油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

若がえる。  (5)

2024-01-07 20:11:24 | 小説
 Mの歳は六十三歳。
 ふるさとの町の公立中学校で英語教師とし
て働けるだけ働いた。
 それからのMは、あえて管理職の道には進
まず退職した。
 「あんたはおばかさんよ。お母さんの弟さ
んのように、なんとか校長まで昇進してから
やめれば良かった。そしたら、お金もうんと
違ったのに……。今じゃうちの経済は青色吐
息。学童のアルバイトなんてやるからよ」
 妻は、ある日の夕食どき、左手でテレビの
リモコンをいじり、右手で頬杖をついたまま
の姿勢でテレビの画面に視線を向け、そうつ
ぶやいた。
 風呂上がりのせいで、彼女の頭髪はくしゃ
くしゃ。頭をおおったタオルが垂れて彼女の
両の目を隠している。
 ときどき、彼女は鼻をすすった。 
 Mは、一度こうと言い出したら誰の意見も
受け入れない。
 「アホ言え。学生時代、みなと一緒になっ
て大学の先生たちをさんざんにつるし上げて
おいて、今さら、金欲しさに、自分の主義主
張を曲げるわけにはいかないね」
 「ふん、何よ。若いときの話じゃない、そ
れって。運動運動って、ああしてこうしてと
どのつまりはどうなったのよ。あんたの言う
理想の社会が建設できたの?」
 「なにを、今だっておれ、それなりにがん
ばってるぞ」
 それ以来、ふたりの生き方は平行線をたど
りだし、それぞれ別々に自分の好きな暮らし
をエンジョイするようになった。
 Mの妻は、同じ町に住んでいる実の妹に電
話しては旅行に出かける話でもちきりとなっ
ている。

 突然、Mは誰かにぶつかった。
 「あっ、すみません。ぼんやりしていたも
ので、ごめんなさい」
 ぶつかった拍子に転がったのだろう。
 若い女性が身体をふたつ折にして、ひまわ
り柄の頑丈なグリーンバッグを、必死で拾い
あげている。
 Mは、あっと声を上げた。
 初め、彼女が誰か、判らずにいた。
 「いやですわ。わたしがわからないなんて。
そんなお歳に見えないですけれど」
 Mの脳裏に、徐々に、彼女の正体が明らか
になってきた。
 「ご、ごめん。ぼんやりと考え事をしてい
たもので」
 「たぶんそうかなって思いましたから、あ
なたが追い付いてこられるまで、ここでお待
ちしていました」
 「ほんと、失礼しました」
 ふいにMの腹が鳴った。
 新幹線の鈍行列車の到着時刻が、正午をゆ
うにまわっていた。
 ふたりとも昼食が充分ではない。
 「もし良かったら、どこかで食事しません
か。いやね、それほど値の高いものはごちそ
うして差し上げられませんが」
 「いいんですの。でもごちそうになります。
実はわたしだって、おなかがグウグウなんで
すわ」
 彼女はそう言って、白い歯を見せた。
 「どこがいいでしょうね。若い方の好みは
わからないので。率直に話してもらうと助か
ります」
 「パンでいいです。いつも立ち寄るお店が
あるので」
 「じゃあ、そうしましょう」
 「大丸東京の中にありましてね。途中、込
み合います。迷子にならないようにしてくだ
さいね」
 「はい」
 Mは、子どものように返事をした。
 内心、Mはほっとしていた。
 女子学生と差し向かいで食事をとるのは初
めての経験だったからである。
 

    
コメント (1)
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