油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

土に生きる。

2024-10-12 20:42:56 | 随筆
 こんにちは。ブロ友のみなさま。
 この日は久しぶりに暑かったですね。

 まるで夏の名残のようで、このところの草刈りに
よる身体の疲れか、ベッドに横たわったらいつのま
にか寝入ってしまい、ふと目覚めたら、おやつの時
間になっていました。

 寝ぼけまなこで、野良に出かける用意をしようと
階段を降りていく。

 考えだって定まらない。
 ええっとどこまで野良仕事をやっていたんだろう。

 あまりの稗(ひえ)の多さに、心底、どうしてい
のやらわからない。
 それが本当のところ。

 田んぼを観に行くたびに、イノシシがけもの道を
作っては、ぐるぐると走り回っている様子。

 どうやら、嬉しがって、稗を食しているらしいこ
とが知れる。

 それならそれで、彼らに食べたいだけ食べさせて、
冬場に枯れた稲を燃してしまうのが、ベターと思っ
たことでした。

 のみ、しらみ、馬のしとする枕もと
 どなたかの俳句にあったが、田んぼもこの句に見
えるような事態である。

 山からの獣たちが、ダニや寄生虫を運んでくる。
 こうあったかい日がつづいては、それらが大いに
繁殖してしまう。

 わたしはできるだけ素肌をあらわにしない服装で
野良仕事にはげんではいるがどうしても隙ができる。

 運のわるい場合、いのちにかかわるほどの感染症
におかされてしまうのである。

 ツツガムシとやらである。

 ダニにくわれた場合、むりやり、ひきはがさない
で、すぐさまお医者さまに診ていただくことだ。

 この日も、おやつとお茶をいただいてから、田ん
ぼに出た。

 思う、という字は、こころの上に田んぼとある。

 田んぼを見まわして、これからどのように耕そう
とか、どんな作物を育てようか。

 水稲なら、どんな段取りで育てていったらいいか。
 考えるべきことが山ほどある。

 ふとむかし昔のことを思い出した。
 「おめえよ。なにぼんやり突っ立ってるんよ。は
よ手伝わんとだめだんべ」
 義父の友だちだった、今は亡き福ちゃんの声がし
た気がした。

 段ボールを尻の下に敷き、右手に鎌を持って草刈
りをはじめた。
 稗は束になって生えている。
 もうすぐ実がこぼれるまでに育っている。

 そういえば稗もイネ科の仲間である。
 むかしの稲刈りの要領だと思い、水草やらの雑草
をとりのぞきながら稗のねもとをざくざくと刈った。

 どきどきは人が田んぼわきの小道を通る。
 「よお」
 「こんちは」
 若い頃からのわたしを知る人の声が、力強い応援
となる瞬間である。
  
 
 
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十月七日(月)くもり

2024-10-07 08:28:33 | 日記
 このあたり、きのう、おとといと神社のお祭
りでした。
 秋の風物詩ですね。

 ああ、それとね。
 「十三夜」が、今月十五日です。

 まだまだ昔からの習わしが残っています。

 その日は小学生たちは、教室で授業を受けて
いても、わらでっぽうのイベントが気がかり。

 どれくらいのお小遣いになるかな。

 わくわくどきどきです。

 学校がひけ、家に帰ると、さっそく持つもの
を持って公民館前にあつまります。

 それまでに、お年寄りの先生に、作り方をお
そわりながら、必死に、わらを細工し、地面を
たたくものを作りました。

 次は、面倒をみて下さる、育成会の大人の方
の指示を待って、さあ出発となります。

 お行儀よくぞろぞろと、各家の玄関先までやっ
てきては、
「米よし、麦よし、大豆も小豆もよく当たれ」
 かん高い声で唄います。
 
 「ほら、やっとくれ」
 家の主人の言葉が合図です。

 その言葉を待てないで、スタートを間違って
フライングしてしまう子もいますよ。

 「さあ、お駄賃だよ。ごくろうさま」
 りんごのほっぺの顔が、ぱっと輝く瞬間です。
 
 そうそう、この間の「ひえ」の話ですがね。
 試しに食べてみることにしました。
 
 燃してしまうのは惜しいと思うからです。
 白米にまぜて、食べよう。
 そんな気持ちになりました。

 縄文時代から食べられているそうで、コメよ
り栄養価が高い。

 憎たらしい。
 コメじゃなくて哀しい。

 そんな気持ちが、どこかに引っ込んでしまい
ました。

 さて、これから野良にでかけます。

 久しぶりの晴天になればいいな。
 そう思います。

 みなさまも、お元気で。 
  
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十月三日(木)くもり

2024-10-03 16:43:54 | 日記
 こんにちは、ブロ友のみなさま。
 ご心配をおかけしていて申し訳ありません。
 私はいたって元気にしておりますので、ご安心くださいね。
 朝早く起きて、野良に出かけようって気持ちになるのです
もの……。
 「神さま、ありがとうございます」
 毎朝そう念じています。
 体調がわるければ、ベッドに一日、ふせっているしかあり
ませんよね。

 いま、野良仕事でいちばんの悩みの種は、うちの一番広い
田んぼ一面にひえがはびこっていることです。
 粟とか、ひえ。
 そのひえ(稗)のことです。
 わたしの若い頃の塾生に、稗田(ひえだ)という生徒さんが
いました。

 今は米が主食。
 つい先ごろ、お店の棚に、コメ袋がなくなってしまい、あ
やうく米騒動が起こりそうでしたね。
 どうして今、そんな事態にたちいたったのでしょう。

 昭和の三十年代には、けっこう、大麦や小麦の生産が盛ん
でした。
 小麦粉で作った母さんの手料理。
 それらを目の前にして、子どもが生唾をのみこんだ時代で
した。
 食糧事情がとてもわるかった。
 現在のように、お店に行けば、なんだって手に入る、とい
うようなわけにはいきませんでした。

 家庭でのドーナツ作り。
 先ずは大きめのボールに小麦粉を入れる。
 水を入れながら、適度にねばるよう、こねていきます。
 「さあ、これくらいでいい。みんな手伝うんやで」
 「うん、しゃあない」
 この作業は小学生にはむずかしい。
 男ばかり三人のきょうだいで、長男のわたしのメンツが
かかっていましたが、わたしは不器用この上ない。
 形よく仕上がらなかった。

 「こんなんを揚げたら見栄えがわるうて。せやから、お前
がこのドーナツを食べるんよ」
 わたしは仕方なく、暗い顔をして、うんうんうなずいた
ものでした。
 小麦粉のおやつとしては蒸しパン、それにお好み焼きの
下地になりました。
 その粉のまたの名をメリケン粉って呼んでたのは、なぜ
だかわかりますか。

 関東ならもんじゃ焼きが人気。
 生まれが関西でしたし、庶民はたこ焼きを好んで食べま
した。
 今でも目をつむると、着物姿のおふくろがもみを取った
小麦を粉にひいていただこうと、小一時間くらいかかるお
店まで歩いて行くところが脳裏に浮かんできます。
 おふくろは弟が乗った乳母車を押している。
 二番目に生まれた赤ん坊が、砂利道で乗り心地がわるい
のか、ときどきえーんえーんと泣く。
 
 「大麦、小麦もよくあたれ」
 十三夜。
 今の時代、関東の初秋の風物です。
 わらでっぽうを地面にたたきつけながら、小学生の子ど
もたちが、農家の各家庭の玄関先で唄います。
 
 はてさて余談はこれくらいで、ひえをどんなふうに料理
しましょうか。

 むかし昔は、とりわけ先の大戦中には、コメは兵隊さん
の弁当に使われました。
 ですから、庶民は、コメを口にすることが、容易ではな
かった。
 さつまいもの葉っぱは言うにおよばず、つるまでも料っ
て口にしたそうです。

 「貧乏人は麦を食べなさい」
 わたしの子ども時代だったでしょうか。
 そうおっしゃった総理大臣が昔、おられたように記憶し
ています。
 すると、ひえ(稗)は麦以下。
 まずしい者の食べ物でしょう。

 あっ、だめだめ。
 いまだに余談ばかり……。

 新米がどんどん店先にならぶのにもかかわらず、値段は
あまり変わらない。
 かえって、高くなっていますね。

 この際、麦を食べようかな。
 そう思っても、はるか昔ほど供給されていないのが実情。
 きっとコメより値段がはるに違いありません。

 さてさて、話を脱線はこれくらいで。
 かなり前に、わたしが鳥かごの中の餌箱に入れた記憶が
あります。

 鳥が食べられるのなら、人だって。
 そう思い、いまさっき、ネットで調べてみました。
 イネ科のようで、コメ同様、食料になるようです。
 炊飯器でたけるらしい。
 腸にやさしいとあります。

 よしっ、それじゃと思いましたが、田んぼの草刈り中。
 ひえはあくまで、雑草あつかいです。
 食べるためには、ある程度、乾かしたりしなくてはな
らない。
 大量だから、器械に任さざるをえない。

 うえしろを人さまに頼んで、やっていただいたから、生
えるものは水草くらい。
 そう思っていたから、なんとも、はがゆい。

 夏が来て、どんどん、生育していく。
 種をつけるまでは水稲に似ていたので、なんか憎らしい。

 鎌で刈り取っているとき、これが米ならなとため息をつ
いてしまいました。

 ぽろぽろとひえ粒が地面にこぼれ落ちていく。
 その有様を観るのがつらい。
 来年はもっとひえが生える恐れがあります。

 冬場に燃すしかないな。
 きょうはそう思ったことでした。

 とりとめのない話で失礼しました。
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九月二十九日(日)くもり

2024-09-29 09:06:07 | 日記
 六時に起きて、庭先の縁台にすわった。
 突然わたしが歩いてきたのに驚いたのだろう。
 小さな茶色のかえるがぴょんぴょんはねた。

 家の裏が水田。
 春から夏にかけ、おたまじゃくしがすいぶん
と泳いでいた。

 かれらが今では成長し大人になったのだ。
 かように田舎は生き物が豊富で、朝から晩ま
でにぎやかなものである。

 稲の穂がこうべを深く垂れ、稲刈りを催促し
ている。

 ちょっと危険な田んぼ。
 猪よけの電気柵がまわりをかこんでいる。
 それでもかまわず、モミ食べたさに、果敢に
イノシシがつっこんでいるらしい。
 あちこちで、電線が垂れ下がっている。

 空はいまだ曇っていて、そよとした風もなし。
 とても涼しい。
 ゆうべは音立てて雨が降っていた。
 ひと雨ごとに秋がしのびよってくる気配あり。

 きのうは壬生のおもちゃの街をたずねた。
 大きな園芸店で、塾ののぼりを物色したが、お
目当てのものは見つからず、がっかり。

 通路を歩いていると、小学一年生くらいの女
の子が室内用の運動具で遊んでいる。
 足ふみベルトが動いている。
 その速さが尋常ではない。
 子どものこと、間違えて、設定してしまった
のだろう。

 「あぶないよ」
 声をかけるひまもない。
 彼女が片足をのせたとたん、勢いよく転んだ。
 ガンッ。
 はねるように小さな体が飛んだ。
 ほっそりした顔面を、したたかうちつけた。

 彼女はびっくりして、鼻の下を、ほっそりした
両手でおさえた。
 わたしをみて、目を丸くしている。

 わたしはあたりを見まわした。
 しかし、親らしき方はおられない。
 運よく、店の女性スタッフさんが通りかかった。

 「口もとをぶつけたようです。みてあげてくだ
さいね」
 わたしがそう頼むと、はい、と応えられ、
 「どうしたの。顔をぶつけたの」
 優しく尋ねられた。
 うれしかったのだろう。
 彼女の顔がパッと明るくなった。

 にこりともせぬじいちゃんが、訊ねないで良かっ
たなと、思った次第である。

 長年子どもを観てきた。
 やはり、どこに行っても、子どもが目に付くので
ある。
 
 
 
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せっせと草刈り。  (4)

2024-09-20 22:10:25 | 随筆
 一日休んで、きょうは草刈り。
 そう思い、起きがけにグラス一杯の水を飲もうと
台所に行った。

 ここ二十数年来の習慣である。
 これから動くぞ。
 そう、おのれの体にいいふくめることが出来るら
しい。

 寝起きの、まして高齢者の身体である。
 せかせかと動くと、ちょっとした危険がともなう
からである。

 野良着にきがえ、
 「田んぼに行くよ」
 と声をかけた。
 しかし、連れ合いは、見あたらない。

 「気をつけて」
 ようやく返事が耳にとどいた。

 玄関から向かいのガレージに向かった。
 鎌と砥石、それから一般ごみの入った袋を一輪車に
のっける必要があった。

 両手でハンドルを持ち、一歩二歩と歩き出したが、い
かんせん、からだが重い。

 「ちょっと体の調子がわるい」
 「きょうは休むといいよ。その年までがんばったんだ
から。あとは無理しないこと」
 「ああ……」

 わたしはばたばたと野良着を脱ぎ捨て、身軽になった
身体を、すぐさま、一階の居間のソファに横たえた。
 なんといったらいいか。
 まるで風船のごとく、からだから力が抜けだしていく。
 そんな気分になったのである。

 人間のからだは先ずは五十年。
 よほどのことがないかぎり、そのあたりまでは生き延
びることができるらしい。

 わたしは七十五歳であるから、もう二十五年おまけに
生きている勘定だ。

 あとは運しだい。
 どこかに弱点があれようなら、そこからこわれていく。

 それでも、医療の進歩はめざましく、かなりの部分を
カバーしてもらえるから、ありがたいことだ。

 わたしが生まれ育った家族は、総勢五人。 
 両親と子ども三人。すべて男ばかりだった。

 わたしは長男として生まれ、ふたつ離れて次男が、そ
して六つ離れて、三男とつづいた。
 今生きているのは、わたしひとりだ。

 次男は東日本大震災の起きた年の五月に亡くなった。
 三男が身まかったのは三年前の八月。

 次男は膵臓に悪性の腫瘍ができ、三男は片足の付け根
リンパが腫れた。

 「おれ、がんやね」
 宇都宮にデーラーで新車の商談をしている際に次男が
電話をよこした。

 わたしは一瞬、どう応じていいかわからず、
 「とにかくいま、子どもの車を選んでいる最中だから」
 そう答えるのが精いっぱいだった。

 早速、仕事の都合のついた一番下の子どもを連れ、実
家に見舞いに向かった。

 膵臓の場合、気づいた時には、腫瘍がかなり大きくなっ
ていて、
 「もう、どうしようもありません」
 となることが多い。

 しかし次男の場合、黄疸が出たり、蕁麻疹がでた。
 そのせいで、手術可能だった。

 胃をすべて切除してしまい、その後は不自由な生活をし
いられた。

 「両脚ならな。兄貴よ、良性だったんだがな。右足の付け
根のリンパにできものができてるってよ」
 三男は自分のことなのに、まるで他人事のようにしゃべっ
たが、さすがにショックを隠せなかった。
 顔色が暗く、声がしだいに小さくなってかすれた。

 ふたりとも六十代で鬼籍に入った。ちなみにふたりして、
愛煙家だった。

 ふた親は気力で、九十代まで生きた。
 はてさて、生まれて以来、ともに暮らした家族はすべてこ
の世の人ではない。

 おらは弟たちの分まで生きるぞ。
 そう思っている。 
 
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