
ユソヨン 江原道ピョンチャン郡ハリ
姉が、私にソウルに住む甥といとこを連れに来いという任務を下した。いやだとごねたいところだが、勝てるわけもなくソウルに向かった。
朝から急いだが、市外バスは空席がなかった。仕方なく座席の肘掛に腰掛けた。1時間が過ぎると尻が痛く、休憩所で床に敷いて座る新聞を買った。しかし、トイレに行った人たちが濡れた靴で車に乗ってきたので、床が濡れて座ることができなかった。
また、肘掛に座ろうとした時、一人のおばさんが唐辛子の入っていた小さなスチロールの箱を差し出した。「この上に新聞を敷いて座りなさい。」尻が痛いのではないかと箱を縛った紐を解いてくれたのだった。暖かい配慮がこもった小さな箱がどんな椅子よりも楽に感じた。
甥といとこを連れて家に行くチケットは前もって予約しておいた。そして余裕のある気持ちで車に乗ったのだが、若者が一人、席がなくて哀れに新聞紙を敷いて床に座った。私がソウルに来る時に受けた気持ちを返すときが来たと思ったが、5歳の甥を膝に座らせて3時間も行くことを考えると漠々とした。いろいろな言い訳を考え、ためらったが、ついに、私は彼に席を譲ってやった。
私が受けたあの日の好意は決して軽いものではなかったのだ。私が受ける時は小さく、私があげる時には大きく感じるもの。これが親切であり、配慮だ。いくら小さな親切だとしても、いつも鉄釜のように重く、ダイヤモンドのように大切に受けなければならないと言う思いを心に深く刻んだ。