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悲しみを乗り越えるために その4

「人という字は、一本の棒と 一本の棒が 支え合ってできている。

 人は 一人では生きられないのだから・・・。」

ここまではいいのですが、

「他人を気遣い 自分を主張する事を控えなさい」

とでも説教されれば 首をひねりたくなります。



他人を大切にするという行為は 自分のものでしょう?

だから、ここでは
「他人を気遣う優しい心を持ちなさい」
と言うべきです。

そもそも ≪人≫ という字は、
堂々と胸を張って 大股で大地を歩む人の姿から 生れた字なのですから。



ちなみに、思いっきり両手両足を広げて 大地に立つ人の姿は
≪大≫ という字になりました。

自分というものを しっかり持って、
正々堂々と 人生を歩んでいる人は
まさに 偉大な人です。






いずれにしても、
今日からは、
皆さんは 故人のご逝去の悲しみを乗り越えて、
彼岸にたった故人に見守られながら、
自らの意志で 新しい生活を始めていかなければ ならないのです。




                     以上です。



またまた、出てきてしまいました、「人という字」(大汗)。

さて、今後 話のネタに困らないといいのですが。



今日は、ここまで!


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悲しみを乗り越えるために その3

満員電車で 坐っている皆さんの前に、
お年寄りや お腹の大きな女性が立ったとします。

席を譲りたい、譲るべきだ と思うけれども
「もし断られたらどうしよう」
と周りの乗客の目も気になって
なかなかその勇気が出ない。

「私だって疲れているんだから」
と自分を納得させる事もできないし、
降りる駅が来るまで 眠ったふりをするのも辛い。

そんな場面で、
思い切って
「どうぞ坐ってください」
と席を譲り、相手が「ありがとう」と答えてくれたら
どんなにホッとするでしょう!



つまり、席を譲る という行為は
お年寄りや 妊婦のためではなく、
譲った人自身のためのものなのです。






畑の中の一本道、
皆さんがこちらから歩いて行く。

向こうから それほど親しくない人が歩いて来る。

皆さんは 挨拶をしようかどうしようか 迷ってしまいます。

二人の間は どんどん近くなる。

勇気を出して 思い切って 会釈をしたら、
向こうの人も にっこり微笑んでくれた。

ホッとするでしょう!



皆さんの挨拶は 
向こうから歩いて来る人のために ではなく、
皆さん自身のためにした事になります。






自分自身が しっかりしなければならないという厳しさ、
そして、
それ故に 自分自身の考え方や行いを
一番大切にするという事、

それが 今いう 仏教の自由主義、個人主義なのです。



                     続きます


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悲しみを乗り越えるために その2

ところで、また誤解されそうですが、
本来 
仏教というのは 
社会主義や民主主義ではなく、
もちろん 利己主義とも全く異なる、
自由主義、個人主義の ものの考え方をする宗教です。



つまり、
人が生きていくうえで、
あらゆるすべての物事は 
その人自信から発しているという考え方。



自分が
「ああしたい」「こうすべきだ」
というのは 当然 自分の考えですが、

「ああした」「こうなった」も
元は その人自身に原因があって、
結果もその人だけのものだ、
という事です。



親や子、夫や妻を愛するのも自分、

仕事や人とのお付き合いでストレスが溜まるのも自分、

幸・不幸も、生・老・病・死 も
結局は
全部 自分自身の事でしょう?

他人には解らない、代われない事なのです。



                     続きます


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悲しみを乗り越えるために その1

これは 七七日忌の法話として考えたものです。






四十九日忌は、
七七日忌、尽七日忌、大練忌、脱光忌、放光忌、幽回忌、
棚上がり、棚上げ とも言います。

多くの方がご存知の≪十三仏信仰≫では、
本地薬師如来である泰山王が 
亡くなった方の 次の生処(本有)を最終決定する、

つまり、
亡くなった方が 
娑婆世界(死有)からの旅(中有)を終え、

次の世界に到着した、
或いは 生まれ変わった(生有)日 とされています。






本日を以って、皆様は 
四十九日間の忌中が明けるわけです。

この≪忌≫というのは、
近親者の死に当たって
その穢れが除かれるまで 忌み籠もる期間の事をいいます。



平安時代の延喜式によりますと、
忌中の死穢について

「死者を出した A 家の者が B家を訪れると 
 穢れは B家全員に付く。

 C家の者がB家を訪れると 
 訪れたものだけが 穢される。

 B家の者がC家に行くと
 C家全体が穢される。

 ただし D家の者がC家を訪れても 
 死穢には犯されない」

と説明されています。





一方、≪喪≫ というのは、

喪服を着て 個人の冥福を祈りながら、
慎ましやかな生活をする期間の事で、

具体的な日数の規定はなく、
自分で喪中期間を設定することになります。



つまり、
忌中の間は、
皆様は どこを訪れようとも、
行った先の人から
「死穢に犯される」ということで
絶対的に 交わりを拒絶される。

忌が明ければ、
訪れた先の人は 交際を再開してくれますが、
皆さんの意思で 百ヶ日忌まででも 一周忌まででも
「喪に服する」という意味で
他人との交わりを謹んでも
失礼には 当たらない という事になります。






さて、このような忌中が明けたという事は、
ある意味では、
今日から皆さんも 故人の死から解放されて
一人歩きを始めなければならないという事になります。

もちろん、誤解しないでいただきたいのですが、
故人の供養はもうしなくてよい 
という事ではありません。

極楽に往生を遂げたであろう故人への供養は、
更なる故人の冥福と成仏を願って、

また 生前 皆さんが 
故人から受けた御恩に対しての感謝の意味も込めて、

今後も続けていく事が大切です。




                     続きます


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