彼は何かにカブレているのかも知れないと思った。
一クラスに一人や二人は必ずいる、成績が上のスカシ野郎だ。
そんな風に考えてみる。
しかし、言葉は耳の奥から、忘れた頃にひょっこりとまた聞こえてくる。
千恵は次第に苛立ちを覚えた。
その苛立ちはやがて最後に、彼が雪の峠で父に拾われた、処に行き着く。
「あのままだとあいつは、間違いなく行き斃れだった」
父は彼の話しが出ると、何度もそう言った。
そこに辿り着くと、彼の言葉が単なるスカシとは思えなくなる。
一体何を考えているのか、結局千恵には解らない。
自分がまだ子供だからなのか、大人になら充分に理解できるのか、苛立ちはまた迷路をさ迷い始
めた。
突然、楽し気な鈴の音を響かせてドアが開き、ハーフのスプリングコートを着た、清子が現われ
た。
「待った」
姉はいつもの第一声をかけながら、優し気にそっと薄いコートを脱いで、頑固な樽材の椅子の背
もたれにかけた。
こんな時、千恵は姉に強く、大人の女を感じてしまう。
「姉さんいい人できた」
千恵は急に意地悪気に聞いてみる。
もちろん姉には、そんな人がいないことは百も承知だ。