埼玉県深谷市にある
吉祥寺の住職のブログ
イチョウの下のよもやま話
「苦労の向こうに実りが見える 我慢の向こうに笑顔が見える」
令和6年新春 元正祥を啓き 至心に無窮を祝す
至心に三寶を拝し、檀信徒皆々様のご清祥を祈念申し上げます。
江戸時代の三大画人と呼ばれる絵描きさんを知っていますか?
谷文晁・金井烏洲・田崎草雲の三人で、師匠と弟子の関係です。
吉祥寺には 文晁の山水画(真贋不明)と 烏洲の富士(真筆)が
所蔵されています。
ある時、烏洲の計らいで、新進の若き草雲が南画の大御所文晁に会う事を
許されました。
若いとはいえ、草雲は その時すでに
巷で俊才の画家との評判を得ていました。
文晁のもとを訪れた草雲は、尊敬する大先生文晁に会えた事に
とても感動しました。
そして鄭重な挨拶をしたのち、真摯に教えを請いました。
それに対し、文晁は「そこの庭の梅の木を描いてみな」と言いました。
草雲は真剣に筆を走らせました。
描かれた草雲の絵を見た文晁は こう言います。
「なんだその絵は。どこの子供が描いた落書きだ。あぁ腹立たしい」
そして 家の奥に引っ込んでしまいました。
草雲は奥歯を噛みしめました。
そして誓いました。
「絶対に自分の絵を文晁先生に認めさせてやるんだ」
それから2年、草雲は懸命に修行を続け、
渾身の梅の絵を描き上げました。
そして、師匠の烏洲に申し出ます。
「もう一度私を文晁先生に会わせて下さい。
この絵を文晁先生に見ていただきたいのです」
烏洲は 草雲の絵の素晴らしさを確認すると、
彼に一通の手紙を差し出して見せます。
その手紙は、2年前に文晁から烏洲に宛てられたものでした。
「今日わたしを訪ねてきた草雲という若者は
とても優秀だった。
ただ、このままだと世間の評判に慢心して
ダメになってしまうだろう。
そこで私は、彼の今の慢心を打ち破るために
思い切り罵倒してやった。
才能ある若者は 国の宝である。
私は宝を失いたくない。
草雲の事を これからもしっかりと育ててやってほしい」
草雲は 感激の涙を流しました。
その時の草雲の絵を 文晁が認めた事はいうまでもありません。
そして、草雲はその後も修行に励み、
やがて近代画壇の大家と呼ばれるようになりました。
人は誰でも褒められれば嬉しいし、それを糧に頑張れます。
でも、褒められた事に慢心してしまうと その先に進めません。
けなされるとがっかりするし、悔しいし、
けなした人に対して 怒ったり恨んだりします。
でも、その悔しさや怒りをバネにして、
けなした人に褒めてもらえるようになる努力をすれば、
今の自分より もっと成長した自分になれます。
結果、その人のみならず、
たくさんの賞賛を得られるようになります。
むかし、若いお坊さんたちが師匠にこんな質問をしました。
「お釈迦さまは 悟った後は修行しなかったんですか?」
師匠の答えは
「お釈迦さまは 亡くなるまで修行を続けていたんですよ。
修行の中の過程に悟りがあるのであって、
修行の終着点が悟りなのではないんですよ。
人生そのものが修行なんです。
だから、私たちは お釈迦さまに倣って、
毎日一生懸命生きていかなければなりませんね。
その一生懸命が修行なんだと思います。
お釈迦さまは亡くなるまで 一生懸命生きておられたのです」
褒められたらテレずに
「ありがとう! うれしい!」
と大きな声で言いましょう。
けなされたら頭にきて
「なにくそ! 今に見てろ!」
と思いましょう。
そして、慢心せず、落ち込まず、
「修行 修行」と心の中で唱えて、
前を向いて 未来に向かって 生きていきましょう。
自分の思いに正直に歩んでいく。
これも修行。
修行って 結構楽しいですよ。
檀信徒の皆さんに、明るい未来が訪れますように
心からお祈りしています。
山主敬白
至心に三寶を拝し、檀信徒皆々様のご清祥を祈念申し上げます。
江戸時代の三大画人と呼ばれる絵描きさんを知っていますか?
谷文晁・金井烏洲・田崎草雲の三人で、師匠と弟子の関係です。
吉祥寺には 文晁の山水画(真贋不明)と 烏洲の富士(真筆)が
所蔵されています。
ある時、烏洲の計らいで、新進の若き草雲が南画の大御所文晁に会う事を
許されました。
若いとはいえ、草雲は その時すでに
巷で俊才の画家との評判を得ていました。
文晁のもとを訪れた草雲は、尊敬する大先生文晁に会えた事に
とても感動しました。
そして鄭重な挨拶をしたのち、真摯に教えを請いました。
それに対し、文晁は「そこの庭の梅の木を描いてみな」と言いました。
草雲は真剣に筆を走らせました。
描かれた草雲の絵を見た文晁は こう言います。
「なんだその絵は。どこの子供が描いた落書きだ。あぁ腹立たしい」
そして 家の奥に引っ込んでしまいました。
草雲は奥歯を噛みしめました。
そして誓いました。
「絶対に自分の絵を文晁先生に認めさせてやるんだ」
それから2年、草雲は懸命に修行を続け、
渾身の梅の絵を描き上げました。
そして、師匠の烏洲に申し出ます。
「もう一度私を文晁先生に会わせて下さい。
この絵を文晁先生に見ていただきたいのです」
烏洲は 草雲の絵の素晴らしさを確認すると、
彼に一通の手紙を差し出して見せます。
その手紙は、2年前に文晁から烏洲に宛てられたものでした。
「今日わたしを訪ねてきた草雲という若者は
とても優秀だった。
ただ、このままだと世間の評判に慢心して
ダメになってしまうだろう。
そこで私は、彼の今の慢心を打ち破るために
思い切り罵倒してやった。
才能ある若者は 国の宝である。
私は宝を失いたくない。
草雲の事を これからもしっかりと育ててやってほしい」
草雲は 感激の涙を流しました。
その時の草雲の絵を 文晁が認めた事はいうまでもありません。
そして、草雲はその後も修行に励み、
やがて近代画壇の大家と呼ばれるようになりました。
人は誰でも褒められれば嬉しいし、それを糧に頑張れます。
でも、褒められた事に慢心してしまうと その先に進めません。
けなされるとがっかりするし、悔しいし、
けなした人に対して 怒ったり恨んだりします。
でも、その悔しさや怒りをバネにして、
けなした人に褒めてもらえるようになる努力をすれば、
今の自分より もっと成長した自分になれます。
結果、その人のみならず、
たくさんの賞賛を得られるようになります。
むかし、若いお坊さんたちが師匠にこんな質問をしました。
「お釈迦さまは 悟った後は修行しなかったんですか?」
師匠の答えは
「お釈迦さまは 亡くなるまで修行を続けていたんですよ。
修行の中の過程に悟りがあるのであって、
修行の終着点が悟りなのではないんですよ。
人生そのものが修行なんです。
だから、私たちは お釈迦さまに倣って、
毎日一生懸命生きていかなければなりませんね。
その一生懸命が修行なんだと思います。
お釈迦さまは亡くなるまで 一生懸命生きておられたのです」
褒められたらテレずに
「ありがとう! うれしい!」
と大きな声で言いましょう。
けなされたら頭にきて
「なにくそ! 今に見てろ!」
と思いましょう。
そして、慢心せず、落ち込まず、
「修行 修行」と心の中で唱えて、
前を向いて 未来に向かって 生きていきましょう。
自分の思いに正直に歩んでいく。
これも修行。
修行って 結構楽しいですよ。
檀信徒の皆さんに、明るい未来が訪れますように
心からお祈りしています。
山主敬白
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『私が好きな 私を生きる!』
令和5年新春 肇歳の喜慶 四海一般なり
至心に三寶を礼し、檀信徒の皆様のご清栄を祈念申し上げます
自分がこの世の中に生を受け、今この時間を生きている。
その生きていく上での一番大切なことって何でしょうね?
見方によっていろいろな見解があるでしょうけれど、
要は幸せを感じて生きているかどうかだと思うんです。
そこで、自分が幸せを感じるための大前提は何かというと、
「自分が自分を好きになれていること
→素直(正直)でいる、
やりたいことをやる、
我慢しない、
強い自分も弱い自分も両方認める、
自分の考えを言ってもいい、
人生を楽しむ・・・
→私が好きな私を生きる」
ということなんじゃないでしょうか?
では、自分が好きな自分を生きていくことで必要なことは何かというと、
まず自分はどんな人間なのかということを知って、
自分で自分が好きになれるその理由を手に入れるということだと思うんです。
つまり、『自分に確信を持つ!』ということです。
『自信』というのは能力があることではなくて、
文字通り「自分を信じる」ということ。
自分を信じるために必要なことは
自分が今どんな状態・状況・心持ち・立場にあるか? 等々
自分がどんな人間なのか、それを自分自身が客観的に(ほとけさまの目で)
知っているということから始まります。
自分が自分を知っているというのは、
自分が出来ることと出来ないことをしっかり理解していて、
前向きな思考で自分の存在を信じるということです。
勉強ができることやスタイルがいいことに自信を持っていることは、
それはそれで素敵なことだと思いますが、
自分以上の成績の人、自分以上に容姿が優れた人が目の前に現れたら、
その自信は一瞬にして失われてしまいます。
つまり、誰かと能力比べをして得た自信は、
自分にとって何の意味もありませんし、
むしろ幸せに楽しく生きる障害にさえなりかねません。
また、「だいたいにおいて私に得意なものなんて何もない」
「自信なんてかけらもない」
「今は疲れ切ってて、辛くて、悲しくて、悔しくて、最悪」、
そんなことを考えてしまうあなたがいたとしても、
どんなに苦しいときでも、
「ありのままの今の自分を知ってるってすごいよね!」
「私は今の私をちゃんと知っているから絶対大丈夫!」
というエールを送ってくれる、
それが本当の自信、幸せをつかむコツだと思います。
お釈迦様は、生まれてすぐ七歩あるいて天と地を指さし
「天上天下唯我独尊=天の世界でも地上の世界でもただ私一人が尊い
=自分にとっては自分が一番大切なんだ」
と宣言しました。
亡くなる前に、従者阿難の
「世尊が亡くられたら、
導く人のいなくなったこの世の中は暗闇に閉ざされてしまいます」
という言葉に、
「自灯明 法灯明
=私がいなくなっても、
自分をいう灯火を頼りに生きていきなさい、
心理という灯火に向かって歩んで行きなさい
=自分を信じて自分の心になかにある本当の真実に向かって
歩んでいきなさい。
大丈夫!」
と答えて穏やかに微笑まれました。
仏教の生き方は他人に委ねた自分の人生ではなく、
自分を信じて自信をもって歩んでいくことだと思います。
(西村宏堂著 『正々堂々』 サンマーク出版 参照)
檀信徒の皆さん、幸せなあなたの人生は あなた自身を信じて、
自信を持って歩んでいくことだと思います。
あなたの大好きなあなたを精一杯生きていってください。
山主敬白
至心に三寶を礼し、檀信徒の皆様のご清栄を祈念申し上げます
自分がこの世の中に生を受け、今この時間を生きている。
その生きていく上での一番大切なことって何でしょうね?
見方によっていろいろな見解があるでしょうけれど、
要は幸せを感じて生きているかどうかだと思うんです。
そこで、自分が幸せを感じるための大前提は何かというと、
「自分が自分を好きになれていること
→素直(正直)でいる、
やりたいことをやる、
我慢しない、
強い自分も弱い自分も両方認める、
自分の考えを言ってもいい、
人生を楽しむ・・・
→私が好きな私を生きる」
ということなんじゃないでしょうか?
では、自分が好きな自分を生きていくことで必要なことは何かというと、
まず自分はどんな人間なのかということを知って、
自分で自分が好きになれるその理由を手に入れるということだと思うんです。
つまり、『自分に確信を持つ!』ということです。
『自信』というのは能力があることではなくて、
文字通り「自分を信じる」ということ。
自分を信じるために必要なことは
自分が今どんな状態・状況・心持ち・立場にあるか? 等々
自分がどんな人間なのか、それを自分自身が客観的に(ほとけさまの目で)
知っているということから始まります。
自分が自分を知っているというのは、
自分が出来ることと出来ないことをしっかり理解していて、
前向きな思考で自分の存在を信じるということです。
勉強ができることやスタイルがいいことに自信を持っていることは、
それはそれで素敵なことだと思いますが、
自分以上の成績の人、自分以上に容姿が優れた人が目の前に現れたら、
その自信は一瞬にして失われてしまいます。
つまり、誰かと能力比べをして得た自信は、
自分にとって何の意味もありませんし、
むしろ幸せに楽しく生きる障害にさえなりかねません。
また、「だいたいにおいて私に得意なものなんて何もない」
「自信なんてかけらもない」
「今は疲れ切ってて、辛くて、悲しくて、悔しくて、最悪」、
そんなことを考えてしまうあなたがいたとしても、
どんなに苦しいときでも、
「ありのままの今の自分を知ってるってすごいよね!」
「私は今の私をちゃんと知っているから絶対大丈夫!」
というエールを送ってくれる、
それが本当の自信、幸せをつかむコツだと思います。
お釈迦様は、生まれてすぐ七歩あるいて天と地を指さし
「天上天下唯我独尊=天の世界でも地上の世界でもただ私一人が尊い
=自分にとっては自分が一番大切なんだ」
と宣言しました。
亡くなる前に、従者阿難の
「世尊が亡くられたら、
導く人のいなくなったこの世の中は暗闇に閉ざされてしまいます」
という言葉に、
「自灯明 法灯明
=私がいなくなっても、
自分をいう灯火を頼りに生きていきなさい、
心理という灯火に向かって歩んで行きなさい
=自分を信じて自分の心になかにある本当の真実に向かって
歩んでいきなさい。
大丈夫!」
と答えて穏やかに微笑まれました。
仏教の生き方は他人に委ねた自分の人生ではなく、
自分を信じて自信をもって歩んでいくことだと思います。
(西村宏堂著 『正々堂々』 サンマーク出版 参照)
檀信徒の皆さん、幸せなあなたの人生は あなた自身を信じて、
自信を持って歩んでいくことだと思います。
あなたの大好きなあなたを精一杯生きていってください。
山主敬白
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運命はいつも自分自身の中にある
令和4年初春 鳳暦の春は廻り鴻均の気は転ず
至心に三寳を拝し、檀信徒皆々様のご清祥を祈念申し上げます
令和3年の深谷市は、「澁澤榮一」に終始した一年でした。
そしてまだまだ・・・
栄一の顔が 新一万円札に刻されるまで 深谷の渋沢熱は続く事と思います。
改めてその偉業の数々に心から敬意を表します。
さて、言わずもがな、渋沢栄一フィ―バーは
NHK大河ドラマ「青天を衝け」放映に起因するもので
(「鶴瓶の家族に乾杯」や「ブラタモリ」等にも取り上げられ、
何人かの檀徒も番組に出演、当山も画像の端に映していただきました)、
テレビ マスコミの影響力の大きさを実感しました。
そんな中、「青天を衝け」のドラマの中での役者さんの、
軽やかで、不思議で、爽やかなセリフに、
私は毎回 心躍らされていました。
☆「なるほど こりゃあ おかしれぇや!」
徳川慶喜の側近で、栄一を歴史の表舞台に導いた平岡円四郎の口癖。
「可笑しい」と「面白い」を合成したようなこの言葉は、
やがて栄一も使うようになり、徳川慶喜にも引き継がれます。
☆「なんだいな、このぐるぐるはー!」
他に表現しようがないほどの嬉しさ、面白さ、気持ちの高ぶりを
感じた時に栄一が目を輝かせて叫んだ言葉。
☆「これからですわ。わしゃ わくわくしてきました!」
蟄居を解かれ 朝廷に再度出仕する事を許された岩倉具視が
喜びを爆発させて叫んだ言葉。
☆「快なり!」
徳川慶喜の父 斉昭の口癖。
慶喜も 薩摩の傀儡からの決別を宣言した時に この言葉を放っています。
これらのセリフは 脚本家の大森美香さんによるものだと思います。
大森さんは 近世日本騒乱の時代を 力強く切り開いた渋沢栄一等英雄たちを
歴史の教科書から 現代に蘇らせてくれました。
そして、これらの言葉たちは、混迷の現代を生きる私たちに、
「かくありなん!」 「さもありなん!」 「かくあるべし!」
と大いなる示唆を与えてくれていると思うのです。
もちろん、人生を「イケイケ」のポジティブ思考だけで生きていれば、
失敗したり、間違ったり、時代や環境や偶然に足元を掬われる事も
多々あるでしょう。
時代に翻弄され、立ち位置を次々に変えていかざるをえず、
自己嫌悪になっていた栄一に対し、
愛妻千代が 優しく、しかし 説得力を持って語りかけます。
☆「孔子様とて 過ちて改めざるは これを過ちという とおっしゃっています。
曲がったり 時には間違えて引き返したって よいではありませんか。」
人生を生きる事に恐れる事はないと思います。
もし 今の自分の間違いに気づいたら
「ギャ―」っと叫んで、
「はーっとため息ついて、
地団駄踏んで、
涙流して、
深く深く反省して、
その間違いを改めさえすればいいんじゃないかと
私は思います。
そうする事で 自分の人生が 自分自身の人生になる
人生の中で様々に織りなされる偶然 → 奇跡 → 運命、
すべて自分が作るもの、自分が決めるもの、自分のものです。
自己満足でもいい。
震えるほど素敵な毎日を 前を向いて 笑いながら過ごしていきたいものです。
最後に そうして生きる人生で とても大切な事。
母 ゑいが、わんぱくだった栄一を優しく諭した言葉です。
☆「あんたがうれしいだけじゃなくて みんながうれしいのが一番なんだで」
栄一は 「みんながうれしいって何だろう」をお探し求めて人生を歩み続け、
様々な偉業を成し遂げました。
みんなを大切に思って、みんなのために邁進し続けた栄一は
きっと幸せだったろうと思います。
自分一人だけの幸せは、この世界には 決して存在しません。
大切な人のうれしいが 自分の幸せだと感じられれば、
その人は 本当の幸せに包まれるものだと思います。
檀信徒の皆さんが、それぞれの大切な人を想いながら、その大切な人と共に
日々おかしろく過ごせる事を祈っています。
長勢山主 敬白
至心に三寳を拝し、檀信徒皆々様のご清祥を祈念申し上げます
令和3年の深谷市は、「澁澤榮一」に終始した一年でした。
そしてまだまだ・・・
栄一の顔が 新一万円札に刻されるまで 深谷の渋沢熱は続く事と思います。
改めてその偉業の数々に心から敬意を表します。
さて、言わずもがな、渋沢栄一フィ―バーは
NHK大河ドラマ「青天を衝け」放映に起因するもので
(「鶴瓶の家族に乾杯」や「ブラタモリ」等にも取り上げられ、
何人かの檀徒も番組に出演、当山も画像の端に映していただきました)、
テレビ マスコミの影響力の大きさを実感しました。
そんな中、「青天を衝け」のドラマの中での役者さんの、
軽やかで、不思議で、爽やかなセリフに、
私は毎回 心躍らされていました。
☆「なるほど こりゃあ おかしれぇや!」
徳川慶喜の側近で、栄一を歴史の表舞台に導いた平岡円四郎の口癖。
「可笑しい」と「面白い」を合成したようなこの言葉は、
やがて栄一も使うようになり、徳川慶喜にも引き継がれます。
☆「なんだいな、このぐるぐるはー!」
他に表現しようがないほどの嬉しさ、面白さ、気持ちの高ぶりを
感じた時に栄一が目を輝かせて叫んだ言葉。
☆「これからですわ。わしゃ わくわくしてきました!」
蟄居を解かれ 朝廷に再度出仕する事を許された岩倉具視が
喜びを爆発させて叫んだ言葉。
☆「快なり!」
徳川慶喜の父 斉昭の口癖。
慶喜も 薩摩の傀儡からの決別を宣言した時に この言葉を放っています。
これらのセリフは 脚本家の大森美香さんによるものだと思います。
大森さんは 近世日本騒乱の時代を 力強く切り開いた渋沢栄一等英雄たちを
歴史の教科書から 現代に蘇らせてくれました。
そして、これらの言葉たちは、混迷の現代を生きる私たちに、
「かくありなん!」 「さもありなん!」 「かくあるべし!」
と大いなる示唆を与えてくれていると思うのです。
もちろん、人生を「イケイケ」のポジティブ思考だけで生きていれば、
失敗したり、間違ったり、時代や環境や偶然に足元を掬われる事も
多々あるでしょう。
時代に翻弄され、立ち位置を次々に変えていかざるをえず、
自己嫌悪になっていた栄一に対し、
愛妻千代が 優しく、しかし 説得力を持って語りかけます。
☆「孔子様とて 過ちて改めざるは これを過ちという とおっしゃっています。
曲がったり 時には間違えて引き返したって よいではありませんか。」
人生を生きる事に恐れる事はないと思います。
もし 今の自分の間違いに気づいたら
「ギャ―」っと叫んで、
「はーっとため息ついて、
地団駄踏んで、
涙流して、
深く深く反省して、
その間違いを改めさえすればいいんじゃないかと
私は思います。
そうする事で 自分の人生が 自分自身の人生になる
人生の中で様々に織りなされる偶然 → 奇跡 → 運命、
すべて自分が作るもの、自分が決めるもの、自分のものです。
自己満足でもいい。
震えるほど素敵な毎日を 前を向いて 笑いながら過ごしていきたいものです。
最後に そうして生きる人生で とても大切な事。
母 ゑいが、わんぱくだった栄一を優しく諭した言葉です。
☆「あんたがうれしいだけじゃなくて みんながうれしいのが一番なんだで」
栄一は 「みんながうれしいって何だろう」をお探し求めて人生を歩み続け、
様々な偉業を成し遂げました。
みんなを大切に思って、みんなのために邁進し続けた栄一は
きっと幸せだったろうと思います。
自分一人だけの幸せは、この世界には 決して存在しません。
大切な人のうれしいが 自分の幸せだと感じられれば、
その人は 本当の幸せに包まれるものだと思います。
檀信徒の皆さんが、それぞれの大切な人を想いながら、その大切な人と共に
日々おかしろく過ごせる事を祈っています。
長勢山主 敬白
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《照千一隅》
令和3年の初春にあたり、謹んで至心に三宝を誦し
併せて檀信徒の皆々様の御清祥を心からお祈り申し上げます
去年の一月が始まりでした。
コロナ禍は 益々深刻な状況です。
医療崩壊が始まっています。
自衛隊も出動しました。
専門家委員会は、既に国民一人一人のレベルで感染を止められる状況ではないと断じました。
この未曽有の災禍の中、私たちはどう過ごしていけば良いのでしょう?
新型コロナウイルス感染予防のために、自分ができることをしっかりとしていくこと以外にないと思います。
手洗い・うがい・マスクの着用・換気 等を地道に実行し、不要不急の外出や 会食を辛抱する、
基本の三密(密閉・密集・密接)回避 等々です。
コロナ問題に飽きることは、絶対にあってはなりません。
そして、コロナ禍の様々なストレスを乗り越えるため、
こんな時代だからこそ 明るい気持ちを保つことを意識すべきだと思うのです。
住職として、令和3年初頭の皆様へのメッセージは、敢えて・・・
キレイだね! ステキだね! おいしいね! うれしいね! 楽しいね! 幸せだね!
どの言葉でもいいんです。
一日一回以上、小さな声でもいいから 声に出して言ってみると、
きっとほほ笑んでいるご自身に逢えると思います。
昔、ある国の王様が 隣の国を訪れて、その国の王様に
「私の国には 直径が一寸ある宝玉が 10個 あるけれど、
あなたの国の宝物は何ですか?」
と自慢しながら聞いたそうです。
隣国の王様は
「私の国には 宝玉は 1つもないけれど、
優れた将軍たちがたくさんいて、
それぞれ国境をしっかり守ってくれています。
だから国民は いつも安心して生活しています。
この将軍たちが 私の国の かけがえのない宝物です」
と答えました。
宝玉を自慢した王様は、自分の物欲的な小さな考え方を恥じて、
すごすごと自分の国に帰って行きました。
このお話は、伝教大師最澄さまが、
その国にとって一番大切なものは何かを説明した書物の中に出てくるたとえ話です。
最澄さまは、国の宝物を 次のように教示されました。
《道心のある人》
悟りを求めて しっかりした誓い
(すべての人を救う・すべての煩悩を断ち切る・すべての学問を学びつくす・必ず悟りを得る)
を立て、それに向かって真摯に努力を怠らない人のことです。
《照千一隅のひと》
自分のすべきことを今いる場所で(一隅の自分) しっかり実行している人のことで、
その人達の努力の結果、他のたくさんの人達が 心安らかに生活することができ、
あらゆる世界(千の世界)が 平和に導かれていくのです。
前のたとえ話は、このことを説明するためのお話です。
《有言実行の人》
私利私欲を捨てた正しい自分の意見をきちんと周りの人達に説明し、
それにともなった正しい行動を 身をもって行うことが出来る人のことです。
《慈悲に満ちた人》
とは、悪いことはすべて自身が受け持ち、
良いことはすべて自分以外の人々に分け与えることが出来る
優しさに満ちあふれた人のことです。
国宝の人を目指す。
コロナ禍を生きなければならない私たちの、
生き方の指針になるような気がします。
生きていく ということの中には、楽しいこともたくさんありますが、
哀しいことや辛いことも やっぱりたくさんあります。
これまでの人生、涙が出てしまうほど苦しい時に 私を助けてくれたのは、
いつだって誰かの笑顔だったような気がします。
家族 友達 仲間 道ですれ違った知らないおじいちゃん テレビや雑誌に出ている人 小説や漫画の主人公、
誰でもみんな笑顔は素敵です。
だから、私たちも できるだけ笑顔でいましょうよ。
誰かのために、自分のために。
前を向いて 胸を張って 口角上げて・・・
皆さんが少しでも安らぎを感じて生きていける一年でありますように。
山主敬白
併せて檀信徒の皆々様の御清祥を心からお祈り申し上げます
去年の一月が始まりでした。
コロナ禍は 益々深刻な状況です。
医療崩壊が始まっています。
自衛隊も出動しました。
専門家委員会は、既に国民一人一人のレベルで感染を止められる状況ではないと断じました。
この未曽有の災禍の中、私たちはどう過ごしていけば良いのでしょう?
新型コロナウイルス感染予防のために、自分ができることをしっかりとしていくこと以外にないと思います。
手洗い・うがい・マスクの着用・換気 等を地道に実行し、不要不急の外出や 会食を辛抱する、
基本の三密(密閉・密集・密接)回避 等々です。
コロナ問題に飽きることは、絶対にあってはなりません。
そして、コロナ禍の様々なストレスを乗り越えるため、
こんな時代だからこそ 明るい気持ちを保つことを意識すべきだと思うのです。
住職として、令和3年初頭の皆様へのメッセージは、敢えて・・・
キレイだね! ステキだね! おいしいね! うれしいね! 楽しいね! 幸せだね!
どの言葉でもいいんです。
一日一回以上、小さな声でもいいから 声に出して言ってみると、
きっとほほ笑んでいるご自身に逢えると思います。
昔、ある国の王様が 隣の国を訪れて、その国の王様に
「私の国には 直径が一寸ある宝玉が 10個 あるけれど、
あなたの国の宝物は何ですか?」
と自慢しながら聞いたそうです。
隣国の王様は
「私の国には 宝玉は 1つもないけれど、
優れた将軍たちがたくさんいて、
それぞれ国境をしっかり守ってくれています。
だから国民は いつも安心して生活しています。
この将軍たちが 私の国の かけがえのない宝物です」
と答えました。
宝玉を自慢した王様は、自分の物欲的な小さな考え方を恥じて、
すごすごと自分の国に帰って行きました。
このお話は、伝教大師最澄さまが、
その国にとって一番大切なものは何かを説明した書物の中に出てくるたとえ話です。
最澄さまは、国の宝物を 次のように教示されました。
《道心のある人》
悟りを求めて しっかりした誓い
(すべての人を救う・すべての煩悩を断ち切る・すべての学問を学びつくす・必ず悟りを得る)
を立て、それに向かって真摯に努力を怠らない人のことです。
《照千一隅のひと》
自分のすべきことを今いる場所で(一隅の自分) しっかり実行している人のことで、
その人達の努力の結果、他のたくさんの人達が 心安らかに生活することができ、
あらゆる世界(千の世界)が 平和に導かれていくのです。
前のたとえ話は、このことを説明するためのお話です。
《有言実行の人》
私利私欲を捨てた正しい自分の意見をきちんと周りの人達に説明し、
それにともなった正しい行動を 身をもって行うことが出来る人のことです。
《慈悲に満ちた人》
とは、悪いことはすべて自身が受け持ち、
良いことはすべて自分以外の人々に分け与えることが出来る
優しさに満ちあふれた人のことです。
国宝の人を目指す。
コロナ禍を生きなければならない私たちの、
生き方の指針になるような気がします。
生きていく ということの中には、楽しいこともたくさんありますが、
哀しいことや辛いことも やっぱりたくさんあります。
これまでの人生、涙が出てしまうほど苦しい時に 私を助けてくれたのは、
いつだって誰かの笑顔だったような気がします。
家族 友達 仲間 道ですれ違った知らないおじいちゃん テレビや雑誌に出ている人 小説や漫画の主人公、
誰でもみんな笑顔は素敵です。
だから、私たちも できるだけ笑顔でいましょうよ。
誰かのために、自分のために。
前を向いて 胸を張って 口角上げて・・・
皆さんが少しでも安らぎを感じて生きていける一年でありますように。
山主敬白
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明日が楽しみになるような毎日を過ごしていきましょう!
明日が楽しみになるような毎日を過ごしていきましょう!
令和2年の新春に當たり、謹んで至心に三宝を誦し、
併せて檀信徒の皆様の一年のご安寧を 心よりお祈り申し上げます。
山主合掌
え?
これだけ?
新年なのに?
一年以上間が空いた、久しぶりの更新なのに?
と思って下さった皆様。
その通りなのです。
今年は拙著『おめでとうございます』に
たくさん書いてありますので。
悪しからず。
今日は、ここまで! なのです。
令和2年の新春に當たり、謹んで至心に三宝を誦し、
併せて檀信徒の皆様の一年のご安寧を 心よりお祈り申し上げます。
山主合掌
え?
これだけ?
新年なのに?
一年以上間が空いた、久しぶりの更新なのに?
と思って下さった皆様。
その通りなのです。
今年は拙著『おめでとうございます』に
たくさん書いてありますので。
悪しからず。
今日は、ここまで! なのです。
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まっすぐな思い まっすぐに歩む 今日はいい日だ!
まっすぐな思い まっすぐに歩む 今日はいい日だ!
平成31年の新春に當たり、謹んで至心に三宝を誦し、
併せて 檀信徒の皆様のご清祥を 心よりお祈り申し上げます
朝起きると
「今日は 何をしなきゃいけないんだっけ。
それをやって、これをやって、
そうだ あれもやらなきゃいけないんだ」
なんて考えてる。
夜 布団に入ると
「明日は 何をしなきゃいけないんだっけ。
それをやって、これをやって、
そうだ あれもやらなきゃいけないんだ」
なんて考えてしまう。
忙しい忙しいと 日々が過ぎていきます。
疲れるなぁ。
毎日ストレスの連続だぁ~・・・
私の日常です。
でも 時々考えてしまいます。
それと、これと、あれって、
朝一番に考えなきゃいけないことなのかなぁ。
一日頑張って お疲れ様のベッドで 考えなきゃいけないことなのかなぁ。
だったら 自分の人生って なんなんだろう?
むなしくなるなぁ。
そんな時 出会った コピーライター糸井重里さんの言葉
「自分にとって、本当に大事なことってなんだろう?
自分にとって、本当に大切な人って 誰だろう?
このふたつを本気で思っているだけで、いい人生が送れるような気がする!」
(知慧の実のことば)。
朝晩に考える事を変えてみると、
心が豊かになって 安らげそうな気がしてきました。
同じくコピーライターの ひすいこたろうさんの
『3秒でハッピーになる超名言100』に載っていたお話です。
とある家の中学生の娘さんは、
出かける時に 家族に「行ってきます」とは 言わないそうです。
素直なかわいい普通のお嬢さんですが、
絶対に「行ってきます」とは言わないそうです。
なぜ?
・・・もし その日に、
自分や家族に なにか不慮の不幸な出来事があった時に、
最後の言葉が「行ってきます」じゃ 絶対に嫌だからだそうです。
じゃあ、娘さんは 家族に何て言って出かけるのでしょう?
「大好き!」
大切に思っている人に 一番言いたい 本当の 真実の 最高の言葉です。
「大好き」に
理屈なし! 条件なし! 老若男女なし! 全肯定! ストレート! 全部了解!
そのままの あなたが好き!
「大好き」って、言われても、言っても
うれしい、すごく幸せな気持ちになれます。
本当に大切な人に「大好き」って言うと、
目頭が熱くなることがある。
それは、その言葉が 素直で正直な感情だからです。
子供さんや お孫さんから そう言ってもらったら、
旦那さんや 奥さんや、恋人や 親友から そう言ってもらったら、
想像するだけでも あったかい気持ちになれます。
ひすいさんは「大好き」という言葉を
「名言中の名言! 奇跡の言葉!」
だと言っています。
本当の気持ちを伝える、
本当の気持ちに寄り添って生きて行く。
素敵ですね。
まっすぐな思い まっすぐに歩む 今日はいい日だ!
檀信徒の皆さんが、あたたかい心持ちで 一年を過ごせますよう、
心からお祈り申し上げます。
山主合掌
平成31年の新春に當たり、謹んで至心に三宝を誦し、
併せて 檀信徒の皆様のご清祥を 心よりお祈り申し上げます
朝起きると
「今日は 何をしなきゃいけないんだっけ。
それをやって、これをやって、
そうだ あれもやらなきゃいけないんだ」
なんて考えてる。
夜 布団に入ると
「明日は 何をしなきゃいけないんだっけ。
それをやって、これをやって、
そうだ あれもやらなきゃいけないんだ」
なんて考えてしまう。
忙しい忙しいと 日々が過ぎていきます。
疲れるなぁ。
毎日ストレスの連続だぁ~・・・
私の日常です。
でも 時々考えてしまいます。
それと、これと、あれって、
朝一番に考えなきゃいけないことなのかなぁ。
一日頑張って お疲れ様のベッドで 考えなきゃいけないことなのかなぁ。
だったら 自分の人生って なんなんだろう?
むなしくなるなぁ。
そんな時 出会った コピーライター糸井重里さんの言葉
「自分にとって、本当に大事なことってなんだろう?
自分にとって、本当に大切な人って 誰だろう?
このふたつを本気で思っているだけで、いい人生が送れるような気がする!」
(知慧の実のことば)。
朝晩に考える事を変えてみると、
心が豊かになって 安らげそうな気がしてきました。
同じくコピーライターの ひすいこたろうさんの
『3秒でハッピーになる超名言100』に載っていたお話です。
とある家の中学生の娘さんは、
出かける時に 家族に「行ってきます」とは 言わないそうです。
素直なかわいい普通のお嬢さんですが、
絶対に「行ってきます」とは言わないそうです。
なぜ?
・・・もし その日に、
自分や家族に なにか不慮の不幸な出来事があった時に、
最後の言葉が「行ってきます」じゃ 絶対に嫌だからだそうです。
じゃあ、娘さんは 家族に何て言って出かけるのでしょう?
「大好き!」
大切に思っている人に 一番言いたい 本当の 真実の 最高の言葉です。
「大好き」に
理屈なし! 条件なし! 老若男女なし! 全肯定! ストレート! 全部了解!
そのままの あなたが好き!
「大好き」って、言われても、言っても
うれしい、すごく幸せな気持ちになれます。
本当に大切な人に「大好き」って言うと、
目頭が熱くなることがある。
それは、その言葉が 素直で正直な感情だからです。
子供さんや お孫さんから そう言ってもらったら、
旦那さんや 奥さんや、恋人や 親友から そう言ってもらったら、
想像するだけでも あったかい気持ちになれます。
ひすいさんは「大好き」という言葉を
「名言中の名言! 奇跡の言葉!」
だと言っています。
本当の気持ちを伝える、
本当の気持ちに寄り添って生きて行く。
素敵ですね。
まっすぐな思い まっすぐに歩む 今日はいい日だ!
檀信徒の皆さんが、あたたかい心持ちで 一年を過ごせますよう、
心からお祈り申し上げます。
山主合掌
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大切な「誰かのため」が 頑張れる「自分のため」になっている!
平成30年の新春に當たり、謹んで至心に三宝を誦し、
併せて檀信徒の皆様の御清栄を心よりお祈り申し上げます
日本人のおもてなしが、世界中で絶賛されています。
うれしいですね。
この日本の『おもてなしの心』は
どこからやって来ているのでしょう?
それは、ご先祖さまたちが育んできた、
美しい心・優しい気遣い・清らかな思考・素敵な智恵が、
時空を超えて現代の私たちの心につながってきているからだと思うのです。
そのことを ふだん何気なく口にしている普通の日本語の由来(語源)を尋ねて、
ちょっとだけ考えてみましょう。
『瞳』という言葉は、
だた「目」というより、
なんとなく愛らしい感じがしますね。
瞳の語源は「人見」です。
人を見る身体の器官だから人見なんです。
現代の私たちは、
鏡や写真で 自分の瞳を見る事が出来ますが、
昔の人は
そうそう瞳孔を観る機会なんてありませんでした。
赤ちゃんや恋人など 愛する人と至近距離で見つめ合う、
そんな時だけ
相手の目の真ん中にある黒い小さな点を 確認できたんです。
その黒い点は、
なんの疑いもてらいもなく まっすぐに自分を見ていてくれている。
相手にとっても同じです。
ご先祖様たちは、
見つめ合う相手と 心が通じ合っている喜び、
そして 安心を感じながら、
黒い点を『瞳』と言ったのでしょう。
『ゆるす』のは むずかしい事です。
相手を許す(赦す)かどうか考えているうちは、
自分の心の傷が癒えてない状態です。
心が落ち着きを取り戻していれば、
許すか許さないかじゃなく、
これからどうして相手と関係していこうかを
考えているはずです。
無理して相手を許そうとすると、
自分の心の傷は どんどん広がっていくばかりです。
『ゆるす』の語源は
「ゆるくする・ゆるやかにする」です。
ギュッと絞っていた心の入り口を 少し緩めて開いてあげる事。
相手の行為の正当性は絶対認めないけど、
相手の真剣な姿にも 考えを巡らせてみる。
相手の過ちを糾弾しても、それを繰り返さないように懸命に考え、
努めている相手の努力を想ってみる。
そんな心の広げ方が
『ゆるす』という事なんです。
そして、
相手から「ゆるしてもらう」という事は、
相手のやさしさに包まれたことなのです。
この他、
『住む』は
「心が澄んだ状態で 日々を過ごせる事」、
『謎』は
「何ぞ 何ぞ の好奇心」、
『にこにこ』は
「心が柔らかい事で、相手を優しく受け入れる事」、
『ついたち』は
「月が立つ~つきたち」、
『もみじ(もみぢ)』は
「もみづ。秋の紅葉の事ではなくて、
神さまが 手ずから揉み出してくれた 命の輝き」 等々。
この他にも
まだまだたくさん 日本語の由来の面白さは ありますよ。
(参考「日本の言葉の由来を愛おしむ」高橋こうじ著・東邦出版)
日本語の中には、
先人たちの育んできた 温かい優しさや繊細な智恵が、
真摯な信仰心や
ふと微笑んでしまうユーモアなどと共にあふれていて、
それが おもてなしの考え方にも
つながっているんだと思います。
日本て素敵ですよね。
檀信徒の皆さんが、和やかな一年を過ごせますよう、
心からお祈り申し上げます。
山主合掌
併せて檀信徒の皆様の御清栄を心よりお祈り申し上げます
日本人のおもてなしが、世界中で絶賛されています。
うれしいですね。
この日本の『おもてなしの心』は
どこからやって来ているのでしょう?
それは、ご先祖さまたちが育んできた、
美しい心・優しい気遣い・清らかな思考・素敵な智恵が、
時空を超えて現代の私たちの心につながってきているからだと思うのです。
そのことを ふだん何気なく口にしている普通の日本語の由来(語源)を尋ねて、
ちょっとだけ考えてみましょう。
『瞳』という言葉は、
だた「目」というより、
なんとなく愛らしい感じがしますね。
瞳の語源は「人見」です。
人を見る身体の器官だから人見なんです。
現代の私たちは、
鏡や写真で 自分の瞳を見る事が出来ますが、
昔の人は
そうそう瞳孔を観る機会なんてありませんでした。
赤ちゃんや恋人など 愛する人と至近距離で見つめ合う、
そんな時だけ
相手の目の真ん中にある黒い小さな点を 確認できたんです。
その黒い点は、
なんの疑いもてらいもなく まっすぐに自分を見ていてくれている。
相手にとっても同じです。
ご先祖様たちは、
見つめ合う相手と 心が通じ合っている喜び、
そして 安心を感じながら、
黒い点を『瞳』と言ったのでしょう。
『ゆるす』のは むずかしい事です。
相手を許す(赦す)かどうか考えているうちは、
自分の心の傷が癒えてない状態です。
心が落ち着きを取り戻していれば、
許すか許さないかじゃなく、
これからどうして相手と関係していこうかを
考えているはずです。
無理して相手を許そうとすると、
自分の心の傷は どんどん広がっていくばかりです。
『ゆるす』の語源は
「ゆるくする・ゆるやかにする」です。
ギュッと絞っていた心の入り口を 少し緩めて開いてあげる事。
相手の行為の正当性は絶対認めないけど、
相手の真剣な姿にも 考えを巡らせてみる。
相手の過ちを糾弾しても、それを繰り返さないように懸命に考え、
努めている相手の努力を想ってみる。
そんな心の広げ方が
『ゆるす』という事なんです。
そして、
相手から「ゆるしてもらう」という事は、
相手のやさしさに包まれたことなのです。
この他、
『住む』は
「心が澄んだ状態で 日々を過ごせる事」、
『謎』は
「何ぞ 何ぞ の好奇心」、
『にこにこ』は
「心が柔らかい事で、相手を優しく受け入れる事」、
『ついたち』は
「月が立つ~つきたち」、
『もみじ(もみぢ)』は
「もみづ。秋の紅葉の事ではなくて、
神さまが 手ずから揉み出してくれた 命の輝き」 等々。
この他にも
まだまだたくさん 日本語の由来の面白さは ありますよ。
(参考「日本の言葉の由来を愛おしむ」高橋こうじ著・東邦出版)
日本語の中には、
先人たちの育んできた 温かい優しさや繊細な智恵が、
真摯な信仰心や
ふと微笑んでしまうユーモアなどと共にあふれていて、
それが おもてなしの考え方にも
つながっているんだと思います。
日本て素敵ですよね。
檀信徒の皆さんが、和やかな一年を過ごせますよう、
心からお祈り申し上げます。
山主合掌
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天台宗勤行儀 その17 跋(6)
なお、今回、“勤行”のあとに、
天台宗の教理を確立した中国 隋の時代の天台智者大師智顗禅師さま(高祖)の
一生を記した『天台大師和讃』(恵心僧都源信御作・p18)と
その天台宗の教えを日本に伝え、日本の風土に合った、現代に伝わる
新しい天台宗を作り上げた平安時代の伝教大師最澄さま(宗祖)の一生を記した
『伝教大師和讃』(伝 最深法印御作・p35)を
両大師さまへの報恩感謝の意味を込めて 載せさせていただきました。
最後になりますが、改めて、“勤行”って何でしょう?
それは 修行のひとつです。
では、なぜ修行をするんでしょう?
お悟りを開くためです。
では、お悟りって何でしょう?
日々 安らかに いい気持ちで過ごせるようになる事です。
つまり “勤行”は 幸せになるための修行です。
お釈迦さまや天台大師さまは、なぜ仏教を説かれ、
また 伝えてきたのでしょう?
自ら悟り、人々を悟りに導くためです。
既にお悟りを開かれたお釈迦さまや天台大師さま、伝教大師さまが
最も願っていた事は何でしょう?
人々が幸せになる事です。
人々とは 私です。
あなたです。
お釈迦さま、天台大師さま、伝教大師さまの御恩に報いるという事は、
私たちの ひとりひとりが 幸せになる事です。
他のみんなと一緒に。
この『天台宗勤行儀』が 少しでもその手助けになれれば、
これほどうれしい事はありません。
山主合掌
天台宗の教理を確立した中国 隋の時代の天台智者大師智顗禅師さま(高祖)の
一生を記した『天台大師和讃』(恵心僧都源信御作・p18)と
その天台宗の教えを日本に伝え、日本の風土に合った、現代に伝わる
新しい天台宗を作り上げた平安時代の伝教大師最澄さま(宗祖)の一生を記した
『伝教大師和讃』(伝 最深法印御作・p35)を
両大師さまへの報恩感謝の意味を込めて 載せさせていただきました。
最後になりますが、改めて、“勤行”って何でしょう?
それは 修行のひとつです。
では、なぜ修行をするんでしょう?
お悟りを開くためです。
では、お悟りって何でしょう?
日々 安らかに いい気持ちで過ごせるようになる事です。
つまり “勤行”は 幸せになるための修行です。
お釈迦さまや天台大師さまは、なぜ仏教を説かれ、
また 伝えてきたのでしょう?
自ら悟り、人々を悟りに導くためです。
既にお悟りを開かれたお釈迦さまや天台大師さま、伝教大師さまが
最も願っていた事は何でしょう?
人々が幸せになる事です。
人々とは 私です。
あなたです。
お釈迦さま、天台大師さま、伝教大師さまの御恩に報いるという事は、
私たちの ひとりひとりが 幸せになる事です。
他のみんなと一緒に。
この『天台宗勤行儀』が 少しでもその手助けになれれば、
これほどうれしい事はありません。
山主合掌
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天台宗勤行儀 その16 跋(5)
ところで、この『天台宗勤行儀』でお唱えする経文の順について
確認しておきたいと思います。
三礼 最初に、仏さま(心理の姿)。仏さまの教え(心理の教え・
仏教の仲間たち(真理の担い手)に、心からの礼拝をします。
懺悔文 次に、修行(勤行)を始めるに当たり、今まで犯してきた
自分自身の罪悪をすべて仏さまに告白し、悔い改め、
心を清浄に整えます。
四弘誓願 次に、“懺悔(さんげ)”した事で、澄み切って清らかになった心で、
悟りに向かうための誓願を立てます。
これを“発菩提心(ほつぼだいしん)”略して“発心(ほっしん)”と言います。
菩提とは悟りの事で、発心とは「心を悟りに向けて始動させる」という事です。
この“懺悔”と“発心”は、天台宗の修行の基本です。
開経偈 次に、お経を開いて読み始める前に、「今 自分が こうして
お釈迦さまの教えを知る事ができ、学ぶ事ができる」という幸運を喜び、
「この良縁を生かしてお釈迦さまの教えをしっかり体得するんだ」
という決意をします。
般若心経 次に、いよいよ“勤行”の中心になる修行、“経典読誦”です。
ここで取り上げた『般若心経』は、「こだわらない心」を悟るための教え
(空の思想)が説かれたお経ですが、その他にも、先ほど「八万四千の法門」
と記したように、仏教にはたくさんの教えがあります。
例えば、天台宗では『般若心経』以外にも『観音経(法華経普門品二十五)』
『自我偈(法華経寿量品十六偈)』 『阿弥陀経』 等の経典が読まれる事も
よくあります。
また、『仏頂尊勝陀羅尼』等の陀羅尼(だらに)、「南無阿弥陀仏」等のお念仏、
『圓頓章(魔訶止観)』や 『山家学生式』等のお祖師さまの言葉(著述)、
『天台大師和讃』『伝教大師和讃』等の和讃、
さらには種々のご詠歌をお唱えする事もあります。
ただし、お釈迦さまの直接の教えである“経典”を読誦した上で、
その他の和讃や詠歌等を唱えるのが本義です。
回向文 最期に、“勤行”という修行を終えるに当たり、
自分だけでなく、すべての命あるものたちが それぞれ悟りを開いて、
皆が幸せになれる事を願います。
「三礼」から「般若心経読誦」までが 自分を高めるための修行(自行)、
「回向」が自分以外の生き物たちの幸せを願うための修行(化他業)、
この二つが揃って、“菩薩行”が完成されます。
“自行”の外に “化他業”がある事が
「小乗仏教」と異なる「大乗仏教」の大きな特徴です。
また、自分以外の生き物たちの幸せを願うという事は、
実は自分自身の修行にもなっているという事も
忘れてはならない事ですね。
今日は、ここまで!
確認しておきたいと思います。
三礼 最初に、仏さま(心理の姿)。仏さまの教え(心理の教え・
仏教の仲間たち(真理の担い手)に、心からの礼拝をします。
懺悔文 次に、修行(勤行)を始めるに当たり、今まで犯してきた
自分自身の罪悪をすべて仏さまに告白し、悔い改め、
心を清浄に整えます。
四弘誓願 次に、“懺悔(さんげ)”した事で、澄み切って清らかになった心で、
悟りに向かうための誓願を立てます。
これを“発菩提心(ほつぼだいしん)”略して“発心(ほっしん)”と言います。
菩提とは悟りの事で、発心とは「心を悟りに向けて始動させる」という事です。
この“懺悔”と“発心”は、天台宗の修行の基本です。
開経偈 次に、お経を開いて読み始める前に、「今 自分が こうして
お釈迦さまの教えを知る事ができ、学ぶ事ができる」という幸運を喜び、
「この良縁を生かしてお釈迦さまの教えをしっかり体得するんだ」
という決意をします。
般若心経 次に、いよいよ“勤行”の中心になる修行、“経典読誦”です。
ここで取り上げた『般若心経』は、「こだわらない心」を悟るための教え
(空の思想)が説かれたお経ですが、その他にも、先ほど「八万四千の法門」
と記したように、仏教にはたくさんの教えがあります。
例えば、天台宗では『般若心経』以外にも『観音経(法華経普門品二十五)』
『自我偈(法華経寿量品十六偈)』 『阿弥陀経』 等の経典が読まれる事も
よくあります。
また、『仏頂尊勝陀羅尼』等の陀羅尼(だらに)、「南無阿弥陀仏」等のお念仏、
『圓頓章(魔訶止観)』や 『山家学生式』等のお祖師さまの言葉(著述)、
『天台大師和讃』『伝教大師和讃』等の和讃、
さらには種々のご詠歌をお唱えする事もあります。
ただし、お釈迦さまの直接の教えである“経典”を読誦した上で、
その他の和讃や詠歌等を唱えるのが本義です。
回向文 最期に、“勤行”という修行を終えるに当たり、
自分だけでなく、すべての命あるものたちが それぞれ悟りを開いて、
皆が幸せになれる事を願います。
「三礼」から「般若心経読誦」までが 自分を高めるための修行(自行)、
「回向」が自分以外の生き物たちの幸せを願うための修行(化他業)、
この二つが揃って、“菩薩行”が完成されます。
“自行”の外に “化他業”がある事が
「小乗仏教」と異なる「大乗仏教」の大きな特徴です。
また、自分以外の生き物たちの幸せを願うという事は、
実は自分自身の修行にもなっているという事も
忘れてはならない事ですね。
今日は、ここまで!
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天台宗勤行儀 その15 跋(4)
さて、この『天台宗勤行儀』には、
経文の漢文 ・ 書き下し文(日本語読み) ・ 意味(日本語訳)
を記しました。
『天台宗勤行儀』を読誦する際は、
漢文読みか、書き下し文でお唱えするのが良いと思いますが、
本尊様や お位牌の前で日本語訳に目を通すことでも
“勤行”の実践にはなるでしょう。
そもそも、お経(勤行儀)による修行というのは、
① 受持(信仰する経典を いつも手許に置く事)
② 読(経典を読む事)
③ 誦(経典をそらんじ 口ずさむ事)
④ 解説(経典の内容をよく理解し、その素晴らしさを他の人にも知らせてあげて、
皆を悟りに導く事)
⑤ 書写(お経を書く事、写経)
の五つがそろって 完成されるものです(法華経法師品~五種法師行)。
今日は、ここまで!
経文の漢文 ・ 書き下し文(日本語読み) ・ 意味(日本語訳)
を記しました。
『天台宗勤行儀』を読誦する際は、
漢文読みか、書き下し文でお唱えするのが良いと思いますが、
本尊様や お位牌の前で日本語訳に目を通すことでも
“勤行”の実践にはなるでしょう。
そもそも、お経(勤行儀)による修行というのは、
① 受持(信仰する経典を いつも手許に置く事)
② 読(経典を読む事)
③ 誦(経典をそらんじ 口ずさむ事)
④ 解説(経典の内容をよく理解し、その素晴らしさを他の人にも知らせてあげて、
皆を悟りに導く事)
⑤ 書写(お経を書く事、写経)
の五つがそろって 完成されるものです(法華経法師品~五種法師行)。
今日は、ここまで!
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