油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

若がえる。  (6)

2024-01-15 20:25:51 | 小説
 あと三分もすれば、長野行き特急あずさが
入線してくる。
 (もうすぐ東口と西口がひとつの通路で結
ばれるらしい……、まったく変われば変わる
もんだな)
 Mは新宿駅のあまりの変わりように戸惑い
ながらも、四十数年前を想い起していた。
 確かホーム上を風が通り過ぎていて、冬場
なんぞ寒くて寒くて、ああそうそうこんなこ
ともあったぞ。不意打ちのようにガンッと誰
かに後頭部をなぐられた。くそっと誰なんだ
と思って振りむくと、目の前にスキーをかか
え、驚きで目をみはっている女子学生の顔が
あった。すみませんの言葉も彼女の口から出
なかった。余程びっくりしたのだろう。
 急にMの腹が痛みを伴いながらギュルギュ
ル鳴り出した。思わずMは腹の辺りを、左手
で服の上からさすった。
 馴れない一人旅がたたったのだろう。ポー
ルボキュウズとかいう、舌を噛みそうな名店
で、件の女子学生が勧めるパンをよく噛みも
しないで、冷たいコーヒーとともに胃の中に
流し込んだのがいけなかった。
 Mは苦笑いを浮かべた。
 「おじさま、少し、お顔の色がわるいです
わ。大丈夫ですか」
 Mのひとつ前に立って列車を待っていた件
の女子学生が振り向いて言った。
 肩から下げたバッグの中から、パンの入っ
た袋のふちがはみだしている。
 久しぶりにお気に入りのパンを手に入れて
彼女はうれしそうだ。
 (若い娘にたびたび声をかけられたり、付
き合ってもらったりして互いにいい気持ちで
いるのに、おれ特有の体調のわるさでミソを
つけるわけにはいかないやおまへんか)
 Mはなんとかこの失態をのりこえるにはど
うしたらいいかと思案。
 「ああまあね。いやいや大丈夫、それほど
じゃない。心配かけてすまんすまん。ちょっ
とおなかがね。ほら、もうすぐ列車が入って
来よるし、そうしたら落ち着くと思う……」
 「ごめんなさい。わたしがお誘いしたばっ
かりに具合がわるくなって……」
 彼女は視線をホームの床に落とした。涙ぐ
んでいるのか、空いている左手の指で目のあ
たりをしきりにぬぐう。
 そのしぐさがなんともいじらしく、Mには
思える。
 「ほんまに大丈夫なんやで、わるいねせっ
かくの一人旅なのに、こんなおじさんがあん
たの気分をぶちこわしてしもうて」
 唐突にMが放った関西弁に、彼女はいやな
顔ひとつ見せない。
 おもむろに顔をあげると、ふわりと顔にふ
りかかった黒髪を細い左手でかきあげた。
 「ああ、おじさまが面白くて正直な方で本
当に良かった。もっと怖い人だと思いました
わ。わたしはね、もっと西の方、福岡から来
てますのよ」
 Mはもう一言、この場にふさわしい言葉を
彼女に投げかけようと試みたが、ホームに構
内放送の男の声がひびき渡った。入線して来
る列車の車輪のきしむ音が大きくなった。
 「長らくお待たせしました。間もなく列車
が入ります。どなたさまも一歩下がってお待
ちください」
 Mはため息をひとつ、ふうっと吐いた。
 自分も相手も傷つかないで済ます方法。そ
れを中卒だけで社会に出て苦労し、少し前に
急逝した弟Kからおそわったことを思い出し
ていた。
 列車の扉が開くと、客たちが勇んで車両に
乗り込んで行く。
 Mはひとり、ぼんやりとホームに残された。
「おじさま、早くいらして。列車が出てしま
いますよ」
 彼女がデッキで手を振っている。
 「ああ、いま行くよ」
 乗客たちは、さっさとそれぞれの座席に着
いていく。
 静かになった車内。
 Mはゆっくりと自分の座席についた。
 彼女の座席はMのすぐ前。思う存分、景色
を楽しめる窓際である。
 「普通の列車で、いいんです」
 と、彼女はいったんは断った。
「おじさんの思うようにさせてほしい。あな
たがいてくれて、とても助かってるんだ。こ
れも何かの縁だしね」
 Mのたっての願いに、彼女は了承した。
 自分も娘をふたり授かっている。
 男ばかり三人の中で育った若い時代とは違
い、年老いた今では少しは女の子の気持ちが
わかるようになった。また、そうでなきゃこ
ころざし半ばで亡くなった、あの人に申しわ
けが立たないと思う。
 列車が動きだした。
 Mはそっと目を閉じた。
 目的地に近づけば近づくほど、Mの追憶の
念がますます深く、濃密になりそうな気配が
した。
  
  
 
 
 
 
 
 
 
コメント
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