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仏名会 その6

3、仏名会の日本的意義

 ここで一度 仏教法会の分類を 振り返っておこう。


 
 対自儀礼――― 修道儀礼 ~ 自己の信仰の開発、深化を求める

     ――― 法恩儀礼 ~ 恩得に感謝し、後進の微意を表す



 中間儀礼――― 特殊儀礼 ~ 開眼式、晋山式、結婚式等 
               自行化他のいずれにも分類できないもの



 対他儀礼――― 祈祷儀礼――― 祈願 ~ 心願成就のために仏神に一方的に祈る

            ――― 祈祷 ~ 仏神と一体化することによって願成就を祈る



     ――― 回向儀礼 ~ 葬送儀礼、追善儀礼等
               主に生者が死者に対して行う



一つの法会は 目的や時代によって分類上 様々に変化するのだろうが、
仏名会もまた その代表で、
自利利他の両面を兼ねて行われてきた。

そして、それが 本来の仏教理論と 
日本の民間信仰の交錯による結果であることは
言うまでもないだろう。



日本人は 伝統的に 浄罪という意識を強く持っていたようで、
宮中では
大宝元年(701)以降 6月と12月の晦日に
定期的な大祓が行われており、

宮中での儀式が衰退してからも
神社などにおいて 夏越(名越)の祓、年越の祓は 継承されてきている。

仏教では 6月の仏名会がこれに当たるのである。

つまり 神道的祓いの観念と 仏教の懺悔思想の対応である。

また、歳末に その年に犯した一切の罪を懺悔し祓ってしまう
という事は、

翌年正月の修正会に継続される行事である事を 見逃してはならない。

一切の罪を無くして新年を迎え、
国家安穏、天下泰平、五穀豊穣、万民幸い などを祈るのである。


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仏名会 その5

天長7年(830)閏12月8日 禁中にて 三箇日夜 仏名経儀礼(日本紀略前篇14等)

承和2年(835)12月20日 清涼殿にて 三日を限り 仏名経礼拝(同15)

承和5年(838)12月15日 清涼殿にて 三日三夜 仏名懺悔を修す。 内裏仏名会の始(続日本紀7)

承和13年(846)10月 太政官符により五畿内七道諸国において 12月15日から17日まで 国内の名僧を請して国衙で仏名懺悔を修するのが恒例となる。
布施は正税を用い、期間中は殺生禁断とされた。

仁寿3年(853)11月 太政官符により右の期間を19日から21日までに変更。

貞観5年(863)4月 賢永は 凶作と疫病の退散を願って一万三千仏画像、観音像、一切経を 伯耆国分寺に安置(三代実録)

貞観13年(871)9月 元興寺静安の奉請により宮中仏名会が恒例化し(類聚三代格2)、弟子賢護の奏進によって一万三千仏画像が 太政官ほか諸国に 計72安置される。

貞観18年(876)6月 一万三千仏画像19鋪が 諸国に安置される。

延喜18年(918)玄鑒の上奏によって 所依経典が『十六巻仏名経』から『三千仏名経』に改められる(塵添壒嚢鈔14) 
以降 宮中弘徽殿、清涼殿、常寧伝、綾綺伝、仁寿殿等で 毎年12月に3日間仏名懺悔が行ぜられたが、歳末で公事多く(雲図抄)、神事に当たる(年中行事秘抄)時などは 1日だけの修行もあった。

長寛以降 建久の頃(1163~1199)12月19日から25日までの1日だけの修行(玉葉)

建武年中(1334~1338) 一夜のみ修行

康永年中(1142~1345) 一日の修行に復される。

永和年代(1375~1379) 宮中仏名会断絶。鑒





以上の事項から、仏名会は 宮中における三会以外の公式行事にもなったが、

目的は 個人の懺悔というよりは、
懺悔を通して五穀豊穣や疫病退散などを祈る祈祷的性格が
当初より見られ、

やがては年末年始の神事(仏教行事としては成道会)に押されて
行われなくなってしまったようだ。



しかし、仏名会は 宮中だけでなく、諸寺においても伝えられ、

『薬師寺新黒草紙』『東宝記』『四天王寺年中法事記』『塵添壒嚢鈔』
等に記事が見られ、

現在でも 大寺を中心に重要な仏教行事として伝えられている。



また、『枕草子』『栄花物語』『拾玉集』等 
文学の中にも宮中仏名会の様子が語られ、

民間においても
『兼盛集』『本朝文粋』等に
各家毎や 有志によって修行された仏名会の事が記されている。





今日は、ここまで!


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仏名会 その4

2、変遷

  中国では 東晋以降に 仏名経の訳出が盛んになり、
  仏名懺悔も行ぜられるようになった。

  『往生論註』巻下では 菩薩の行法として 
  十万一切の諸仏を 昼三時夜三時に礼するべきだと示す。

  『法苑珠林』第八十六には
  会昌寺得美が 十二巻本を誦して 懺悔毎に礼拝し、
  夏に一日一万五千仏の礼讃を行じた事が記られている。

  『仏祖統記』第三十九では 
  海陵の恵盈が 民の苦を救うために 
  六時に三千仏を礼したと記し、

  『広弘明集』第二十六には
  如来の正業に限量無く、
  本師釈迦と方広経諸説の三宝を
  礼すべき旨が説かれている。

  中国の仏名を誦するという行は、
  恵盈のように利他のための呪術的行という例もあるが、
  あくまで一つの懺悔法と見るべきで、
  期日や時間、所依なども 様々であったと推測されるのである。





  日本の現在の仏名会の起源を求めるとすれば、
  悔過行事という大枠の中において、
  民族的祓(はらい)の観念との習合や、
  仏教行事としての儀礼化などと関連して
  しだいに形を整えたものとみるべきで、
  中国直輸入の仏名会が そのままの形で
  現在に至っているわけではないと考えるべきだろう。





  記録に残る日本仏教の初期的悔過行事としては、

  朱鳥元年(686)七月 天武天皇の御悩祈祷の悔過、

  天平十一年(739)七月 五穀成熟経の転読と七日七夜の悔過、
  
  同十六年(744)十二月 諸国への七日間の薬師悔過修行の令、

  神護景雲元年(767)正月 国分寺に五穀豊穣のための
  七日間の吉祥悔過修行の令

  などがある。



  特に薬師、吉祥の二法は 以後 恒例化し、
  また、弥陀懺悔、釈迦懺悔なども 盛んに行ぜられるようになった。



  こういった中において、
  宝亀五年(774)十二月 方広悔過が宮中で行われ(年中行事秘抄)、
  
  弘仁十四年(823)十二月二十三日 長恵、勤操、空海等によって
  清涼殿で大通方広懺方が修せられた(日本紀略前篇十四等)。



  この方広懺悔が 仏名会の前身であると言われるが、
  内容的には『大通方広懺悔滅罪荘厳成仏経』を所依としていたようなので、

  正確には この方広悔過が 日本における仏名会の起源とは
  言えないかもしれない。



  その立場から、
  仏名会の初期的展開から恒例化するまでの
  主な記録を挙げてみよう。





今日は、ここまで!


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