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忌中払い その1

これは何年も前に用意した <忌中払い>のためのご法話です。

この10年間で 中瀬のご法事・ご葬儀のあり方は
想像以上の変化を見せました。

ですから 現在には通じない部分も多々あります。

それどころか、歴史や伝説のようになっている部分さえあり、
読み返すと 時代の変化の速さに驚かされます。

どこかに ご参考になる部分があれば、と思い
収録する事にします。






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昨晩の、〇〇さんの復活を願う≪通夜≫、
葬列を行なう都合から 本日中に行なわれた≪火葬≫、
お昼からの≪葬儀・告別式≫、
遺体を送るための≪葬列≫、
≪納骨≫、
土葬時代に 埋葬した遺体を 獣が掘り起こして荒らす危険を 
なくすために行なった仕儀の≪墓直し≫、
そして ただ今の≪忌中払い≫と、

長時間にわたるご供養、誠にお疲れさまございました。



この後、故〇〇さんと皆さんの 共同飲食としての≪清宴≫と、
念仏講主催の≪十三仏のお念仏≫がございますが、
菩提寺としてのご回向は これで 終わりにさせていただきます。





さて、
葬送の儀式は、宗教や地域などによって
様々な相違がありまして、
当地にお住まいでない皆さんには、
昨日からの色々な儀式で、
戸惑ったり 意味がわからなかったりした場面も
あったのではないでしょうか。



殊に 
「<忌中払い>ではなく 初七日ではないのか」
「<忌中払い>というのは 葬儀後の清宴の事ではないのか」
と考えた方も 多いのではないでしょうか。

現に 私も 当山にお世話になった当初、
この法要に戸惑い、
師匠である前住職や 当地の長老に
その意味を確かめたものでした。






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どこの地域の話だろうとお思いになりましたか?

他ならぬ、中瀬の話です。

つづきます。


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葬式仏教 その3

最後に 仏教側から追善儀礼を見ると、
それは はじめ 布教の契機や手段としての
傍的な取り組みでした。






日本に伝来した最初期の仏教の存在価値は、
上流貴族から要請された
當病平癒や 現世利益の祈祷、先進学問、
または 民衆統治の道具の中にあったのです。



しかし、前にもお話したように、
死体、死霊の処理を 仏教に期待する民衆の要求は
切実なもので、

権力的、在俗的な中世の仏教教団を嫌悪していた隠遁僧や、
在野に下った聖たちを中心に、
追善供養にも 真剣で積極的な対応がなされるようになりました。



そして、自然神崇拝を貴重とした
土着信仰、古神道、修験道、
更には 外来の儒教、道教などとも結び付いて、

日本の風土に適合した 独特の理念を構築するに至り、

数々の弾圧にも耐えて 
着実に生き残り、発展し、展開したのです。






もちろん、隠さずにいえば、
仏教の追善儀礼が 
純粋な布教や民衆救済の意識からだけ生まれ、
発展したものではなく、

貴族政治の崩壊や戦乱、
明治の廃仏毀釈等からの経済的再生の目的で

権力と結び付いて民衆に対したり、

または 必要以上に呪術的な教理を創造し、流布させて
人々を威嚇し、

いたずらに神威を鼓吹した場面があった事も否めません。






しかし、出発点における仏教と民衆の関係は、
信仰を媒体とした お互いの信頼関係において成立したものであり、

その中心となったのは、
葬送、追善の儀礼なのです。



したがって、現今の≪葬式仏教≫という仏教批判も、
私達僧侶はもちろん、
皆さんも 一度 その淵源を思い直していただき、

積極的、発展的に 仏教を ご自身のものとし、
より 有意義な追善供養を行なっていただきたいと思います。



今日は、ここまで!


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葬式仏教 その2

やがて 仏教は 日本に伝わり、
飛躍的な発展(大いなる展開)を遂げます。



教理の研究研鑽を得意とした中国仏教に比べて、
日本仏教は 
本覚思想(ほんがくしそう)等、 
世界思想史上 特筆される高度に 哲理を生み出すと共に、

その実践の試みも 盛んに行なわれ、

結果として、
学問、文学、美術、芸能 等、
中世以降の洗練された日本文化のほとんどを作り上げました。



追善供養も、七回忌以降の年回忌の増加や、
十三仏信仰の成立と流行等、

仏教以前の土着信仰と習合しつつ
独自の発展を遂げます。





まず、祭礼や追善供養を 一般民衆の側から見ると、

① 日本人は、仏教以前に 
   死者・死霊に対して
   恐れと尊敬・愛情の混在した葬法を
   稚拙ながらも 持っていた。

② 前者のうち 死霊の祟りを恐怖し 
   穢れとする感情が強かった。

③ 死霊を厭わず、死体や亡霊の処理を
   具体的、理論的、完璧に受け持てる宗教は  
   新来の仏教以外になかった。

④ このことから、
   死後は 仏教によって救われる、
   または 祟りをもたらす荒ぶる魂(荒魂:あらみたま)が
   仏教によって 生者に繁栄を与えてくれる守り神(和魂:
   にぎみたま)に浄化されるという観念が生まれ、

   僧侶が説く地獄や極楽、十王思想から発展した十三仏信仰等を
   自然に受け入れる心情的素地が整った。

⑤ 日本の中世には 戦乱が多く、
   死体や死霊の処理は 切実であった。

等の理由で、
仏教の追善供養は 比較的容易に 受け入れられたのです。






一方、為政者・権力者の側から見ると、

卑弥呼等に見られるように、
古代の民衆統治は 
自然神に対する畏怖を利用したものでしたが、

本来 故人の心を問題にして、
むしろ 自然神の祟りを制御し 
コントロールする立場にあった仏教を容認するに当たっても、

これと同様の認識・形態を 
人々に持たせ、利用し、使ったのです。



例えば、仏教を前面に打ち出した聖徳太子の政治理念や
民衆掌握・統治を目的とした 江戸時代の寺請制度がそれです。

ただし、明治政府の神仏分離による仏教弾圧は、
理論的整備と 社会認知が 確固たるものであった仏教の追善儀礼を
否定し、抹殺することはできず、

むしろ 蕃神(ばんしん)仏教に対して 
国家意識の高揚を標榜した国家神道を
主に経済的側面において 窮地に追い込む結果となりました。

(蕃神、蛮神 = 外国人の信じている神。
            また、外国から渡来した神。)



                     つづきます


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葬式仏教 その1

今日は、いわゆる「葬式仏教」の問題について、です。


三回忌ぐらいまでならともかく、
それ以降の年回法事になりますと、

「仏教は 本来 私達に悟りを聞かせてくれる教えではないのか?」

「お釈迦様がお葬式をしたという話を聞いた事はないが?」

「今のお坊さんは お葬式や法事しか していない!」

等という疑問や、或いは批判も出て来るかもしれません。



私たち僧侶の内省も含めて、
歴史的、意義的にお話してみたいと思います。






およそ2500年前に インドで生れた仏教は、
いかにしたら 
自分を理想の境地に導けるか、
つまり「悟れるか」を 探求する宗教でした。



お釈迦様は

「私は 新しい教義を作ったり、
 難しい教えを説いたりしているのでは ないのだよ

 みんなが忘れてしまっている事や
 気が付かないでいる事を 話しているだけなのだよ」

と言い、

当時のインド宗教の主流であったバラモン教の
形式的な祭祀宗教を否定する立場に立って、

基本的には あらゆる存在やその在り方には
すべて 価値がある という
≪諸法実相≫の真理を 私達に悟らしめる事を
説法の目的とされました。



また、
「人は皆 別々の存在で、 それぞれに価値がある」
という理念から、

≪対機説法≫といって、
諭す相手に応じて 教えの内容も変わる事を 
当然としました。



だから、バイブルだけのキリスト教などに比べ、
仏教には 膨大な数の経典があるのです。






さて、このようなインド仏教では、
追善供養は さほど重視されなかったのですが、

方便として、死後の≪霊魂≫の存在と、
生者の供養が死者に届くという≪回向≫の考え方は
肯定されていました。



 (≪方便≫というのは、
  本来の目的を達成するために 仏が私達に 仮の教えを説く事で、
  私達の側から見れば、それは 紛れもない真実です。)



そして、≪中陰≫といって
死後の生を受けるまでの期間が認識され、
具体的には
七日を基準に 最長で七日が一巡した七×七=四十九日
と規定されました。






中国仏教になると、
追善供養は 完全に儀礼として 確立します。

中国もまた 
インドと同じく 悠久の歴史を持つ国であり、

仏教が伝来する以前から 確固たる文明が栄えていて、
その思想の中心は 社会的道徳倫理について でした。



その中、
子の 親に対する≪孝≫を重要視する儒教の祖先崇拝は
際立った存在であり、

その葬法が そのまま仏教の追善儀礼として
利用されました。



すなわち、

 「臨終から三日目に 遺体を納棺して殯宮に安置し(殯:もがり)、

  三ヵ月後に墓に納め(埋葬)、

  死を悼んで号泣するという礼を終え(卒哭:そっこく)、

  服喪に入る。



  卒哭の翌日に霊魂も祖廟に合し(ふ祭:「ふ」は示偏に付)、

  哭する(泣き叫ぶ)のは 朝夕のみとなる。

  その十二ヵ月後に小祥祭(しょうしょうさい)、

  更に 十二ヵ月後に大祥祭(だいしょうさい)の追善供養を行い、

  その翌月に 譚祭(たんさい)をして 

  霊魂は 祖霊に帰し、

  遺族は 通常の生活に戻る」

というもので、



卒哭(そっこく)が 百か日忌、

小祥祭が 一周忌、

大祥祭が 三回忌 となります。



また、この三つの追善供養と、
前のインドの七日ごと四十九日までの七回の忌日供養を
合計した十の供養が、

道教の十王思想と習合して、
後の日本の十三仏思想の元となります。






次回は 日本における仏教儀礼に入っていきます。


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向島不動堂の水神祭

毎年 7月1日は 
向島(ごうそ)にある吉祥寺不動堂の水神祭です。

向島地区の役員さんたちにお世話になって
不動護摩を焚きます。



今年は 私の実家のお寺で法務があるため
法嗣・善貴に代務させていただきました。

住職として 昨日の護摩の修法をお勤めできませんでした事を
お詫びいたします。



法嗣に 私が書いたものを渡しておき、
それを読む事で 今回の法話に代えさせていただきました。

今日は その法話を こちらでご覧いただく事にします。






さて、本日は 水神祭りの 護摩修行です。



この、水神というのは どんな神様かと言うと、
2方向の考え方をしなければなりません。



まず、第一に、仏教由来の考え方です。



仏教では 水神とは言わず、
水天という事が多いようです。

インドの言葉であるサンスクリット語では
「ヴァルナ」と言います。

神様の中の種族でいうと、阿修羅神に属します。

阿修羅さまは 後に戦いの象徴になっていきます。



ヴァルナ神は、その起源をたどると、
古代においては インド・ヨーロッパ語族の中で、
天空の神であり、
具体的には、大宇宙の運行を司り、
これに逆らった者を 腹水病にしてしまうと言われていました。



やがて、ヴァルナ神は ヒンドゥー教に取り入れられ、
水の神様として、
特に 西の方角の守護神となりました。

更に、ヒンドゥー教の西方守護の水の神様ヴァルナ神は
仏教にも取り入れられて、

閻魔天や毘沙門天と肩を並べる十二天の一尊になりました。



また、森羅万象の五つの要素のひとつである五大のひとつに置かれ、

色彩は白色、
感覚は味覚、
身体器官は舌根(ぜっこん、舌)、
心の有様は信心、
方角は西、
インドの世界観の嬰陀尼国(えいだにこく)を領地とする、
とされました。



そのお姿は、五匹の龍のうごめく冠をかぶり、
海中で 左手に 人々を助けたり打ち敷いたりする羂索を、
右手には 剣を持ち
(お不動様と同じですね)、
大亀の上に坐っている図像、絵画があります。






第二に、日本古来の水に対する尊敬と畏怖、
畏れ敬う信仰から生れた考え方です。



水田農耕民族である日本人にとって、
水は その状況によって 豊凶が左右され、災害を起す、
非常に重要な存在でした。

それだけに、多種多様な祀られ方をします。



たとえば、水田とのかかわりから、
用水堰や 水田のほとりに 田の神として祀られたり、

山中の川の水源地に 
山ノ神(水別神、みくまりしん)として祀られたり、

井戸神様になったり、

疫病除けの祇園神と習合したり、

水に関わる時期と場所には 
必ずその神様である水神様が 祀られています。



日本の水神様の象徴的なお姿は、龍・蛇。

そして 水神様の子供が 河童です。

昔から、日本の各地に、
水神様が蛇になって現れ、人間の女性と結ばれ、
河童が生れた、

或いは その家の家系が栄えた、

当該の地を 平和に統括した

等々の言い伝えは 枚挙にいとまがありません。



つまり、これらの物語は 水神の神聖さを強調し、
この神に対する人々の畏怖の念を表し示した事例
と言えるかと思います。






さて、日本の祭は、
<月遅れ>を意識しながら考えなくては なりません。

そうしないと、
本来 お盆準備の「棚幡」(たなばた)の行事を、
8月お盆の地方で 7月7日に「七夕(たなばた)」と称して行なったり
等の つじつまの合わない事になってしまうからです。



向島の水神祭は、本来 お盆を半月後に控えての 雨乞いのお祭です。

月遅れ8月お盆を考えた場合、
8月1日頃は 梅雨もとうに明けて、
むしろ 日照りの水不足が心配な時期になっています。



お盆は 御先祖様が帰って来ます。

ご先祖様は、
やがて 氏神様から あらゆる神的存在になっていきます。



遠いご先祖様である龍神・蛇神・河童さんに、
お帰り下さるその前に、
あの世である天国から 我々のこの世に恵みの雨を降らせてくれる事を
お願いしよう、という事です。

もちろん、利根川の水難事故防止を祈る事も
水神祭を行なう意義のひとつでしょうが、

主としては、
雨乞い、恵みの雨を求める祭が 水神祭である事を忘れないで欲しいものです。






最後に、皆様のご健勝を 心より祈念申し上げます。 

ありがとうございました。


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