伊達だより 再会した2人が第二の故郷伊達に移住して 第二の人生を歩む

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風化させないために・・・2「ロシア人家族と暮らす」

2013-01-23 02:46:23 | 樺太
 昭和20年8月

 引き揚げ船3隻が留萌沖で爆破され
 1700人もの犠牲者を出した為その後
 の私たちの引き揚げは見送られた・・・。

 幸い私たち家族はその船に満員のため
 乗れなくて命拾いしている。

 私たち一家は再び村に帰り自分の家を
 三つに区切りロシアの貧しい入植家族
 二組と

 昭和23年の引き揚げまで3年近く一緒に
 暮らした。

 その時のことはよく憶えている・・・・。

 ロシア人の女の子に幼い私がいじめられ
 て泣いて帰って来ると

 4歳上の兄がその女の子をグスベリの木
 の周りをグルグル追いかけて泣かせ

 今度は兄がその子の母親に

 「は・る・じ はるじ・・・・」とまたまた追い
 かけられつかまって怒られ泣い
 ていたことなどが

 妙に鮮明に脳裏に焼き付いて
 いる。

 配給の真っ黒いロスケパン・・・固くて食べ
 られないと泣いた兄がいたらしい・・・が何
 にでも好奇心旺盛だったチビッコの私は
 スープかなにかにひたして

 これは上手い・・・と食べた記憶がある。

 いまだに固いパンとかセンベイが好きであ
 る・・・・。

 ロシア人の家族は毎夜マンドリンを奏で
 カチュゥシャを唄っていて陽気だった。

 今思うに本当に唄が大好きな民族であった。

 「ダースケダァニァー・・・・カチュウシャ」と私も
 よく口ずさんでいたものである。

 夜唄っている時に私達は障子に穴を開け様子
 を見ていると向こう側でも子供達が穴を開けて

 こちらの様子を観察していた・・・・。

 フフフフ

 向こうの夕食は大きなお鍋がドンと置いてある
 だけで手で食べていた・・・。

 なんでもごった煮である。

 それでも昼パンを焼くと向こうのマダムが
 「シズコシズコ」と呼び よくパンをくれたもので
 あるが母は不衛生だから・・・・と食べさせて
 くれなかった。

 向こうの家族が我が家に遊びに来たことがある

 みんな壁によりかかって珍しそうにこちらを見て
 いた・・・お互いさまだったが・・・・

 兄たちがマダムの立ち膝をしているスカートの中
 をしきりにきにしていた・・・

 「み・る・ナ・・・」と


 親に怒られていた。

 下着を着けていなかったらしい・・・。

 ロシアでも最も貧しい人達が入植して来たのだろ
 う・・・・・。

 いよいよ引き揚げの時は

 マダムたちが泣いて見送ってくれたと母は

 語っていた・・・・。

 私は全く記憶にない・・・・。




 大泊市街



 
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