油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

うぐいす塚伝  (11)

2022-02-20 21:53:27 | 小説
 馬場通りに平行に流れていた釜川の幅がし
だいに狭くなっていく。
 それにつれて、人の往来が間遠になった。
 突然、修は洋子の手をふりきり、急ぎ足に
なった。
 「あっ、にっ、にしはたさん、課長、どう
なさったんですか」
 「ちょっとね、やぼ用を思いだして。きみ
はね、ゆっくり、わたしのあとについて来る
といい」
 「でもそんなことおっしゃっても、あたし」
 たちまち、ふたりの間の距離が十メートル
くらいになった。
 修は道わきにある小さなポケットパークに
足を止めた。
 その上空をおおうように、一本の巨大なけ
やきが枝を広げている。
 幹の直径が二メートルはある。
 修は人形のように手足を折り曲げ、その木
の幹のかげに身をひそめた。
 洋子には、修が、突然、かくれんぼを始め
たように思われた。
 (何があったか知らないけれど、課長って
ひどい。まったく知らない場所で、わたしを
ひとりぼっちにしてしまうなんて……)
 洋子は心穏やかではない。
 今すぐにでも、家路につきたいと思ったが、
この辺りはまったく土地勘がない。どこをど
う歩いているかさえ判らなかった。
 洋子の視界のはじに、小さな赤い布切れの
ようなものが飛び込んできた。
 不出来な円柱の上に、それがのっている。
 それが石の地蔵さまとわかるのに、少し時
間がかかった。
 洋子は、にっこり笑った。
 幼い日、それによく似た地蔵さまを、学校
の行き帰りに見たことを思いだしたからだ。
 ふいに白い紙切れ状のものが、びっしり茶
色の木の葉がふりつもったお社の屋根の上を
ふわふわ舞うのが見えた。
 「うふっ、ちょうちょね」
 洋子は口の端に白い歯を見せると、お社に
向かい、そろそろと歩きだした。
 胸の高鳴りを感じる。
 もしも虫取りの網を手にしていたら、すぐ
にでも蝶を捕まえたかった。
 ちょうどその時、眼鏡をかけたひとりの中
年女性が婦人用の自転車にまたがり、ポケッ
トパークのわきの道を、釜川のずっと上流か
ら走って来る。
 誰だろうと、洋子は思った。
 件の蝶がお社の屋根にとまっているのに気
づいた洋子は、なんとかして、それをつかま
えようと右手をのばした。
 肩からつるしていたバッグから、左手だけ
で、器用にバッグの留め金を外す。
 長さが二十センチくらいの棒状のものを取
り出し、それをさっと広げた。
 扇子である。
 洋子はそれで、蝶の行くてをさえぎろうと
したが、その行為は徒労に終わった。
 ふいに吹きすぎていく風に乗り、蝶はビル
の谷間をひらひらと舞った。
 「ああっ、つまんない」
 少女のように肩を落とした洋子を、修はと
ても愛しいと感じた。 
 「とれなかったね。扇子まで使ってね。も
う少しだったのに残念」
 いつの間にか修が立ち上がり、洋子に向かっ
て白い歯を見せた。
 「今さっき通っていった女の人、きみ、見
おぼえがないかな」
 「ええ。ぜんぜん……」
 修は両の目をほそめ、
 「わたしの上司さ、ってことは、きみの上
司でもある」
 と言った。
 「じゃあ、あの方ね」
 修は黙った。
 いつの間にか、太陽がビルの谷間から姿を
消そうとしている。
 あたりが金色に輝きだした。
コメント (1)
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