埼玉県深谷市にある
吉祥寺の住職のブログ
イチョウの下のよもやま話
仏名会 その7
ところで、仏名会は
当初において 懺悔だけを目的としていたわけではない。
『十二巻本仏名経』には、
「三世諸仏の名字を受持し読誦するならば、
現世安穏、諸難遠離、諸罪消滅、来世得無上菩提
の功徳が得られる」
と説かれている。
また、日本でも
当然 仏名会を修行した功徳については
意識されていたわけで、
永観二年(984)成立の『三宝絵詞』には、
三千仏名経中の
『過去荘厳経千仏名経』冒頭の文を引いて、
「三世三劫の諸仏の名を聞き、
書写し、
形像を描き、
香華、伎楽を供養し、
至心に礼拝すれば
無量の功徳を得られる。
住する所では 常に三宝に遇う。
八難に堕ちることもない。
礼拝する時には
心に観想し 口に唱える。
願わくば、
三悪道に堕ちることなく、
国を富ませ、人民に安心を与え、
よこしまな人の心に善心を生まれさせ、
すべての衆生と共に 極楽浄土に往生させたまえ。
ホトケの名を聞いたら 心から礼拝せよ。
礼拝しない者がいても 謗ってはならない。
計り知れない長い間に犯した一切の罪は
消滅するであろう。」
と記している。
この内容でみる限り、
仏名経読誦の修法は
修道儀礼を超えて、祈祷儀礼の領域にも依用される
十分な要素を持っているといえるのである。
現実に 仏名会が 宮中で修されたとしても、
それは 貴族自らが参加すると言うよりは
むしろ 僧侶による代受苦の修行であったという。
『建武年中行事』などに記された宮中仏名会の様子によると、
導師は 寒夜の行として下賜された被綿(かずけわた)を身に着け、
一仏毎に 五体投地礼を繰り返す。
これは 三日の各一夜を 初夜、半夜、後夜に分けて
交替で修行した。
この間 貴族も立ち会うが、
村上天皇などは 和琴を奏し、
右大将は 悪魔払いとて 弓弦をかき鳴らしたり、
寒いので 別室に下がった公卿たちは
摂津栢梨(かえなし)庄から献上させた酒を飲んだり(栢梨の献杯)
などしたという。
『三宝絵詞』では
『阿含経』を引いて
僧に衣を施す功徳を殊更に述べているが、
仏名会に被綿を布施するのは 恒例であったようだ。
また、仏名会の道場には、
正面に三千仏の掛け軸が掛けられ、
参拝者を取り囲むように 地獄変屏風が立てられるのが
通例であった。
罪を懺悔しない者の堕ちる世界を
絵画によって教示しようとしたわけで、
『枕草子』では 清少納言が
その図柄を 不気味がっている。
地獄変屏風を立てたり、
念仏の心得として
観念、称念 の両門を主張する事は、
当時の天台浄土教の影響が
強く作用していると考えられる。
このように、日本における仏名会は
古来からの大祓と同様の感覚で受容されながらも、
そこに求められたものは 穢れの浄化のみならず、
国土安穏や五穀豊穣、極楽往生なども含まれていた
と認識しなければならない。
さらに、懺悔という自己修養が基本にある修行であったものが、
祈祷という対他的法会にまで拡大されてきて、
必然的に 僧侶は 施主の代受苦者として
三千仏礼拝をおこなったのである。
歴史上の仏教法会のなかで言えば、
むしろ 仏名会は
対他的祈祷法会の側面が 半分以上であった
と言っても良いのかもしれない。
今日は、ここまで!
当初において 懺悔だけを目的としていたわけではない。
『十二巻本仏名経』には、
「三世諸仏の名字を受持し読誦するならば、
現世安穏、諸難遠離、諸罪消滅、来世得無上菩提
の功徳が得られる」
と説かれている。
また、日本でも
当然 仏名会を修行した功徳については
意識されていたわけで、
永観二年(984)成立の『三宝絵詞』には、
三千仏名経中の
『過去荘厳経千仏名経』冒頭の文を引いて、
「三世三劫の諸仏の名を聞き、
書写し、
形像を描き、
香華、伎楽を供養し、
至心に礼拝すれば
無量の功徳を得られる。
住する所では 常に三宝に遇う。
八難に堕ちることもない。
礼拝する時には
心に観想し 口に唱える。
願わくば、
三悪道に堕ちることなく、
国を富ませ、人民に安心を与え、
よこしまな人の心に善心を生まれさせ、
すべての衆生と共に 極楽浄土に往生させたまえ。
ホトケの名を聞いたら 心から礼拝せよ。
礼拝しない者がいても 謗ってはならない。
計り知れない長い間に犯した一切の罪は
消滅するであろう。」
と記している。
この内容でみる限り、
仏名経読誦の修法は
修道儀礼を超えて、祈祷儀礼の領域にも依用される
十分な要素を持っているといえるのである。
現実に 仏名会が 宮中で修されたとしても、
それは 貴族自らが参加すると言うよりは
むしろ 僧侶による代受苦の修行であったという。
『建武年中行事』などに記された宮中仏名会の様子によると、
導師は 寒夜の行として下賜された被綿(かずけわた)を身に着け、
一仏毎に 五体投地礼を繰り返す。
これは 三日の各一夜を 初夜、半夜、後夜に分けて
交替で修行した。
この間 貴族も立ち会うが、
村上天皇などは 和琴を奏し、
右大将は 悪魔払いとて 弓弦をかき鳴らしたり、
寒いので 別室に下がった公卿たちは
摂津栢梨(かえなし)庄から献上させた酒を飲んだり(栢梨の献杯)
などしたという。
『三宝絵詞』では
『阿含経』を引いて
僧に衣を施す功徳を殊更に述べているが、
仏名会に被綿を布施するのは 恒例であったようだ。
また、仏名会の道場には、
正面に三千仏の掛け軸が掛けられ、
参拝者を取り囲むように 地獄変屏風が立てられるのが
通例であった。
罪を懺悔しない者の堕ちる世界を
絵画によって教示しようとしたわけで、
『枕草子』では 清少納言が
その図柄を 不気味がっている。
地獄変屏風を立てたり、
念仏の心得として
観念、称念 の両門を主張する事は、
当時の天台浄土教の影響が
強く作用していると考えられる。
このように、日本における仏名会は
古来からの大祓と同様の感覚で受容されながらも、
そこに求められたものは 穢れの浄化のみならず、
国土安穏や五穀豊穣、極楽往生なども含まれていた
と認識しなければならない。
さらに、懺悔という自己修養が基本にある修行であったものが、
祈祷という対他的法会にまで拡大されてきて、
必然的に 僧侶は 施主の代受苦者として
三千仏礼拝をおこなったのである。
歴史上の仏教法会のなかで言えば、
むしろ 仏名会は
対他的祈祷法会の側面が 半分以上であった
と言っても良いのかもしれない。
今日は、ここまで!
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