伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

田舎暮らしの日々とガーデニング 時々ニャンコと

小説を発信中

  
  
  
  

  

我が忘れじの樺太

2009-12-11 12:21:56 | 樺太
 伊達だよりに樺太のことを書いていたら、無性に樺太のことを書いてみたくなった。私の周囲から樺太の語り部がいなくなった今。亡き母や兄に聴いたことを忘れないうちにここに書きとめていきたいと思っている。風化されないうちに、・・・・・・。 

 下書きもせず、そのつど思ったことをここに書いて行くので、甚だ乱暴な文章になると思いますが読んでいただけたら幸いです。

 私のルーツ?

 私は昭和oo年樺太の,るうたか郡多欄内村字上多欄内という村で生まれた。兄4人姉1人の末っ子であった。私のすぐ上の兄は死産だったのでもう子供は生まれないだろうと産婆さんに言われていたと、よく母から聞かされていた。
 それはともかく、寒い日にうまれたので静子と名付けられたと聞いていたのだが、それが大学に入る時、戸籍を取り寄せたらカタカナのシズ子になっていたので驚いた。親はあああの時はおばあちゃんが届けたので(北海道に来てから)きっとカタカナにしてしまったんだわ・・・といとも簡単に言ってのけた。
 ちなみに男はみんな漢字になっていたが私と姉だけはカタカナになっていた。それだけ当時は女は疎んじられていたというか・・・。まあ、戦後のドサクサだったからしかたがないか・・・。
 私はこの漢字の静子を高校卒業まで使っていたのだからすごい・・・。 後年手紙を書く時なんか、格好をつけて志津子とか倭子とか使っていたが、昭南さんがシズ子という字は、力強くてなかなかいいよ。といってくれたので、それからはどうどうとシズ子という字を使っている。字画的にも運のいい字だらしい・・・。

 ても現役時代一年生の男子がいきなり職員室に来て、さも真剣な面差しで「ちょっとお尋ね致しますが先生のお名前は本名でしょうか」と聞いて来たのにはびっくりした。現在ではカタカナの名は珍しく、タレントが芸名で使うくらいだったからなのかな・・・。
  私が生まれた数日後に祖父が亡くなった。 父方の祖父と祖母は仙台出身で、祖父は家庭があったが祖母と恋愛関係になり、樺太に駆落ちしたそうである。祖父の家柄はよかったらしい・・・。
 母方の祖父母は、秋田出身で、母も秋田で生まれた。小さい頃開拓のために、現大滝地区の清原という所に祖父母とともに入植したらしいがうまくいかなかったらしく、戦前また親とともに樺太の開拓に加わったらしい。そこで父とお見合いをして結婚した。母17歳の時である。
  その頃父は祖父と木材関係の仕事をしていたらしい、当時は山師と言っていた。私の樺太での記憶はいつも馬が沢山いて、白い馬がいたことも記憶している。それがある日全ていなくなり、いつのまにか野宿していた。

 多分わたしが 3歳の時だと思うが。 日本が戦争に負けたとたん、ロシアが攻めてきた。樺太の奥地に住んでいた私達家族はいろいろな情報が飛び交い、このままでは殺される、そのうちに引き揚げ船が沈没させられみんな全滅したというような噂が流れてきて、父はあせったらしい、とういうルートかしらないが漁船をチャータして家族で逃げようとしたらしいが、船に乗る寸前にロシア兵に捕まってまた地元に引き返したらしい・・・・。

  ということは最近になつて次兄から聞いて知ったことだ。その次兄も私達が伊達に来て間もなく亡くなってしまった。 帰ると家の中にあった全ての物は無くなっていたということである。

 その間のことについては父母は何も語ることはなかった。が私より8歳上の姉はそのことをよく憶えていて2、3日前に会った時、話してくれた。近所の人と一緒だったらしい・・・何十キロも歩き、足に豆ができるは、棒になるはで大変だったらしい・・・。

 それから我が家は母子家庭の家族が二組入り、三つに間仕切りして使った。
 その頃の事は私もよく憶えている。その家族と三年も一緒に生活していたのだから・・・・・・。

 この時の話しを昭南さんに話したら、「雪の街のシズ子さん」という本を出版してくれた。
 
 ここでちょっと息抜きをして、この本の紹介をさせていただます。
 今はこの出版社が倒産してしまい、伊達の洞口書店であつかってもらっています。
 写真は、38才の母と16才の姉8才の私。北海道大滝村優徳小学校の運動会の日

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする