油屋種吉の独り言

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うぐいす塚伝  (16)

2022-03-29 19:43:08 | 小説
 「ずいぶん長くお手洗いに入っていらしゃる
こと、他の方にご迷惑がかかるじゃありません
こと?」
 ひとりの中年女が今はやりの薄茶のキャップ
をまぶかにかぶり、うつむいたままでいった。
 声に憶えがある。
 「はあ、どうもすみません。どこかでお目に
かかったでしょうか」
 「さあ、どうでしょうね。そんなこと別にい
いじゃありませんこと、それより、あなたとご
一緒なさっていた女性が気がかりじゃありませ
んか」
 女が首をひねった拍子に、彼女が眼鏡をかけ
ていることに、修は気づいた。
 「あっ、ぶ、部長、大塚さんじゃないですか」
 「ええ、まあね、このバー、あたしのお気に
入りなもので。まさかもまさか、西端課長が来
られるとは思いませんでしたわ。それも新入社
員の根本さんとご一緒にね……」
 「それには、ちょっと事情がありまして」
 「そうでしょうとも。ちゃんとした理由がな
くって、まさかこんなところに部下を誘わない
でしょうから」
 「はい」
 いつまでも、トイレの前でおしくらまんじゅ
うをしているわけにはいかない。
 ジャズバーの営業が終えるとあって、幾人か
の人たちが大塚の向こうにならび出した。
 「話だったたらほかでもできるだろ。おれた
ち忙しいんだ」
 ひとりの男が怒鳴った。
 「すみません」
 修が消え入りそうな声でいい、背広の袖をつ
かんでひっぱる大塚に従う。
 修がマスターの方を向き、両手を合わせてか
らぺこりと頭をさげた。
 マスターが承知とばかりに、うんうんと首を
振った。
 開け放ってあるドアから、外に出た。
 とたんに湿り気のある温かい空気が、修の顔
をなでる。
 急に明かりを失くしたせいだろう。
 修は一瞬、目が見えなくなった気がした。
 「私は自転車で来たわよ。あなたはどうする
どうやって帰るの?」
 ソメイヨシノの古木の向こうに姿を消しなが
ら、大塚啓子が声をひそめる。
 妙に生々しい。
 修はぶるっと体をふるわせ、
 「おれ、ですか。おれはぶらぶら、歩いて帰
ります。大塚部長、気をつけてくださいね」
 「気を付けろって?私は大丈夫よ。私を気に
するようなやつはいないでしょうから。心配な
ら送ってくださらない」
 「そうはいっても、夜道は危ないし、私でい
いならお送りしますよ」
 修は心中、穏やかではない。
 啓子がイエスといったら、困るなと思う。
 (根本洋子にせよ、大塚啓子にせよ、なんだ
かどこか変だ。ひょっとしてさくらの妖精がふ
たりにとりついたのかもしれない)
 修はそう思い、夜空を見あげた。
 ビルの谷間に、灰色の雲におおわれた月が浮
かぶ。所々に設置してある街灯だけが、修と啓
子を照らしだしている。
 「ええ、お願い」
 啓子の意外な返事に、修はとまどう。
 ガチャンとスタンドが外れる音がして、啓子
が明かりの下にあらわれた。
 ふいに雲がとぎれ、煌々とした光がビルの谷
間にさしこみ始めた。
 釜川の向こう岸に、小公園がある。
 藤棚の下のベンチにひとりの若い女がすわっ
ている。
 突然、彼女が後ろ向きになり、修と啓子の様
子をうかがう素振りを見せた。
 彼女の瞳がきらりと光る。 

  
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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1 コメント

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Unknown (sunnylake279)
2022-03-30 14:19:41
こんにちは。
大塚部長と修の会話が、耳に聞こえるようでした。
洋子がどうなったのか気になりました。
大塚部長が修に送ってほしいと言ったのが意外でした。
桜の妖精のせいって思うのが、ちょっと素敵です。
そして今度は別の女性が登場ですね。
続きが楽しみです。
いつもありがとうございます。
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