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徒然なるままに その48

そんじゃ、
ブッダは 何が 一番 言いたかったんだ
って事ですね。

それは、
生まれた時の 7歩 歩いて 「天上天下唯我独尊」、
これだと思うんですよ。



もちろん、生まれたばかりの赤ちゃんが歩くなんて事はありえないし、

「天上天下で 俺が唯一、一番偉いんだから、黙って俺のいう事を聞け」
なんて ひどい解釈している学者も本も 実際ありますけど、

皆さんご承知の通り、
「天上天下 唯我独尊」のホントの意味は、

自分にとっては、世界中でただひとり、自分が尊いんだ。

もっと言えば、

この世に たったひとりしかいない自分だからこそ 尊いんんだ。

自分は この世で 唯一の存在だから、
自分を第一に考えて大事にしようよ!


って意味ですよね。



もちろん、自分自身を大事にしようっていう事は、
自分を甘やかしていいって事じゃありませんよ。

逆ですね。

頑張って 勉強して、修行して、自分をバージョンアップ、
人間的に成長していこう
って事です。



ブッダの誕生っていう、
仏教最初の劇的場面でこの逸話を創り、伝承してきた人たちは、

天上天下 唯我独尊! こそ ブッダの一番言いたかった事なんだ」

と考えたに違いないんです。






ちなみに、「天上天下」って言いますけど、

仏教では「十方」って言って、
東西南北の四方、その間も入れて八方、
四方八方ですね。

それに上下を足して 十方ってなりますよね、

「そんな事 知ってるよ」じゃなくて、
3Dの考え方が 2500年も前にあったんだ って事を
驚きましょうよ、

そして、そんな事も、檀信徒にお話ししてみましょうよ。

まぁ、今 そんな事は、いいや。





そして、
「唯一の自分を大切にしよう」
って事は、
ブッダの遺言にも
「自灯明、法灯明」
って出てくるんですよ。



「自分が(ブッダの事ですよ) 涅槃に入って 
 この世界からいなくなったら、

 みんなは 
 自分自身を灯火(ともしび)の明かりとし、

 法(つまり、ダルマ、真如、真理ですね)、
 真理を灯火(ともしび)の明かりとして、

 灯火に向かって修行に励んでいきなさいよ」
って事です。



法灯明より、自灯明が先なんです。



自利 利他」ってあるでしょう。

これも 自利 が先。

自利って、自分が独りで得するって事じゃなくて、
先ず 自分を高める、グレードアップさせるって事です。

自行 化他」も 自行 が先。



伝教大師の「忘己利他」も 忘己が先、
同じです。






この世に生まれてきたのは、自分。

生きていくのも 自分。

人生の主人公は 自分自身。




誰とも代われないし

誰も代わっちゃくれない。



だから、自分が一番大事なんだ という事です。



人を思いやる心も、

物を大事にしたりするのも、

喜んだり、悲しんだり、怒ったりするのも、

全部 自分なんです。




自分がしっかりしなくっちゃ駄目だよ。

 だから、自分を大切にしよう。



 頑張れる自分。

 優しい自分。

 穏やかな自分。

 こだわらない自分。

 素直な自分。

 そんな、ひとつひとつ、今の自分を
 バージョンアップさせて、

 もっと素敵な自分を作って、

 素晴らしい自分を見つけていけば、

 幸せな人生を送れるんだよ




これが、私たちにブッダが一番言いたかった事なんじゃないかと、
私は思います。






話の腰を折りますが、
この「自灯明 法灯明」ってのは 間違った翻訳で、
「灯明」は 本当は 「島、アイランド」、

つまり、本来は、

自らを島とし、真理を島とせよ

迷いの大海におぼれそうになった時は、
 自分という島をよるべとし、
 真理という島をよるべとしなさい


って訳されるべきだったんです。

この事は、覚えておいた方が いいかもしれません。






今日は、ここまで!


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徒然なるままに その47

ブッダの教えって、実は方便で、
 ブッダの悟りの内容の中核は 説かれていない


というのが、
今の私の結論です。」

って、この前、私は書きました。



でも、
もしそうなら、
それってすごい事じゃないですか?






その人の悟りの内容って、人によって 違っていいんじゃないですか?

と言うより、完璧に同じなはずはない。



人それぞれだ、それでいい。」

それが 仏教の包容力・優しさ・自由さ。


だから、
自分で探しながらそこにたどり着きなさい。」

それが、仏教の厳しさ。



悟りというものが、あらゆる束縛から解放される事であるとすれば、

悟りの中味を限定する事は できないんじゃないか


って事です。






そんな事が分かってて、

天台宗の聖典・三大部の、魔訶止観の、十大章の、
果報・起教・旨帰は説かれない、

正修の中、十境の上慢・二乗・菩薩の各境もわざと説いてない、

天台大師は ブッダの心を解っていたんです。






日本中古天台は、邪教とまでメタクソに言われる事もあるけど、

天真独朗」とか「和光同塵」とか
己心中所行の法門(これは 魔訶止観の序ですけど)」とか、

すごい境地をバンバン言っている。



東大の田村芳朗先生は、この中古天台の思想を 
世界で最も発達した思想である
と評価しています。






江戸時代の天台教学の教科書『西谷名目』は、

「我々は 凡夫なんだから、
 凡夫が学ぶ場面が 一番大事だ」

として、
蔵・通・別・圓の四教の内、
一番下の蔵教に 一番 枚数を使っています。

かの大久保良順先生の人生最後の研究テーマは、
空・仮・中、 三諦・三観の中の「仮」の研究でした。



円教一番、中諦一番なんて 凡夫にはおこがましい。

まずは 基本から 
って事です。






ちょっとズレましたかねぇ。

とにかく、「天台、スゴイ!」です。

天台教学だけですよ、こんな事言ってるのは!

他の宗派は 言わない、言えない。





今日は、ここまで!


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