油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

まさかの出来事。

2024-03-11 17:12:55 | 随筆
 こんにちは。
 ブロ友のみなさん。
 あれから13年目ですね。

 未曽有の大震災の犠牲になられた方々の御霊に
改めて鎮魂の祈りを捧げます。

 大地震や巨大津波から運よく生きのびた方々に
まさかの原発建屋の水素爆発がつづきました。

 放射能に汚染された物質が、四方八方に吹き飛
ばされ、風の吹くまま拡散して行きました。

 それらは雲となって、わたしの住む栃木県の北
の山なみから日光連山までをおおいつくしたこと
です。

 我が町の山間部の小学校の運動場の土の入れ替
えをしなくてはならないほどの被害でした。

 山々を除染することなどできない相談でそこに
住む動植物にどれくらいの影響があったかなど知
るすべはありません。
 放射能が半減するのにかかる時間はどれくらい
でしょう。

 福島原発の建屋内部に残っている、燃え残りの
放射性物質をすべて、取り除くのに一体どれくら
いの月日が要るのでしょう。
 非常に危険をともなう仕事だけに、容易ではあ
りませんね。

 わたしたちはひとりひとり、このことを再認識
する必要があるように思われます。

 東日本大震災の発生直後、経済活動が沈滞しま
した。
 あちらでもこちらでも、涙、涙。
 テレビによる営利目的の宣伝活動が自粛された
りしましたね。

 世の中全体がまるで通夜のようで、わたしなど
しばらくブログを書くのをためらいました。

 我が町は、あのとき、震度六強の地震におそわ
れました。
 わたしは自宅の二階の部屋で、ちょうどパソコ
ンをいじっていた時でした。

 一階の台所。
 その食器棚から瀬戸ものやガラス類が音立てて
床にすべり落ちていきました。
 がちゃんがちゃんと割れる音を今でも、忘れる
ことができません。

 わたしは、結局、一度、二度そして三度の大揺
れが収まるまで、身動きできないでいました。
 パソコンが倒れないよう、右手で、しっかりと
おさえていることしかできなかった。

 被害の実態はテレビで、生々しく映し出されま
した。
 恐ろしいとしか言えない映像のかずかずを、固
唾をのんで眺めたことです。

 「原発の爆発がなかったら、住み慣れたふるさ
とをあとにすることはなかった」
 我が家のとなりがたまたま空き家になっていて、
そこに引っ越して来られた老夫婦の嘆きはいかば
かりでしょう。
 故郷は宮城県の南三陸町とうかがっております。

 悲しみがどれくらい深いでしょう。

 被害の当事者である、ないにかかわらず、千年
に一度という大地震を体験した人間として、いま
何をなすべきでしょう。

 宇宙の深遠さは言うに及ばす、わが地球のこと
さえ、わたしたちはまだまだ予測不能なのです。
 
 景気が少し良くなったくらいで、喜んでおられ
る場合ではないように思われます。

 人間も自然の一部です。
 どんな形かで、地球とつながっているかもしれ
ません。

 真善美を大事に生きること。
 大いなるものに対して、ありがとうの気持ちを、
忘れない。

 いつも謙虚な態度でいることが、何よりのよう
にわたしには思われます。
 
 
コメント (2)
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