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萬宇四春なり (その2)

平成8年の正月のご挨拶文の続きです。

 

 

 

 

 

最近の雑感     

 

 

 

暮れに 境内で 箒を手に

ご近所の方と雑談をしておりましたら、

強風注意の放送が流れてきました。

 

「風が弱まってきたから 箒を持って 外に出たのに」

と 二人で 笑ってしまいました。

 

きっと 熊谷気象台の予報官が 天気図を見て

「この地方は 強風のはずだ」

と予報して 放送したのでしょう。

 

その日は その後 静かになりました。

 

夏の夕立の予報でも 時々 同様の事があるようです。

 

快晴の日に 豪雨の注意報。

 

「こうなるはずなのに」も 現実の前では

何の意味ももたないのです。

 

 

 

 

 

しかし、ちょっとひねくれて考えてみれば、

仏教の教えは 予報官の仕儀に似ています。  

 

つまり、仏教のものも見方は

決して現実に即したものではなく、

 

あくまで 悟りの彼の地の 仏様の見方で

あらゆる事を考えているのですから。

 

現代社会の中で 

仏教の ものの考え方が 現実とは遠くかけ離れたものであるとは、

皆さん誰もが思っていることでしょう。

 

いかに高邁な思想をもってしても、

現実の中では 歯牙にもかけられません。

 

 

 

でも、本当の本当は、仏教の考え方が正しい。

 

現実は 迷いの此岸、 仏教は 悟りの彼岸、

の見方と言えば 少しはわかりやすいでしょうか。

 

 

 

例えば、親の 子供に対する見方。

 

「おまえは お父さんとお母さんの大事な大事な宝物だ。

 

 かわいくて かわいくて しかたがないよ。」

 

という彼岸の仏様の見方と、

 

 

 

「何?このテストの成績は。

 

 運動会じゃビリだし、

 この前のピアノの発表会じゃ間違ってばっかり。

 

 お母さんは恥ずかしいわ。

 

 お父さんにも叱ってもらいます。」

 

という此岸の現実的見方、

どっちの考え方でいた方が幸せか?

 

仏様の見方は 

現実なんて関係ない、メチャクチャの親バカでしょうけれど、

そんなふうに子どもさんをみてあげる方が 

親としては正しいのでしょうね。

 

 

 

仏教を勉強する事は 

仏様の考え方を真似してみることだと言います。

 

たとえ現実的でなくても、

幸せになるために 此の岸でなく 彼の岸に立って、

自分の生き方を考えてみるのも 

幸せへの道の一つではないでしょうか。

 

 

 

 

 

佛法をあるじとし  世間を客人とせよといへり

 

佛法の うへよりは  世間のことは

 

時にしたがひ  相はたらくべき事なり

 

(仏様の教えを 最も大切なものとして守り、

 社会の事は その次ぎの事としなさいといわれています。

 仏様の教えを 正しく守っていれば、

 社会的な事は その時その場に応じて 

 自ずと正しく行なわれていくものなのでせす。)

 

 

 

皆様の御健寿と御隆盛を 重ねて 心より 祈念申し上げます。

 

 

 

 

 

 

この頃の私は まだ 境内の掃除をする余裕があったのですね。

 

今は そんな時間さえ なかなか取れないでいます。

 

仏様の見方で子供を見る事も

なかなか難しいと実感しています(苦笑)。

 

 

これ以上書きますと、愚痴になってしまいそうです(笑)。

 

今日は ここまで!

 

 

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萬宇四春なり (その1)

三微の肇序、萬宇四春なり    平成8年の年頭の挨拶です。

 

 

平成八年の初春を迎え、謹んで三宝を誦し奉り、

併せて檀信徒各位のご清祥を 祈念申し上げます。

 

 

 

昨年の日本社会の出来事を振り返ると、

阪神大震災に始まり、オウム真理教の暴挙、

相変わらずの政治家不正疑惑等、

暗いニュースばかりが思い起こされます。

 

年末のテレビで、

「今年の日本に、

大リーグ 野茂選手や オリックスイチロー選手の活躍が無かったら

救いようが無い年になっていたでしょう。」

とのコメントがありました。

 

本当にそんな印象です。

 

 

 

ただし、当山は 去年も元気いっぱいの一年でした。

 

二月には 芭蕉・菜風の格碑が 境内に移転されて、

多くの来山者の目に供する事ができるようになり、

 

また 元 観行寺に祀られていた 木造阿弥陀如来立像の

修復開眼がなり、

 

八月には 戦後五十年を契機とした 戦争犠牲者慰霊法要が

前住大僧正のお導きと 中瀬遺族会の 多大なご協力によって

厳かに執り行われました。

 

更に 篤信の檀徒のご寄進を機に、

絵馬堂の新築・本堂前面の大改修が円成でき、

境内の様相も 次第に整ってまいりました。

 

 

 

特に、十一月の ふれ愛観音の奉安式は

稚児 140名の大行道という

大変な事業であったにもかかわらず、

 

たくさんの檀信徒の皆様が

参加してくださり、

また 自ら ボランティアをかって出て下さった結果、

 

当山の歴史に残るであろう法会が 

大成功の内に執行されたわけです。

 

 

 

今更ながら 檀信徒の皆様の

すばらしいパワーを実感しました。

 

こころより感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

さて、昨年の絵馬堂新築と 本堂前改修を

当 吉祥寺では 

天台大師一千四百年大遠忌記念事業と 位置づけました。

 

また、本年度より、

「吉祥寺整備計画」を具体的に進めて行く事が、

年末の役員総会で決定されました。

 

ご承知のように、当山の本堂は 天井や床の傷みが激しく、

書院、寺務所、トイレ、納戸等が無く、

非常に危険 且つ 不自由な状態です。

 

来年度より、それらの修理、増改築を 

実際に行なっていく事になりました。

 

まず、平成八年度は 庫裏の新築を計画しています。

 

これについては、檀徒各位の寄付はご辞退し、

住職ができるだけの事をしてまいるつもりです。

 

なお、庫裏新築と同時進行で

本坊整備の具体的計画立案を 

本年いっぱいに整えるつもりでおりますので、

諸事 ご協力 ご了承を お願い申し上げます。

 

さすがに中瀬の吉祥寺だと言われるような

寺檀一体となった 立派な事業を

成し遂げたいと思っております。

 

 

 

 

 

阪神大震災と オウム真理教の事件とは

同じ年(平成7年)にあったんですねえ。

 

そして、

戦後50年の法要や

ふれ愛観音の奉安式と稚児行列も

その年にあった事なんですねえ。

 

イチローは オリックスからマリナーズへ行き、

そして 今では ヤンキースの選手で、 

打率7割越えの大活躍をしています。

 

この頃のイチロー選手の所へ行って、

あなたは大リーグに行っても大丈夫、活躍しますよ、と

教えてあげたい気持ちになります(笑)。

 

それにしても、今頃 当時の字の間違いに気づくと、

赤面してしまいます(大汗)。

 

平成8年の夏、庫裏は無事に出来上がり、

吉祥寺はここから大きく変わっていく事になります。

 

 

 

長くなってしまいました。

 

続きは次回に。

 

今日は ここまで!

 

 

 

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文化の成熟度

オリンピックが終りました。

 

パラリンピックも 終りました。

 

日本選手の奮闘に 一喜一憂したり、感動したり。

 

大変 忙しい日々でした(笑)。

 

 

 

 

 

 

今回のオリンピック観戦で 私が最も感心したのは、

日本人が活躍する種目の多さでした。

 

 

 

「お家芸」と呼ばれる競技で 

何人もの選手が出場権を獲得するのは 

当然でしょう。

 

そうでない種目、日本人が苦手にしてきた種目にも 

日頃 精進して 鍛えてきた選手達が

自己ベストや 日本新記録を目指して 

果敢に挑戦している姿が目に付きました。

 

 

 

選手達が 施設や 指導者や ライバルにも恵まれて

天性の資質に磨きをかけ続ければ

決勝進出や メダルの獲得も夢ではない、という事が 

近年のオリンピックで ようやく信じられるようになったと思うのです。

 

そして 今大会の 選手達の鍛錬の結果は

その感を いっそう強くさせてくれました。

 

 

 

加えて、今回 私は

日本選手が活躍する競技の種類が

たいへんバラエティーに富んでいた事に

注目させられました。

 

かつての日本選手が なかなか予選を突破できなかった競技や

おや、こんな競技があった、と思うような

あまりポピュラーではない種目においても

彼らは素晴らしい成果をもたらしてくれました。

 

この バラエテイーの豊かさこそは

日本の 国力と文化、双方の充実を 雄弁に語るものです。

 

私は メダルの数もさることながら、

このバラエティーの豊かさに 大きな安心と感動を覚えるのです。

 

 

 

 

 

 

しかしながら、

今回のオリンピックの期間中、アジアの国の一部の行動には

「平和の祭典」の名にふさわしくないものがあった事を

忘れては ならないと思っています。

 

次期選挙のためのパフォーマンスなのか、

政権維持に、あるいは 国民の人心掌握についての不安からなのか、

日本人にとっては不快そのものの、理解できないような事柄が続いて、

暗澹とした気分になったのでした。

 

それらの国々に対しては 

「毅然とした態度で臨むべき」と 私は考え、

うちの大黒さんは 「いえ、ここは冷静に」、と 言い、

意見の分かれるところでした(苦笑)。

 

 

 

 

 

 

パラリンピックの閉幕を告げる今日の朝刊の中で

蓮池薫氏は  

「私が拉致されていた北朝鮮では、障害者に対する見方は厳しかった。」

と語っています。

 

ただし、軍隊の任務でけがをした人だけは例外で、厚遇されており、

その生活ぶりは テレビでも紹介されていたそうです。

 

「自分の身を犠牲にして 国家を守った」という事だそうです。

 

そう言えば 日本大使の車を襲って 国旗を取り去った人は

逮捕されても罰せられなかった、

それは 「愛国」のための行動だったから、なんだそうです。

 

 

 

かつての北朝鮮では パラリンピックのテレビ中継もなく、

蓮池氏は その存在さえ知らなかった、と話しています。

 

今回、韓国のNPOの後押しもあったそうですが、

北朝鮮から 初めて 一人の選手が参加していました。

 

 

 

蓮池氏は

「北朝鮮政府は、限られた経済力を、

国際的にもアピールできる五輪の、

しかも 金メダルが狙える競技に集中しているのだろう。」

と言います。

 

「選抜された選手だけが 

 栄養価の高いものを食べられ、競技に取り組むことができる。」

と。

 

経済力と 競技を支持する文化との 両面が充実していない限り、

運動選手への 継続的な支援は 難しいと思います。

 

「金メダル至上主義」との言葉も蓮池氏の言葉にはありましたが、

発展途上の国々にとっては そうならざるを得ないでしょう。

 

国威発揚も 情報操作も

いずれも かつての日本に存在したものでした。

 

また その頃の日本における障害者への福祉や支援は 

とても お寒いものでした。

 

 

 

障害の有無にかかわらず、

才能がある人が 周りの協力を得て 好きな競技を続けられる。

 

あるいは、才能はともかく、誰もが 好きな趣味を続けられる。

 

それは まさに 理想の姿かと思います。

 

それこそが 文化の充実度を 如実に顕す指標でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

私は 幅広い競技で日本人が健闘している様子を見て

日本の国力の充実が まだ不況に押し流されていない事の顕れであり、

多様な文化を尊重する日本人の精神性の表れであると思い、

とても安心し、力強く感じました。

 

一方、

スポンサーの獲得が難しくなったり、

経済的に競技を諦めざるを得なくなる選手も出てくるなど、

右肩下がりの経済が続いている事の不幸せも感じました。

 

ことに パラリンピアンにとっては

最新技術の車椅子も 高額な競技用義足も 

優秀なコーチも 練習場の確保も

経済的な基盤があってこその 一流アスリートなのです。

 

(日本のパラリンピアンには 専属コーチがいなかったり、

 無償ボランティアのコーチも多い。)

 

 

メダルの数でもわかるように、

日本における障害者支援は まだまだ充実しているとは言えません。

 

車椅子での団体球技、車いすラグビーが

アメリカでは大勢の観客が詰めかける人気スポーツだなんて、

知りませんでしたよ。

 

障害者アスリートの競技人生が より充実したものであるよう、

国民が アタリマエに応援できる日本の文化であり続けますように。

 

 

 

スポーツが 日本の文化として 成熟していくのは 

まだまだこれからです!

 

 

 

 

 

今日はここまで!

 

 

 

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チームワーク (その2)

よくご法事の後で お話させていただく事ですが。

 

有名な政治家、偉いお坊さんなどが

 

「人という字は 一本の棒と 一本の棒が 

 互いに支え合って できている字です。

 

 だから 人は ひとりでは生きていけない。

 

周りの人を 大切にしましょう。」

 

と 教えてくれます。

 

でも、これは、本当は・・・・・・間違っています。

 

人という字は 人を横から見た姿、

二本の足で しっかりと 大地を歩いている姿なんです。

 

ついでにいえば、人を真正面から見た漢字は 「大」。

 

両手を思い切り広げ、

両足で 大地を しっかりと踏みしめている姿です。

 

 

 

 

 

 

伝教大師のお言葉に 

「己を忘れて 他を利するは 慈悲の極みなり」

と あります。

 

ここで、

「ほかの人のために」と考えるのは 

とても大切な事だと思うのですが、

 

その前に

「自分を捨てる」ということを 自分がすることは

やはり 非常に大切な事だと思います。

 

「己を忘れて」を忘れて

「他を利する」だけでは 

単なるおせっかいになってしまうのではないでしょうか。

 

「和を以って 貴しと為す」 という 聖徳太子のお言葉も

「忤(さか)うること無きを 宗(むね)とせよ」 と続き、

 

人と人とは 仲良くすることが大切なことで、

お互いにケンカをしないように心掛けなさい、という事で、

 

決して チームワークを強制しているわけではなく、

 

むしろ 他人の個性や主張や立場を 認めてあげなさい

という事なのです。

 

 

あちらこちらのサークルや会合に、

顔を出し 口を出し 手を出すことで よいお付き合い 

と考えるのは、

 

その各方面に一生懸命であればよいのですが、

それによって自分のなすべきことが おろそかになってしまっては、

ややもすると もっと大きな意味で、

大事な場面でチームワークを乱す事になりかねません。

 

 

チームワークは 

ひとりひとりが 

為すべきことを 

きちんと行なったうえで成り立つ結果である

という事に

早く気づくことが大事だと思います。

 

 

 

 

 

大海の波浪は 是れ 常有に非ず

 是れ 常無に非ざるが如し

 

(大海原の波浪は、その一つ一つが 

 恒常的に波という固定的形態をとっているのでもなければ、

 それが全く無いということもない。          唐 一行)

 

 

 

皆様のご健寿と ご隆盛を 重ねて 心から 祈念申し上げます。

 

 

 

 

 

ああ、また出て来ましたね、「<人>という字」(苦笑)。

 

つまりは、

「たとえ チームワークに関してでさえ、

 仏教では<個>人を重要視する」と言いたかったのですが、

伝わっていますでしょうか?(汗)

 

 

 

 

 

 

今日はここまで!

 

 

 

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