油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

若がえる。  (9)

2024-01-26 08:57:17 | 小説
 入線してきた車両の側面に機関車トーマスの絵が
いくつも描かれている。
 色彩も豊かである。
 「時代の流れかな。ねえ、B子さん」
 大月駅で出会った友人らしい女性としばらく立ち
話している彼女にMは遠慮がちに言葉を投げかけた。
 彼女は五六メートル先、Mの言葉が届いたかどう
かわからない。
 Mの存在が、まだ彼女の眼中にあったらしく、笑
顔で近づいてくる。
 彼女の友人も一緒だ。
 「何ですの、おじさま。なにか面白いものでも?」
 「うん?なにね、この漫画がね、めずらしくてね」
 「ああ、これ、もうずっと前からですよ。こんなの
でびっくりなさってたら、どうお感じになられるでしょ
うね。T市もすっかり変わりましてよ」
 B子との縁もこれまでだろうか。
 次から次へと彼女の存在に気づいた女性がかけつけ
てきて、たちまち彼女はかしましい女たちの話の輪の
中に引きこまれてしまった。
 「おじさま、先ずはごきげんよう。もうしばらくご
滞在されるのでしょう」
 「うん、二三日はね」
 「あっそうそう、あなたって、携帯持ってる?」
 「訊きたいことがあったら気楽に訊けるのはあなた
くらいだから……」
 Mはだめでもとこと、勇気を出した。
 B子は一瞬顔をしかめたがすぐに笑顔を取り戻した。
 「何してるのよB子、この方、あなたのお父さま?」
 その友に衣服の袖を引っ張られ、B子はMから遠ざかっ
ていく。
 (どうやら自分は不審人物と間違えられているらしい。
やれやれ、馴れないことはするものじゃなかった……)
 駅の構内放送が、列車が今すぐの発車を告げた。
 すべての扉が音立てて開いた。
 しかたなくMは、最寄りのドアから車内に乗り込んだ。
 日本一の山の裾までずっとなだらかな坂になっている。
 列車は力強くのぼりだした。
 線路近くまで迫ってきていた山が次第に離れていく。
 昔の想い出をたぐろうと、Mはずっとドア近くに立っ
ていることにした。
 手荷物は棚にのせた。
 ぐるりと首をまわすが、別の車両に乗り込んだようで、
B子の居場所はわからない。
 急に不安が押し寄せてきて、Mは上着のポケットにし
のばせていた携帯に手をのばした。
 着信があった。Mの娘からだった。
 「お父さん、くれぐれも気をつけてくださいね。今の
子たちはお父さんの考えているような人たちじゃありま
せんから」
 文尾に笑顔マークが付いている。
 それを見て、Mはいっとき、安らかな気持ちを取り戻
すことができた。
 「ありがとう」
 と返したら、すぐに、
 「笑顔で帰ってきて。さもないとあたし許さない」
 「うん、わかった」
 (気を遣う娘で良かった、自分の娘にしては出来過ぎ
ている。それにしてもかみさんは……、まあしかたない)
 ふいに誰かに肩をたたかれた。
 「ごめんなさい。友達と会ってしまいましたから」
 「とんでもない。おじさんのことはいいんだよ。きみ
にはきみの生活があるんだからね。がんばって」
 「携帯を持ってらっしゃるのね。ええっとおじさまの
携帯番号はおいくつ?」
 MはこれこれとB子に教えるとすぐに、彼女はほっそ
りした白い指先をすばやく動かしはじめた。
 Mの携帯がブウブウ鳴り出すのに時間がかからない。
 「それがわたしの番号です。お訊きになりたいことが
あったら遠慮なくどうぞ」
 意外なことの成り行きに、Mのこころにかかりだした
暗雲がすばやく流れ去った。
 心配するな、のメールを、娘に送ろうとしたが、それ
だけするのにも、ずいぶん暇がかかってしまう。
 「奥さま、それとも子どもさん?」
 「うん、娘がいるんだ。もっともアラサーだけど」
 「うふふ」
 と、B子がそばで笑った。

 

 
 
 
コメント (1)
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