京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

志賀直哉旧居(奈良市高畑町)

2024年06月14日 09時31分00秒 | 日記
 6月7日は、朝日カルチャーセンターの講座で奈良市高畑町にある"志賀直哉旧居"に来ました。





現在は奈良学園がセミナーハウスとして所有されています。

志賀直哉はこの住居を自ら設計し、家族と共に1929年から9年間暮らしています。

① 食堂







天井は漆喰で仕上げられた洋風ですが、隅は折り上げ風で空間に高さや広さを感じさせます。

照明も当時のままの民芸風です。

月に約50名もの来客があったそうで、この食堂で夕食など家族ぐるみの交流があったそうです。

② キッチン







現在にも通じる対面式で、隅には大きな氷の冷蔵庫が備わっています。

当時、大阪ガスが通じていたのでかまどさは無く都市ガスを利用したコンロが使われていました。

③  サンルーム









この家の特徴のひとつサンルームです。
多くの芸術家が集まり"高畑サロン"と呼ばれた部屋です。

麻雀や将棋をしながらの芸術談議の場であり、谷崎潤一郎や武者小路実篤、梅原龍三郎らが訪れています。



庇(ひさし)の垂木には"白樺"の丸太が使われています。

④ 風呂場



こちらにも志賀直哉のこだわりが、、、
下半分は五右衛門風呂、上半分は檜で出来ています。

ゆったりと出来る空間かも彼の合理精神の一端がうかがえます。

⑤ 茶室









家族を大切にする志賀直哉はこの茶室を夫人と娘さんたちの為に造っています。

毎週日曜日には興福寺からお茶の先生が来られ、武者小路千家流派の稽古が行われていたそうです。

付随する茶庭も和風の本格的なもので、景石は生駒山から産出される"生駒石"が使われています。

⑥ 一階書斎





北向きの一室ですが、窓を広くとり自然光だけでも明るい部屋です。

天井はヨシでふかれ、梁には松と栗を使った数寄屋風になっています。

⑦ 二階書斎





南向き二階の書斎です。
この部屋で名作「暗夜行路」を完成させています。

⑧ 二階客間





窓が大きく取られた開放感溢れる部屋です。
窓からは若草山や御笠山が眺望できます。

1月の若草山の山焼きの時には大阪から料理人を呼び、家族や友人と料理を楽しみながら観賞したそうです。

こちらには何度も来ていますが、今見ても合理的で無駄のない住居に思います。

"小説の神様"とも通称される志賀直哉、、、
小説にも、住居にも簡素でありながらも、実用的な考えが浸透しているように思います。





次に天理教天御津分教会を見学しましたが、SNSはNGと言う事でした。
(写真は外観です。)












萬年山 真如寺

2024年06月13日 08時13分00秒 | 日記
 6月9日、第一回「そう京」同窓会最後の目的地は萬年山真如寺です。









境内への入口で徒歩組の皆さんを待ち、いざ境内に。
表門の手前には杜若が咲く池があります。



葵祭の"路頭の儀"が行われる時期に満開を迎えますが、こちらの杜若は季節を問わず何輪かの花を咲かせるのが特長です。

約束の時間を少しオーバーしてしまい境内で江上ご住職がお待ちでした。




勧請開山は無学祖元(仏光国師)、本尊は宝冠釈迦如来、山号は萬年山、寺紋は輪違いです。

真如寺の歴史は、相国寺の創建から遡ること約100年、無学祖元死後の弘安9年(1286)に無学の弟子である無外如大尼が、無学の遺爪髪を祀るための塔所として「正脈庵」を築いたことが始まりとされています。

先ずは法堂(大雄殿)からご案内して下さいました。



無外如大尼の死後、正脈庵もまた崩壊に瀕していましたが、暦応5年(1342)4月15日、無学祖元の法孫で、相国寺の勧請開山である夢窓疎石(夢窓国師)が、足利尊氏の執事・高師直、尊氏の弟の足利直義の外護を受け、庵を東側に移して寺院として整備しました。

この際、無学祖元が初めて住した中国浙江省の台州にあった真如寺に倣って、寺号を真如寺としました。そして無学祖元を勧請開山に、無外如大尼を勧請開基とし、夢窓自身は第二世として入寺しました。弟子の摩訶迦葉尊者と阿南尊者がお祀りされています。

こちらは今風に言うと"ロフト"の上にご本尊さまがおられる変わった構造です。






江戸時代、1656年、第108代・後水尾天皇の第6皇女・宝鏡寺門跡19世・理昌(りしょう)の死去に伴い、その菩提所となります。

以来、歴代の宝鏡寺門跡が葬られています。天皇により法堂が再興され、以後、 相国寺派に属した。同年、後水尾天皇皇女・宝鏡寺宮月鏡尼の入寺により、以後再興されたそうです。

後水尾天皇皇女・宝鏡寺宮月鏡尼が宝鏡寺に入寺以来、宝鏡寺の尼門跡の像4体が安置されているのも珍しいです。



修復前の像です。

眞如寺に安置されていた尼僧像ですが劣化が激しく、お顔も痛々しい状態になっていました。

それを国際日本文化研究センターの教授が5年に及ぶ修復作業の末、修復を完了させたそうです。
そのきっかけを作ったのが同センターのパトリシア・フィスター教授です。





宝鏡寺境内には墓地は無く、ここ真如寺の墓地に葬られています。

また、延文3年(1358)には足利尊氏の葬儀を真如寺で行うなど、また十刹としても等持寺、臨川寺等と共に高位に位置づけられ、室町幕府の手厚い保護を受けました。

寛正2年(1461)に焼失後、応仁の乱の混乱もあり、寺は一時期廃寺状態となりましたが、明應8年(1499)以降、方丈や仏殿が段階的に復興されました。

半僧坊大権現 御開帳法要の様子。






(今回は拝観していません)

毎年5月中旬の週末に「半僧坊大権現」を開帳し、御祈祷法要を行います。心願成就・身体健康・厄難消除・商売繁盛・家内安全などに御利益があり、「厄除けの肩たたき」が行われます。
当日は「お茶席」「手作り市」も行われ、境内の杜若も見頃になります。

次に客殿をご案内して頂きました。







客殿(方丈)には、江戸時代後期京都画壇の絵師のひとり原在中筆の襖絵「四季花卉図」や「西湖図」、「雀朝顔図」などがオリジナルのまま残されています。

次に書院を案内して頂きました。









東側の青もみじが素晴らしいです。
一階からの眺めですが、傾斜の関係でまるで二階から見下ろしているかのようです。



錦秋にはこの様にもみじが真っ赤に色付きます。
是非、秋にも訪ねてみたいお寺です。

真如寺ゆかりの人物には勧請開山・無学祖元や勧請開基・無外如大尼、真如寺第二世・夢窓疎石、高 師直、後水尾天皇などそうそうたる人たちが関係する由緒あるお寺です。





先代のご住職は長らく鹿苑寺の執事長や相国寺宗務総長を務められた方です。

また、金閣(舎利殿)が放火炎上した際に、鹿苑寺の僧侶として寺におられ"最後の生き証人"として知られていましたが、残念ながら令和3年(2021)11月に他界されました。











京料理 萬長「鱧づくし御膳」

2024年06月12日 07時52分00秒 | 日記
 6月9日のお昼は妙心寺北門前に店を構える京料理の老舗"萬長"さんで頂きました。

時間が押している事もあり、僕の車とタクシー2台で移動しました。

当時はタクシー1台の予定でしたが、頭がボケて来たのか?ジャンボタクシー以外は1台では無理ですね。









テーブル席もありますが、事前に予約していたので、小上がりの個室に案内されました。

萬長さんとは"ご縁"があり、以前にも事業所のマダム達を妙心寺にご案内した際にこちらで昼食を頂きました。



その時は名物の"つれづれ弁当"を頂きました。

また、以前の事業所に営業で来ていた方が立命館大学在学中、こちらでアルバイトをされていました。



今回は奮発して"鱧づくし御膳"を頂きました。

京都の夏には"鱧"は欠かせない食材のひとつです。
7月に旬を向かえる"鱧"は祇園祭にも縁が深く、京都の人は祇園祭を"鱧祭"とも別称する程に馴染んだ食材です。













湯引きから酢の物、天ぷら、丼までがまさに"鱧づくし"です。

出汁は日高昆布のひね2年もの、お米は新潟の契約農家からのコシヒカリを使われています。

約90年になる歴史を継ぐ2代目大将、奥様、そして大将のお母様がもてなして下さるアットホームなお店です。

参加して頂いた方にも満足して頂けたのではないでしょうか?

こうして鱧料理を頂くと、今から祇園祭が楽しみになりますね。

次に臨済宗大本山のひとつ相国寺の3ヶ所ある山外塔頭寺院の真如寺へと向かいます。
(ちなみにひとつは鹿苑寺金閣、もうひとつは慈照寺銀閣です。)





高台寺塔頭 岡林院 (第一回 「そう京」同窓会)

2024年06月11日 10時10分00秒 | 日記
 6月9日は昨年10月に終わってしまったJR東海「そうだ 京都、行こう。」の会員限定イベントの常連組?9名と通常非公開のお寺を2カ所を巡りました。

先ずは高台寺の塔頭寺院のひとつで、高台寺より創建が古い岡林院(おんりんいん)を訪ねました。




参道には"沙羅双樹"(日本では夏椿)の蕾が、、、







本堂に上がると眩いばかりの苔庭が広がります。
初めての方だったら"ねねの道沿いにこんな素晴らしい苔庭のお寺があったのか?"と驚かれる事でしょう。





2020年8月に惜しまれながら閉店された「草わらび餅が名物の「高台寺洛匠」さんの土地もかっては岡林院の境内地でした。

本堂に上がり、先ずは青山ご住職さまがお経をあげて頂きました。

と言うのも我々常連組のおひとりで2年前の6月11日に天国へと召されてしまわれたMさんの3回忌の法要を我々だけで営みました。

京都巡りや食べる事が大好きな方でホント朗らかな方でした。
そして、誰とでも親しくされる心優しい方でした。



(左側の方です。)

亡くなられた今も、我々を優しく見守ってくれていると思います。

ところで、岡林院について少しばかりの解説をします。

岡林院は臨済宗建仁寺派 高台寺塔頭寺院です。
ねねの道の入り口(元高台寺北門)すぐ東側の参道の奥にひっそりと佇む苔庭の名所であり、1608年久林元昌禅師によって創建されました。
現在残っている高台寺の塔頭の中では最も古い歴史を有しています。

現在の岡林院は江戸末の大火で焼失したものを明治時代になってから再建されたものです。









代々の建仁寺管長の隠居所とされて来た所以からか?本堂もお寺らしくはありません。









しばらく庭園に降りて新緑のもみじや苔庭の風情を堪能しました。









庭園内には四畳半の小間の茶室「忘知」があり、そこで呈茶を頂きました。
自然光だけの小間の茶室はホント心地がいいです。
(枕があれば昼寝をしたくなります。)

お菓子は建仁寺御用達の菓子司「松寿軒」のものです。



青山ご住職と娘さんがお見送りして下さいました。

次に昼食場所に移動します。



ザ・ヒルサイド神戸(安藤忠雄 初期の作品)

2024年06月10日 09時29分00秒 | 日記
 6月6日は神戸市灘区六甲台町にある"建築家・安藤忠雄氏設計の初期の名建築「ザ・ヒルサイド神戸」の解説付きで巡る −フレンチランチコース付き−"に参加しました。






六甲山の麓にあるブライダルを中核にパーティー会場や講演会場としても活用されています。

この建物は、数々の建築賞を受賞し、国内外で活躍されている建築家・安藤忠雄氏が建築界のノーベル賞とも言われる「ブリッカー賞」を受賞される前の昭和61年(1986)に設計・デザインされた初期の安藤作品の貴重な建物です。

安藤氏自身にとっても思い入れの深い建物だそうです。

安藤氏がいつも心に描いているのは、人々の心に生の感動をもたらす建築、ぬける“風”の情景、自然と共生しつつそこに住まう人間の意志を表現していく建築だと言います。

① ラウンジ








ラウンジは地元から産出される御影石が印象的で大きなソファが置かれたラグジュアリーな空間です。

② センターコート











センターコートはガラスの壁と大きなガラスで覆われ、中心には樹齢200年を超えるシンボルツリーの楠が広がっている開放感溢れる空間になっています。

③ チャペル











自然光が降り注ぐスタイリッシュなチャペルです。
夜には「100万ドルの夜景」とも称される神戸の夜景が楽しめます。

無機質なコンクリートの壁と対照的な一面に緑が広がるチャペル、ガラス張りのバージンブリッジ・・・

大きなガラス窓には十字架の意匠が施されています。
十字架の横が低くされているのは、建物横を通る人や車の往来を隠すように設計されている為です。

④ 食事会場












ブライダルの時にはオープンキッチンが併設されていて披露宴会場になります。
ライブ感を楽しみながら作りたての料理が提供されます。

窓からはシンボルツリーの楠がその存在感をたっぷりと示しています。
設計の段階では伐採する案もあったそうですが"あって良かった"と思える存在感があります。













ランチはフレンチです。

さすがブライダルをされているだけに、どの料理も洗練されていて見た目にも、味覚的にも満足するランチコースでした。

昭和61年(1986)の竣工から38年を経過した建物ですが今もなお斬新さを感じる名建築のひとつです。