埼玉県深谷市にある
吉祥寺の住職のブログ
イチョウの下のよもやま話
法話 お通夜にて その3
こういった考え方の名残で、
本日 世話役の皆さんは 平服でのお手伝いです。
「喪服は 喪に服する時の着衣。
まだ この人は 死んでいないんだから、
喪服を着るなど 失礼極まりない。」
という、当地の皆さんの意思表示なのです。
また、ほんの十年数程前まで、
当地では お通夜に
私ども 僧侶が読経をするという習慣が ありませんでした。
「坊さんに経を読んでもらうのは、死んだ後」
との考え方もあったようです。
逆に、ある老僧から
「若い頃は、大勢の人が集って来て、
お祭りのような騒ぎの中、
故人の枕辺で 一晩中、
と言っても 七時頃から 十二時過ぎまで
死者の生き返りを祈って 読経を続けるのが
僧侶の仕事だった」
という話を聞いた事もあります。
更に、北関東のある地方では、
病気見舞いののし袋を 通夜の晩に 故人の霊前に捧げ、
香典は 翌日 告別式の時に受付に渡す という慣例が
つい最近まで残っていました。
これも、
通夜の晩は 故人として認めてはいないという、
復活を望む近しい人々の心情だったのでしょう。
現在、脳死という新たな問題も出てきましたが、
医師はおおかた、
① 呼吸が止まった
② 心臓の鼓動が 聞こえなくなった
③ 瞳孔の反射がなくなった
という 三徴候説によって
「〇〇時〇〇分、 ご臨終です」
と、近親者にとっては非情かもしれませんが、
正確な死の確認を してくれます。
その後、死者が生き返る事は ほぼ望めないかも知れません。
即ち、医学が発達した現在、
通夜は 既に
意味をなさない過去の遺物となってしまったのものように
考えられるかも知れません。
しかし、現に
故人が 私達の前から 永久にいなくなるという事は
大変な事です。
昔日の私達の先人が、
近親者の死に直面して、
切に その復活を祈った通夜の一夜、
その心根は、どんなに科学が発展しようとも、
人として持ち続けるべき優しさ、純粋さ
なのではないでしょうか。
どうか お通夜には、
いたずらに涙するのではなく、
こういった 通夜の意味を念頭に、
故人の遺徳を 静かに偲んでいただければと 思います。
以上
本日 世話役の皆さんは 平服でのお手伝いです。
「喪服は 喪に服する時の着衣。
まだ この人は 死んでいないんだから、
喪服を着るなど 失礼極まりない。」
という、当地の皆さんの意思表示なのです。
また、ほんの十年数程前まで、
当地では お通夜に
私ども 僧侶が読経をするという習慣が ありませんでした。
「坊さんに経を読んでもらうのは、死んだ後」
との考え方もあったようです。
逆に、ある老僧から
「若い頃は、大勢の人が集って来て、
お祭りのような騒ぎの中、
故人の枕辺で 一晩中、
と言っても 七時頃から 十二時過ぎまで
死者の生き返りを祈って 読経を続けるのが
僧侶の仕事だった」
という話を聞いた事もあります。
更に、北関東のある地方では、
病気見舞いののし袋を 通夜の晩に 故人の霊前に捧げ、
香典は 翌日 告別式の時に受付に渡す という慣例が
つい最近まで残っていました。
これも、
通夜の晩は 故人として認めてはいないという、
復活を望む近しい人々の心情だったのでしょう。
現在、脳死という新たな問題も出てきましたが、
医師はおおかた、
① 呼吸が止まった
② 心臓の鼓動が 聞こえなくなった
③ 瞳孔の反射がなくなった
という 三徴候説によって
「〇〇時〇〇分、 ご臨終です」
と、近親者にとっては非情かもしれませんが、
正確な死の確認を してくれます。
その後、死者が生き返る事は ほぼ望めないかも知れません。
即ち、医学が発達した現在、
通夜は 既に
意味をなさない過去の遺物となってしまったのものように
考えられるかも知れません。
しかし、現に
故人が 私達の前から 永久にいなくなるという事は
大変な事です。
昔日の私達の先人が、
近親者の死に直面して、
切に その復活を祈った通夜の一夜、
その心根は、どんなに科学が発展しようとも、
人として持ち続けるべき優しさ、純粋さ
なのではないでしょうか。
どうか お通夜には、
いたずらに涙するのではなく、
こういった 通夜の意味を念頭に、
故人の遺徳を 静かに偲んでいただければと 思います。
以上
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法話 お通夜にて その2
現代社会では、
会場設定やその準備、知人への連絡等 さまざまな都合で、
お通夜を その方が亡くなった晩に執行することは
むしろ稀になりましたが、
もともとは 人が亡くなった晩に
親しい人々が集って来て 執り行うのが普通でした。
それは 何故か。
昔の臨終の場面を 想像してみて下さい。
自宅の奥で 家族や親戚、ごく親しい友人に看取られ、
その人の最後が 厳かに訪れる。
そこに 医師の立ち会いは ほとんどの場合 望めませんでした。
「息をしなくなった」
「心臓の鼓動が止まったようだ」
等と言っても、
専門家でない者が、
近親者という平静でいられようはずもない立場で、
死の判定という 極めて重要な事を
正確に下す事ができるはずがありません。
「もしかして まだ生きているのではないか」
「またすぐに 生き返るのではないか」
「生き返って欲しい」
と願うのが 近しい人達の心情であるはずです。
だから お通夜が必要なのです。
お年寄りから
「お通夜はにぎやかな方がよい」
と聞いた事がありませんか?
人が亡くなった、
或いは 亡くなったように見えるその晩、
家族、親戚、近所の友人知人が
枕元に集って来て 酒食をしながら 一晩を過ごす。
その気配に誘引されて
死者が生き返ってくれるのではなか、
目を開けてくれるのではかいか。
その願いが
お通夜の意義なのです。
温かかった身体が 次第に冷たくなっていって、
その場の人々にとっても
死を認めざるを得ない状態まで 番をする。
死を確認するための 一つの通過儀礼、
それが お通夜だと 言えるでしょう。
続く
会場設定やその準備、知人への連絡等 さまざまな都合で、
お通夜を その方が亡くなった晩に執行することは
むしろ稀になりましたが、
もともとは 人が亡くなった晩に
親しい人々が集って来て 執り行うのが普通でした。
それは 何故か。
昔の臨終の場面を 想像してみて下さい。
自宅の奥で 家族や親戚、ごく親しい友人に看取られ、
その人の最後が 厳かに訪れる。
そこに 医師の立ち会いは ほとんどの場合 望めませんでした。
「息をしなくなった」
「心臓の鼓動が止まったようだ」
等と言っても、
専門家でない者が、
近親者という平静でいられようはずもない立場で、
死の判定という 極めて重要な事を
正確に下す事ができるはずがありません。
「もしかして まだ生きているのではないか」
「またすぐに 生き返るのではないか」
「生き返って欲しい」
と願うのが 近しい人達の心情であるはずです。
だから お通夜が必要なのです。
お年寄りから
「お通夜はにぎやかな方がよい」
と聞いた事がありませんか?
人が亡くなった、
或いは 亡くなったように見えるその晩、
家族、親戚、近所の友人知人が
枕元に集って来て 酒食をしながら 一晩を過ごす。
その気配に誘引されて
死者が生き返ってくれるのではなか、
目を開けてくれるのではかいか。
その願いが
お通夜の意義なのです。
温かかった身体が 次第に冷たくなっていって、
その場の人々にとっても
死を認めざるを得ない状態まで 番をする。
死を確認するための 一つの通過儀礼、
それが お通夜だと 言えるでしょう。
続く
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法話 お通夜にて その1
先代住職にお声を掛けていただいて当地にやって来た時は
30歳を迎える頃でした。
その時から どの会合に顔をだしても、
ずっと最年少でした(笑)。
若輩者で浅学菲才、
発言権を持たない会合に出席する事もありました(苦笑)。
口をきけば生意気ばかり言っていましたが
若いと許される事もあったと思います(冷や汗)。
そんな私も50代半ばを過ぎ、
なんと、時折 講演会の講師のご依頼を受ける事も出てきました。
もはや「一番の若手」では なくなってきている事を
実感する次第です(苦笑)。
ご葬儀やご法要で
私なりに 何かをお伝えできればと
ご法話をさせていただくように心掛けておりますが
講演や法話の中から
この「よもやま話」にアップさせていただこうと思います。
普段 実際に考えている事ですので
皆さんのお耳に届いた内容も含まれているでしょう。
ご意見やご異見、ご質問などを頂戴できれば幸いに思います。
最初は お通夜に際してのご法話として考えたものです。
ご一読していただければわかるように、
ずいぶん前に書いたものです(汗)。
かと言って、今の状況に即して今書いても
もっと上等な文章になるかどうか、不安です(汗)。
通夜法話
葬儀の前夜に なぜ 通夜という名の法事を行なうのか
不思議に思われている方も多いのではないでしょうか。
仏教の場合、
一方では 「無念無想」などといって
悟りを表現する場合もあるかも知れませんが、
「因果」を認識する事が、実は 教理上 とても重要な事であり、
儀礼においても、
何故 そのような行いをするのか、
そうする事によって、何故 人が救われるのか、
といった理由は、
「無念無想」以前に とても大切な事なのです。
この時間を、ほんの少し 使わせていただいて、
何故 通夜を行なうのか、
当地・埼玉県深谷市の 通過儀礼の特色と併せて
考えてみたいと思います。
まず、お通夜そのものを見る前に、
その前提として、
この法事が 必ずしも 仏教の教えによって行なわれるのではない
という事を申しておきたいと思います。
日本の冠婚葬祭は
仏教、儒教、道教、神道、キリスト教、地域の土着信仰 等々が
複雑にからみ合い、
しかも 違和感なく 成り立っているようです。
それは、土台となる宗教、宗派 等によって
様々な展開を見せているのですが、
儀式の考え方、内容を決定付けているのは、
何と言っても その地域の昔からの信仰であるといえるでしょう。
たとえば、仏教の葬儀を見ても、
大小の地域性、考え方の違いがあって、
儀礼の起源や意義にも諸説があり、
必ずしも安易に定義付けられるものでは ありません。
今晩のお通夜、明日の葬儀も、
初めて当地の儀式を体験する 親戚や 知人の皆様にとりましては、
驚かれたり、戸惑われたりする場面も
或いは多いかと存じます。
続きます
30歳を迎える頃でした。
その時から どの会合に顔をだしても、
ずっと最年少でした(笑)。
若輩者で浅学菲才、
発言権を持たない会合に出席する事もありました(苦笑)。
口をきけば生意気ばかり言っていましたが
若いと許される事もあったと思います(冷や汗)。
そんな私も50代半ばを過ぎ、
なんと、時折 講演会の講師のご依頼を受ける事も出てきました。
もはや「一番の若手」では なくなってきている事を
実感する次第です(苦笑)。
ご葬儀やご法要で
私なりに 何かをお伝えできればと
ご法話をさせていただくように心掛けておりますが
講演や法話の中から
この「よもやま話」にアップさせていただこうと思います。
普段 実際に考えている事ですので
皆さんのお耳に届いた内容も含まれているでしょう。
ご意見やご異見、ご質問などを頂戴できれば幸いに思います。
最初は お通夜に際してのご法話として考えたものです。
ご一読していただければわかるように、
ずいぶん前に書いたものです(汗)。
かと言って、今の状況に即して今書いても
もっと上等な文章になるかどうか、不安です(汗)。
通夜法話
葬儀の前夜に なぜ 通夜という名の法事を行なうのか
不思議に思われている方も多いのではないでしょうか。
仏教の場合、
一方では 「無念無想」などといって
悟りを表現する場合もあるかも知れませんが、
「因果」を認識する事が、実は 教理上 とても重要な事であり、
儀礼においても、
何故 そのような行いをするのか、
そうする事によって、何故 人が救われるのか、
といった理由は、
「無念無想」以前に とても大切な事なのです。
この時間を、ほんの少し 使わせていただいて、
何故 通夜を行なうのか、
当地・埼玉県深谷市の 通過儀礼の特色と併せて
考えてみたいと思います。
まず、お通夜そのものを見る前に、
その前提として、
この法事が 必ずしも 仏教の教えによって行なわれるのではない
という事を申しておきたいと思います。
日本の冠婚葬祭は
仏教、儒教、道教、神道、キリスト教、地域の土着信仰 等々が
複雑にからみ合い、
しかも 違和感なく 成り立っているようです。
それは、土台となる宗教、宗派 等によって
様々な展開を見せているのですが、
儀式の考え方、内容を決定付けているのは、
何と言っても その地域の昔からの信仰であるといえるでしょう。
たとえば、仏教の葬儀を見ても、
大小の地域性、考え方の違いがあって、
儀礼の起源や意義にも諸説があり、
必ずしも安易に定義付けられるものでは ありません。
今晩のお通夜、明日の葬儀も、
初めて当地の儀式を体験する 親戚や 知人の皆様にとりましては、
驚かれたり、戸惑われたりする場面も
或いは多いかと存じます。
続きます
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志操堅固
1月11日は 何の日でしょう?
俗に言う、「ゾロ目」ですね。
一番多い回答は、「鏡開き」でしょう。
新聞には 「震災から1年10ヶ月」と出ていました。
私は 日誌を整理していて、
震災少し前の1月11日に
向島に出かけていた事がわかりました。
その日 向島の I川さん宅にお邪魔して
一枚の印刷物をいただいたのです。
それは 先代住職が お檀家さんに 初めて私を紹介した一文が
書かれていたのです。
初めて目にするものでした。
先代は、副住職となる人物、私を
「温厚篤実にして 志操堅固の方です」
と紹介してくださっていました。
先代の一周忌も過ぎたところで出てきた、先代の遺文です。
深く感じる所がありました。
ところが、意味がわかりません。
「志操堅固(しそうけんご) 」の語です。
「物事をしようという意志が固いこと。
環境などに左右されず、志を守って変えないこと。」
だそうです。
メモをしておきましたが、今 初めて調べました。
「座右の銘にしたい四字熟語」に出ていました。
(面白いサイトがあるものですね!)
書面の日付は 「昭和61年2月吉日」と なっていました。
俗に言う、「ゾロ目」ですね。
一番多い回答は、「鏡開き」でしょう。
新聞には 「震災から1年10ヶ月」と出ていました。
私は 日誌を整理していて、
震災少し前の1月11日に
向島に出かけていた事がわかりました。
その日 向島の I川さん宅にお邪魔して
一枚の印刷物をいただいたのです。
それは 先代住職が お檀家さんに 初めて私を紹介した一文が
書かれていたのです。
初めて目にするものでした。
先代は、副住職となる人物、私を
「温厚篤実にして 志操堅固の方です」
と紹介してくださっていました。
先代の一周忌も過ぎたところで出てきた、先代の遺文です。
深く感じる所がありました。
ところが、意味がわかりません。
「志操堅固(しそうけんご) 」の語です。
「物事をしようという意志が固いこと。
環境などに左右されず、志を守って変えないこと。」
だそうです。
メモをしておきましたが、今 初めて調べました。
「座右の銘にしたい四字熟語」に出ていました。
(面白いサイトがあるものですね!)
書面の日付は 「昭和61年2月吉日」と なっていました。
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遊戯(ゆげ)三昧(ざんまい) (その2)
平素の吉祥寺へのご厚志を感謝申し上げます。
※吉祥寺ホームページを開設いたしました。
まだ不備な箇所もありますが(墓地その他に関わるQ&A~問答 等)、
年中行事をお知らせしたり、
写真を多く載せたり、
グッズを紹介したり、
当山の寺史など
なるべく解りやすくをモットーに 解説させていただいております。
ご興味のある方は 閲覧してみてください。
アドレスは 『 http://www.kichijoji.or.jp/』 で、
同封の<オリジナルしおり>にも 印刷しておきましたが、
「埼玉県深谷市中瀬 吉祥寺」 或いは「義光院 吉祥寺」
で検索していただいても ヒットすると思います。
※合葬墓を開設しております。
形状は お墓のマンションと考えてください。
ご利用の方は 墓友(はかとも) になっていただきます。
お墓の名前は 「涅槃の塔」、
塔の御本尊は 「初転法輪のお釈迦様」、
塔の上のストゥーパには
「私を悟りに導いて下さい」という意味の
「光明真言」 が 刻まれています。
皆さんのご先祖を 皆さんで永久にお守りしていこう
という墓地です。
後継に不安のある方など お気軽にご相談ください。
その他、通常の墓地用地、永代供養墓地 等も
分譲中です。
お気軽にお問い合わせください。
※法事後の清宴等に於ける無礙光寮(客殿)の使用は
お施主様のご希望によるものです。
使用上の内規(必要な方はお申し出下さい)をご確認のうえ、
有効にご利用ください。
(部屋数、時間等の都合で 利用できない場合もありますので、
あらかじめ ご了承下さい)
※御法事・御葬儀等のご連絡・お申し込みは、御来山いただくより
確実な電話かファックスをご利用ください。
(Eメールでのご連絡は 現段階では受け付けておりません)
※その他、住職に用事があって来山される場合にも、
必ず電話でご用件と在宅、日時を確認して下さい。
また、御来山の際には、先ず寺務所のインターホンで
来意をお知らせください。
なお、御法事、会議で御来山の方は、
直接 大玄関のインターホンを押して下さい。
※ご葬儀のご依頼は、なるべく早く、時間を気にせず、
必ず一度 電話でお知らせください。
また、日時や場所の決定は 住職を交えて決めてください。
(先に日時が決められてしまいますと
予定が立たなくなる場合がありますので
充分ご注意ください)
※中瀬以外の檀徒の皆様へ → ご不幸ができた場合は
必ず菩提寺である吉祥寺にご連絡下さい。
日時を調整した上で 参上させていただきます。
(悪徳葬儀社による被害が頻発しています。
ご注意下さい)
※住職は 現在 I件I市S寺を 実質 兼務しております。
日程調整で ご迷惑をおかけする事もあるかと思いますが、
ご理解、ご協力のほど お願い申し上げます。
ご法事等の日時予約は なるべく早く お願いいたします。
※法嗣が加行(けぎょう)という修行を満行し、
灌頂(かんじょう)という儀式も終えて
阿闍梨(あじゃり)の一員に加えられました。
現在、実質的な勉強の意味で、住職のお付き(お手許)として
ご法事等 勤めさせていただいております。
また、住職に代わって法務を代行する場合もあります。
よろしくご指導の程 お願いいたします。
(法嗣の代行で不都合がある場合は、
ご遠慮なさらず お申し出ください)
※年始・大般若・春秋彼岸・迎え盆・施餓鬼 等々の年中行事、仏遊会等には、
お時間が許せば、ぜひ ご参加いただき、
仏教の法悦、季節の移ろいを 感じ取ってください。
お待ちしております。
吉祥寺への連絡
住所 〒366-0001 埼玉県深谷市中瀬410番地
電話番号 048 (587)2031
ファックス 048 (587)4944
(携帯電話は 在宅時には 電源を切ってあります)
平成25年度 吉祥寺年間主要行事予定
→ ホームページをご覧下さい(笑)
こちらです → 年中行事:吉祥寺
このページ ↑ に 今年は 仏遊会の予定も入れてあります。
去年の仏遊会は 日にちを変更したり 私が欠席したり、
を 何度もしてしまいました(汗)。
今年も 都合で 変更されるかもしれません。
ポスター または ブログ「座敷ネズミの吉祥寺だより」で
ご確認ください。
今年の最初の仏遊会は 1月19日(土曜日)の予定です。
今日は、ここまで!
※吉祥寺ホームページを開設いたしました。
まだ不備な箇所もありますが(墓地その他に関わるQ&A~問答 等)、
年中行事をお知らせしたり、
写真を多く載せたり、
グッズを紹介したり、
当山の寺史など
なるべく解りやすくをモットーに 解説させていただいております。
ご興味のある方は 閲覧してみてください。
アドレスは 『 http://www.kichijoji.or.jp/』 で、
同封の<オリジナルしおり>にも 印刷しておきましたが、
「埼玉県深谷市中瀬 吉祥寺」 或いは「義光院 吉祥寺」
で検索していただいても ヒットすると思います。
※合葬墓を開設しております。
形状は お墓のマンションと考えてください。
ご利用の方は 墓友(はかとも) になっていただきます。
お墓の名前は 「涅槃の塔」、
塔の御本尊は 「初転法輪のお釈迦様」、
塔の上のストゥーパには
「私を悟りに導いて下さい」という意味の
「光明真言」 が 刻まれています。
皆さんのご先祖を 皆さんで永久にお守りしていこう
という墓地です。
後継に不安のある方など お気軽にご相談ください。
その他、通常の墓地用地、永代供養墓地 等も
分譲中です。
お気軽にお問い合わせください。
※法事後の清宴等に於ける無礙光寮(客殿)の使用は
お施主様のご希望によるものです。
使用上の内規(必要な方はお申し出下さい)をご確認のうえ、
有効にご利用ください。
(部屋数、時間等の都合で 利用できない場合もありますので、
あらかじめ ご了承下さい)
※御法事・御葬儀等のご連絡・お申し込みは、御来山いただくより
確実な電話かファックスをご利用ください。
(Eメールでのご連絡は 現段階では受け付けておりません)
※その他、住職に用事があって来山される場合にも、
必ず電話でご用件と在宅、日時を確認して下さい。
また、御来山の際には、先ず寺務所のインターホンで
来意をお知らせください。
なお、御法事、会議で御来山の方は、
直接 大玄関のインターホンを押して下さい。
※ご葬儀のご依頼は、なるべく早く、時間を気にせず、
必ず一度 電話でお知らせください。
また、日時や場所の決定は 住職を交えて決めてください。
(先に日時が決められてしまいますと
予定が立たなくなる場合がありますので
充分ご注意ください)
※中瀬以外の檀徒の皆様へ → ご不幸ができた場合は
必ず菩提寺である吉祥寺にご連絡下さい。
日時を調整した上で 参上させていただきます。
(悪徳葬儀社による被害が頻発しています。
ご注意下さい)
※住職は 現在 I件I市S寺を 実質 兼務しております。
日程調整で ご迷惑をおかけする事もあるかと思いますが、
ご理解、ご協力のほど お願い申し上げます。
ご法事等の日時予約は なるべく早く お願いいたします。
※法嗣が加行(けぎょう)という修行を満行し、
灌頂(かんじょう)という儀式も終えて
阿闍梨(あじゃり)の一員に加えられました。
現在、実質的な勉強の意味で、住職のお付き(お手許)として
ご法事等 勤めさせていただいております。
また、住職に代わって法務を代行する場合もあります。
よろしくご指導の程 お願いいたします。
(法嗣の代行で不都合がある場合は、
ご遠慮なさらず お申し出ください)
※年始・大般若・春秋彼岸・迎え盆・施餓鬼 等々の年中行事、仏遊会等には、
お時間が許せば、ぜひ ご参加いただき、
仏教の法悦、季節の移ろいを 感じ取ってください。
お待ちしております。
吉祥寺への連絡
住所 〒366-0001 埼玉県深谷市中瀬410番地
電話番号 048 (587)2031
ファックス 048 (587)4944
(携帯電話は 在宅時には 電源を切ってあります)
平成25年度 吉祥寺年間主要行事予定
→ ホームページをご覧下さい(笑)
こちらです → 年中行事:吉祥寺
このページ ↑ に 今年は 仏遊会の予定も入れてあります。
去年の仏遊会は 日にちを変更したり 私が欠席したり、
を 何度もしてしまいました(汗)。
今年も 都合で 変更されるかもしれません。
ポスター または ブログ「座敷ネズミの吉祥寺だより」で
ご確認ください。
今年の最初の仏遊会は 1月19日(土曜日)の予定です。
今日は、ここまで!
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遊戯(ゆげ)三昧(ざんまい) (その1)
遊戯三昧
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ
平成25年歳首に當たり、謹んで至心に三宝を誦し、
併せて 檀信徒の皆様の 御清祥を 心よりお祈り申し上げます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
今年の年頭のご挨拶です。
中瀬外の方には郵送で、
中瀬内の方には 歩いてお配りした お札と共に
お渡ししました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
またひとつ 年を重ねる事ができました。
ありがたい事です。
ただ、世の中の移り変わりが あまりに早く、
自分の周りの様子も どんどん変化していき、
それらについていけない自分に 不安を感じてしまいます。
東京スカイツリーの開業や
関越自動車道高速バスの事故から
まだ 一年が経っていない事、
吉祥寺の合奏墓の開眼や ホームページの開設から
まだ一年が経っていない事・・・、
その後の目まぐるしい出来事を思うと、
これ等ははるか昔の事のように思えてしまいます。
夢のように 時は流れていきます。
昨年のNHK大河ドラマ『平清盛』の主題歌に出てくる
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ」の歌詞は、
平安時代後期の 後白河法皇の『梁塵秘抄』の中にありますが、
この歌詞と彼の曲は、
時の流れの速さに疲れ、混乱し、不安にあった私の心に、
いつも 一陣の爽やかな癒しの風を感じさせてくれます。
民俗学では、遊びとは
「本来 神を楽しませ、神と人の交歓を行なうもの。
また、先祖の魂を揺さぶり、蘇生を願うもの」
「神を祀って喜ばせていたものが、
やがて 人間が統帥の境地に入る事を言うようになった。
すなわち 遊びは 聖なるものの模倣である」
「遊びは
楽しみを求める事と、
ゆったりとくつろいだ気分になる事を求める事の
二面性がある」
などと解説しています。
仏教辞典を引いてみると、
「遊戯(ゆげ)とは、
菩薩の自由自在な活動、仏の境地に模して
それを喜び楽しみ、心のままに自由である事。
自由自在に諸方を行き来して 人々を教化する事」
と ありました。
「あそび」とは、
現代的な印象としての「怠惰」に通じるものでは 決してなく、
自由と喜びの ゆったりした楽しい事のようです。
そして、むしろ 神聖なもののようです。
自分は なぜ 生れてきたんだろう?
自分の人生は なんなんだろう?
自分は これから 何処へ向かっていけばいいんだろう?
そんなふうに考え込んでしまった時は、
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ」
と口ずさんで、
取り敢えずは 自分というものを
神さまや仏さまに お預けしてみましょうか。
少~し 楽になれそうな気がします。
檀信徒の皆さんに 幸多からん事を
心からお祈り申しあげます。
新年祈祷札について
◎戸守り
◎本山札
◎吉祥寺オリジナル本革製しおり ~ 11種類の色があります。
今年、良い本に巡り合えますように。
また、心が沈みそうな時の、元気になれるお守りとしても
携帯してみてください。
☆当山のものであるなしにかかわらず、古いお札、お塔婆等は
お焚き上げ供養をします。
お申し出下さい。
平成25年 年回繰出表
一周忌・・・・・平成24年
三回忌・・・・・平成23年
七回忌・・・・・平成19年
十三回忌・・・・平成13年
十七回忌・・・・平成9年
二十三回忌・・・平成3年
二十七回忌・・・昭和62年
三十三回忌・・・昭和56年
三十七回忌・・・昭和52年
五十回忌・・・・昭和39年
百回・・・・・・大正3年
※以下 五十年毎が年回忌です。
(この他、二十一回忌・二十五回忌 等を行なう場合もあります。)
※本年、年回御霊のあるお施主様には、
別紙にて その旨お知らせさせていただきます。
長くなりそうです。
今日は、ここまで!
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ
平成25年歳首に當たり、謹んで至心に三宝を誦し、
併せて 檀信徒の皆様の 御清祥を 心よりお祈り申し上げます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
今年の年頭のご挨拶です。
中瀬外の方には郵送で、
中瀬内の方には 歩いてお配りした お札と共に
お渡ししました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
またひとつ 年を重ねる事ができました。
ありがたい事です。
ただ、世の中の移り変わりが あまりに早く、
自分の周りの様子も どんどん変化していき、
それらについていけない自分に 不安を感じてしまいます。
東京スカイツリーの開業や
関越自動車道高速バスの事故から
まだ 一年が経っていない事、
吉祥寺の合奏墓の開眼や ホームページの開設から
まだ一年が経っていない事・・・、
その後の目まぐるしい出来事を思うと、
これ等ははるか昔の事のように思えてしまいます。
夢のように 時は流れていきます。
昨年のNHK大河ドラマ『平清盛』の主題歌に出てくる
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ」の歌詞は、
平安時代後期の 後白河法皇の『梁塵秘抄』の中にありますが、
この歌詞と彼の曲は、
時の流れの速さに疲れ、混乱し、不安にあった私の心に、
いつも 一陣の爽やかな癒しの風を感じさせてくれます。
民俗学では、遊びとは
「本来 神を楽しませ、神と人の交歓を行なうもの。
また、先祖の魂を揺さぶり、蘇生を願うもの」
「神を祀って喜ばせていたものが、
やがて 人間が統帥の境地に入る事を言うようになった。
すなわち 遊びは 聖なるものの模倣である」
「遊びは
楽しみを求める事と、
ゆったりとくつろいだ気分になる事を求める事の
二面性がある」
などと解説しています。
仏教辞典を引いてみると、
「遊戯(ゆげ)とは、
菩薩の自由自在な活動、仏の境地に模して
それを喜び楽しみ、心のままに自由である事。
自由自在に諸方を行き来して 人々を教化する事」
と ありました。
「あそび」とは、
現代的な印象としての「怠惰」に通じるものでは 決してなく、
自由と喜びの ゆったりした楽しい事のようです。
そして、むしろ 神聖なもののようです。
自分は なぜ 生れてきたんだろう?
自分の人生は なんなんだろう?
自分は これから 何処へ向かっていけばいいんだろう?
そんなふうに考え込んでしまった時は、
「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけむ」
と口ずさんで、
取り敢えずは 自分というものを
神さまや仏さまに お預けしてみましょうか。
少~し 楽になれそうな気がします。
檀信徒の皆さんに 幸多からん事を
心からお祈り申しあげます。
新年祈祷札について
◎戸守り
◎本山札
◎吉祥寺オリジナル本革製しおり ~ 11種類の色があります。
今年、良い本に巡り合えますように。
また、心が沈みそうな時の、元気になれるお守りとしても
携帯してみてください。
☆当山のものであるなしにかかわらず、古いお札、お塔婆等は
お焚き上げ供養をします。
お申し出下さい。
平成25年 年回繰出表
一周忌・・・・・平成24年
三回忌・・・・・平成23年
七回忌・・・・・平成19年
十三回忌・・・・平成13年
十七回忌・・・・平成9年
二十三回忌・・・平成3年
二十七回忌・・・昭和62年
三十三回忌・・・昭和56年
三十七回忌・・・昭和52年
五十回忌・・・・昭和39年
百回・・・・・・大正3年
※以下 五十年毎が年回忌です。
(この他、二十一回忌・二十五回忌 等を行なう場合もあります。)
※本年、年回御霊のあるお施主様には、
別紙にて その旨お知らせさせていただきます。
長くなりそうです。
今日は、ここまで!
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