TVで、東日本大震災追悼式で宮城県遺族代表の菅原彩加(さやか)さん(19)の言葉を聞いた。
衝撃だった。
『…朝学校へ行く際すれ違う人皆が 「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、 近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。』
でも次のように結んだ彼女の言葉も誰もが忘れられないのではないか。
『失ったものは、もう戻ってくることはありません。悲しみが消えることもないと思います。しかし前向きに頑張っていくことが、亡くなった家族への恩返しだと思い、生きて生きたい。』
今朝は新聞の一面で彼女の言葉を文字で読んだ。
やっぱり言葉にしづらい。
でも、彼女だけでなく、人は誰も、それぞれ場面の違う、大なり小なりの衝撃を受けながら生きている。「ドラマのように」と言えば軽いかもしれないけれど、そのいくつもの場面は、人生の時々に、走馬灯のように流れる形で思い起こされるのでだ。
そして、決意するのだ。
死別であるなら、「亡くなった(家族の)○○のために、その死を糧にして、新たな自分を創るのだ」と。
それが、○○が自分の中で生き続けることなのだと。
そうしなければ、家族の死を、ほかの誰でもない、“家族の死”として受け止めたことにはならないのだと。
僕はこう、経験的に結論付けている。