
ユン判事からの手紙/ユンジェウン/判事
蘭を見ていたらその後ろに親指ぐらいのミニサボテンの鉢を見つけた。かなり前に娘から贈られたものだが、蘭に隠れて忘れられていたのだ。サボテンは水を貰えず、すでに乾いて死んでいた。どんなにのどが渇いただろうか。
サボテンを見ていたら、ふと被告人が思い浮かんだ。この頃、刑事裁判をしている間、心が重くなっている。強盗罪を犯した40代序盤の被告人は21年を刑務所で送り、これからはちゃんと生きていくので許してくれと叫んだ。しかし、前科が多く減刑する方法はなかった。険しい人生を生きてきた人のようではなく、きれいな顔をしており環境さえよければ平坦な人生を生きられたのではないかと残念だった。
常習的にスリをしてきた女性も思い出された。スリだけで懲役6回、治療看護(精神病)で4回、刑を受け、また捕まってきたのだった。彼女は私生児として生まれ、継父に性暴力を受け家出、スリの組織に加担する等、苦難の人生を生きてきた。それによる精神病が深刻となったが、裁判の途中で癌により余命いくばくもないことを宣告された。生命が消えていこうとする彼女の青白い顔を見ていてあまりにも胸が痛かった。
この人たちのように常習的に犯罪を犯し刑務所で人生の大部分を送る人たちが少なくない。この人たちにどのような処分をするのが正しいのかいつも悩む。寛大な処分をしてもいくらも経たないうちに再び犯罪を犯して人々に被害を与えるか、重い刑で処罰したとしても矯正効果がないからだ。
常習犯罪者は大概似たような人生の苦難をなめている。幼い時からちゃんと養育されず、家出、退学、などをして社会の暗い淵に捨てられた。学歴も経済力も、近い家族もない。そうだけれども一番の問題は精神的な問題だ。この人たちは内面の傷がとても大きく犯罪の習癖から抜け出せないのだ。
犯罪防止に対するいろいろな学説があるが、優れた対策は特別にあるわけではない。更生に成功した人たちの経験によると、確実なのは唯一つだけだ。これは平凡だけれど狭く困難な道だ。宗教的に改心をするとか、配偶者や子供など愛する家族ができるとか、本当の恩人(後援者)に出会うとかだ。すなわち、純粋な愛を体験する道しかないのだ。自分が愛されている存在であることを体験し感じることが傷を癒してくれ、新しい心を持てるようになるのだ。
人は愛されると自身がぱっと咲くが、蔑視と虐待を受けると不安になり乱暴になる。ひどい不安と暴力性が自身に向かうと自虐や自殺をする精神病になり、他人に向かうと犯罪になる。ヘンリー ナウエェンは犯罪者を「荒々しい暴力で他人に害を及ぼす方法ではなく、愛されたい欲望を他に表現できない人」だと言った。犯罪の根底には愛に対する必死な渇望がある。
家出した青少年を支える「野の花の咲く村」運動をしているキムヒョンス牧師は社会に2種類の同心円があると言った。強者が中心に弱者と最弱者が端に生きる同心円は「競争」が支配して、端に押しやられた弱者は死ぬか捨てられる。反対の同心円は弱者であればあるほど中心にいて、強者は端に暮らすが、これを動かす原動力は「分け合うこと」であり、この時、強いことは本当の能力となり、弱いことは誰しも持っている傷を癒す共感帯となる。そして愛と生命が花開き同心円がだんだん大きくなる。
この濁った社会で強い心で分け合いの同心円を成す人々が少なくない。長期服役囚を根気強く世話をする人々、無期懲役囚の里親になって面倒を見る人々もいる。この人たちは「受刑者を助けながら、自分の内面にある惰弱で、傷を負った幼い子に会ってむしろ自分が先に癒されているのだ。」と言った。
常習犯罪者は加害者である前に、過酷な運命の被害者だ。枯れ死にしたサボテンのように最小限の愛も受けられないで霊魂が乾いてしまったのだ。この人たちは誰も愛してあげない忘れられた人たちだ。分け合うことの同心円にこの人たちを招待することだけが私たち皆を救うことができることだ。