伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

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影を慕いての思い出

2023-03-31 16:20:56 | カラオケ

 朝は野菜ジュースと茶碗蒸しの軽い朝食

 そして二紙の新聞を読む

 その時に必ずBGMを

  入れる。

 ジャズだったり抒情歌 演歌 クラシック

 その時の気分による・・・。

   今日は演歌だった。

 珍しく影を慕いて・・・はっとした

 やっぱり名曲はいいもんです。

 この歌には思い出がある

 若かりし頃

 K中学校の開校100周年記念のアトラクションの出し物で

  職員のバンドに合わせてこの歌を唄った。

 音域が広かったがその頃は楽に声が出た。

 が

 伊達に移住して演芸カラオケクラブに入部して施設訪問でこの歌を

 唄おうとしたが高音部が汚い・・・でも今年は挑戦しょうと楽譜と

 CDを探した。

 そんなこんなで

 今日も今日とて

 午前中はつぶれてしまった。

 

  二木紘三氏の「二木紘三のうた物語」より拝借させていただきました。

影を慕いて

 

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo

 

 


 

作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

 

1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に
  月にやるせぬ 我が思い
  つつめば燃ゆる 胸の火に
  身は焦れつつ 忍び泣く

2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに
  ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
  どこまで時雨(しぐれ) ゆく秋ぞ
  振音(トレモロ)寂し 身は悲し

3 君故に 永き人生(ひとよ)を霜枯れて
  永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
  ながろうべきか 空蝉(うつせみ)
  儚(はかな)き影よ 我が恋よ

《蛇足》 昭和初期の深刻な不況のなか、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。

 昭和3年(1928)年夏、友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。
 その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固めました。帰京後は、その創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会を通じて、音楽活動を続けて行くことになります。

 昭和3年(1928)11月25日に催された明大マンドリン倶楽部の第13回定期演奏会では、プロ歌手の佐藤千夜子が出演して、『波浮の港』など4曲を歌いました。
 佐藤千夜子は、
当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれて、出演を承知したのです。

 彼女は、翌年6月の第14回定期演奏会にも出演し、『野薔薇』など4曲を歌いました。
 このとき、古賀政男作曲の『影を慕いて』が、ギターの合奏で演奏されました。
それを聴いて、政男の作曲の才能を見抜いた佐藤千夜子は、それを歌謡曲にすることを勧めました。

 歌謡曲となれば、歌詞を作らなければなりませんし、歌詞が生きるようにメロディを編曲することも必要になります。なかなか思うような作品に仕上がらず、彼は悩みました。
 そんな折、スペインの世界的ギター奏者アンドレアス・セゴビアが来日、政男は同年10月26日の演奏会を聴きに行きました。自伝によると、セゴビアの名演に酔いしれ、
「その興奮が収まらないうちに、私は一気に『影を慕いて』の詞と曲を作り上げた」とあります。
 歌詞は、失恋して自殺しようと青根温泉の山中をさまよったときの心情がモチーフになったようです。 

 できあがった曲は、昭和5年(1930)10月20日、佐藤千夜子の唄で録音され、日本ビクターから発売されました。ところが、このレコードは期待されたほど売れず、評判にもなりませんでした。B面だったことも影響していたかもしれません。

 古賀政男は気落ちしましたが、この曲を聴いた日本コロムビアの営業マンが彼の才能に気づき、専属作曲家として引き抜きました。
 そして、『影を慕いて』を、当時
まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生だった藤山一郎に歌わせました。昭和7年(1932)3月にレコードが発売されると、空前の大ヒットとなり、以後、古賀政男は順調に花形作曲家の道を歩むことになります。

(二木紘三)

 

 

 

コメント
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