが十六巻本であり、
井ノ口泰淳博士が
敦煌古写経中の本経断片から これを復元し、
近年 名古屋長福寺(七寺 ななつでら)蔵一切経中で
『十六巻仏名経』の確認がされた。
(ただし 七寺の十六巻本 第9巻は
十二巻本 第9巻の途中からの写経で、
元の経典とは異質の装丁である。
また、宮城県新宮寺一切経中にも
十六巻本発見の報告がある。)
一度散逸した日本の仏名会の 当初の所依経典十六巻本は、
ごく最近になって 再び発掘されたのである。
今日は、ここまで!
1、経典
現在 仏名会の所依として用いられている経典は、
『過去荘厳千仏名経』
『現在賢劫千仏名経』
『未来星宿劫千仏名経』 各1巻、
合して 『三千仏名経』3巻で、
仏名法会の残る各宗派とも
ほぼ 同教を用いているようである。
しかし、仏名経典 それ自体は 意外に多く、
現存のものだけでも 14種17巻 ある。
日本では 天平勝宝6年(754)に
鑑真和上が『十六巻仏名経』を請来して
9世紀中には
宮中仏名会が恒例化されたが、
『塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)』によると
延喜18年(918)に
『十六巻仏名経』が 現在の『三千仏名経』に改められた
という。
十六巻本には 一万三千余仏の名が記されていたというから、
むしろ これが敬遠されて 三千仏がポピュラーになったのであろうか。
ただし、
道場荘厳や式次第には さほどの変化はなかったようだ。
問題は 十六巻本が現存仏名経の中に無い事だが、
『開元釈教録』によると
菩提流支訳『十二巻仏名経』を中心に
唐代に編集されたものが十六巻本であり、
井ノ口泰淳博士が
敦煌古写経中の本経断片から これを復元し、
近年 名古屋長福寺(七寺 ななつでら)蔵一切経中で
『十六巻仏名経』の確認がされた。
(ただし 七寺の十六巻本 第9巻は
十二巻本 第9巻の途中からの写経で、
元の経典とは異質の装丁である。
また、宮城県新宮寺一切経中にも
十六巻本発見の報告がある。)
一度散逸した日本の仏名会の 当初の所依経典十六巻本は、
ごく最近になって 再び発掘されたのである。
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仏名会 その1
仏名会
定義
一年間に犯した罪を懺悔(さんげ)し、
穢れ(けがれ)を祓う(はらう)ために、
年末に
過去、現在、未来の仏名を
五体投地礼(ごたいとうちらい)を行じながら
唱える行事。
期日
年末に日を決めて行われる。
当初は 12月15~17日の 三日間の夜儀であったが、
次第に短縮され、
時間も日中に変更されてきている。
今日は、ここまで!
定義
一年間に犯した罪を懺悔(さんげ)し、
穢れ(けがれ)を祓う(はらう)ために、
年末に
過去、現在、未来の仏名を
五体投地礼(ごたいとうちらい)を行じながら
唱える行事。
期日
年末に日を決めて行われる。
当初は 12月15~17日の 三日間の夜儀であったが、
次第に短縮され、
時間も日中に変更されてきている。
今日は、ここまで!
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