用を足すのだろう。
鹿人は粗末な着物の前をはだけたまま、今
さっきのぼってきたばかりのけもの道にもどっ
て行く。
そのしぐさがなんとも子どもっぽく、思わ
ず田崎宇一はにやりと笑ってしまった。
久しぶりの笑顔。
それはまるで梅雨の晴れ間を明るく照らす
陽射しのようで、宇一の沈み切った気持ちを
ほんのつかの間明るいものにした。
山の頂上にほんの、宇一はひとり。
平安の御世にスリップしてしまったような
ことの成り行きに、宇一は面食らっているが、
実際は竹林の中に長い間生息する年老いた狐
に化かされているだけなのかもしれない。
とにかく、K市には何かある。
千数百年におよぶ時間のなかで、あまりに
多くの人がうらみつらみをかかえたまま、あ
の世に旅立った。
人は死しても、何かが残ると思う。
見えないものの力は強力で、折に触れ、こ
の世に生きる人を迷わせる。
宇一はそんなふうに思い、ふと、ここK市
にほど近いところで、昔あった男の子虐殺事
件を思い出した。
(お堂で、お坊さまが無残な殺され方をし
たが、あの事件の犯人もまた、人間の皮をか
ぶった鬼畜のたぐいだったのかも・・・)
ともあれ、長く生き過ぎ、妖術をつかうま
でになった狐の所業にしては、宇一が今見て
いる景色は生き生きとして陰影が濃い。
まぼろしでないことだけは確かである。
宇一は思わず真向かいの山に向かい、ヤッ
ホーと大声を出した。
かすかに木霊が返って来るのを耳にし、宇
一はさばさばした気持ちになった。
(死ぬのはいつだってできる。この先どうな
るかわからないがとことんあいつに付き合っ
てみよう)
宇一はそう思い、改めて、田崎一族とつな
がりがあるらしい墓地をふり返った。
光の加減か、墓地が暗い。
よく見ると、葉を枝一面にいっぱいにした
楠の巨木が墓全体をおおっている。
その影響だろう。
墓石のひとつひとつが、さっき見た時より
色が黒っぽく、あと少しで、雑多な苔が石の
ほとんどの部分をおおい尽くそうとしていた。
空腹と疲労でゆっくりとしか歩けない宇一
は、自分自身とつながりのありそうな墓石を
求めてさまよい歩いた。
手掛かりになりそうなものは、すぐには見
あたらない。
宇一は墓石に生えた苔を落としながら、石
に刻まれた文字を読み取ろうとした。
何やら奇妙な絵が刻まれている墓石を発見
したとき、宇一はひらめきを感じた。
それは人の顔に似ていた。
しかし、頭の上につのが二本。
まるで「こわもて」のようだ。
この人は、生前、よほど能か狂言に精通し
たものと推測された。
「待った?おにいちゃん、ごめん。おかげ
さまでね。あああ、すっきりした」
誰に対してもえんりょえしゃくのない、野
性人らしいもの言いで、鹿人は宇一に声をか
けてきた。
「あれ、そんなところにどでかいお墓があっ
たんだね。ぼくは全然気づかなかった」
ばかなことを、お前がおれをここまで案内
したんじゃないか、それも妖艶な姿をしたと
きのと平山ゆかりの声で、と反論したかった
が鹿人は何かに憑依されている。
宇一はそれには応えず、黙ったままでいる
ことにした。
「ああ、なんておいしい空気なんだろ。ご
たごたした人込みの中へなんてもう帰りたく
ないな。でも、おにいちゃんがいるからさ。
占い師さんのもとに、ちゃんとおにいちゃん
をとどけなくっちゃ。それじゃ行くよ。遅れ
ないでついてきてね」
田崎家とゆかりのあるこの墓地へ行くため
だろう。
山の反対側の斜面に、きちんとした道が造
られてあった。
宇一と鹿人少年は、細いつづら折りの道を
ゆっくりと下って行った。
途中山の泉を発見してからは、それを水源
とする渓流沿いを歩いた。
どれくらい歩いたろう。
川幅が一気にひろがると、そこを行きかう
船がひとつふたつと増えた。
K市で見た大川じゃないなと、宇一は歩き
ながら思う。
宇一と鹿人は、いつかのように、大川沿い
をとぼとぼと歩いた。
「ちょっと休んで行かないかい?おれ、も
うしんそこ疲れてしまったよ」
宇一は率直に言う。
「そうだよね。もうかなり歩いたもの。お
れだってほんとうはそうさ」
鹿人も宇一に同調した。
人目に付かないところがいいと、ふたりは
密集した葦のあいだに寝ころんだ。
いつの間にか、ふたりしていびきをかきは
じめた。
どのくらい時間が経っただろう。
宇一が目を覚ましたとき、わきで眠ってい
たはずの鹿人がいなかった。
もはや、宇一は驚かなかったが、ふいにあっ
と声をあげ、ポケットというポケットをまさ
ぐった。
どのポケットにも、もともと金目の物が入っ
ていなかったのを、宇一は確認し、にこりと
した。
宇一は気を取りなおすと、ようやく若草の
生えはじめた土手をのぼった。
そして、土手近くまで、小さなあばら家が
いくつも寄り集まっているのに気づくと、あっ
と声をあげた。
鶏や犬の鳴き声が聞こえる。
(この集落には明らかに人が住んでいる)
そう思った宇一は最寄りの人家めざし、土
手を勇んでかけおりた。
鹿人は粗末な着物の前をはだけたまま、今
さっきのぼってきたばかりのけもの道にもどっ
て行く。
そのしぐさがなんとも子どもっぽく、思わ
ず田崎宇一はにやりと笑ってしまった。
久しぶりの笑顔。
それはまるで梅雨の晴れ間を明るく照らす
陽射しのようで、宇一の沈み切った気持ちを
ほんのつかの間明るいものにした。
山の頂上にほんの、宇一はひとり。
平安の御世にスリップしてしまったような
ことの成り行きに、宇一は面食らっているが、
実際は竹林の中に長い間生息する年老いた狐
に化かされているだけなのかもしれない。
とにかく、K市には何かある。
千数百年におよぶ時間のなかで、あまりに
多くの人がうらみつらみをかかえたまま、あ
の世に旅立った。
人は死しても、何かが残ると思う。
見えないものの力は強力で、折に触れ、こ
の世に生きる人を迷わせる。
宇一はそんなふうに思い、ふと、ここK市
にほど近いところで、昔あった男の子虐殺事
件を思い出した。
(お堂で、お坊さまが無残な殺され方をし
たが、あの事件の犯人もまた、人間の皮をか
ぶった鬼畜のたぐいだったのかも・・・)
ともあれ、長く生き過ぎ、妖術をつかうま
でになった狐の所業にしては、宇一が今見て
いる景色は生き生きとして陰影が濃い。
まぼろしでないことだけは確かである。
宇一は思わず真向かいの山に向かい、ヤッ
ホーと大声を出した。
かすかに木霊が返って来るのを耳にし、宇
一はさばさばした気持ちになった。
(死ぬのはいつだってできる。この先どうな
るかわからないがとことんあいつに付き合っ
てみよう)
宇一はそう思い、改めて、田崎一族とつな
がりがあるらしい墓地をふり返った。
光の加減か、墓地が暗い。
よく見ると、葉を枝一面にいっぱいにした
楠の巨木が墓全体をおおっている。
その影響だろう。
墓石のひとつひとつが、さっき見た時より
色が黒っぽく、あと少しで、雑多な苔が石の
ほとんどの部分をおおい尽くそうとしていた。
空腹と疲労でゆっくりとしか歩けない宇一
は、自分自身とつながりのありそうな墓石を
求めてさまよい歩いた。
手掛かりになりそうなものは、すぐには見
あたらない。
宇一は墓石に生えた苔を落としながら、石
に刻まれた文字を読み取ろうとした。
何やら奇妙な絵が刻まれている墓石を発見
したとき、宇一はひらめきを感じた。
それは人の顔に似ていた。
しかし、頭の上につのが二本。
まるで「こわもて」のようだ。
この人は、生前、よほど能か狂言に精通し
たものと推測された。
「待った?おにいちゃん、ごめん。おかげ
さまでね。あああ、すっきりした」
誰に対してもえんりょえしゃくのない、野
性人らしいもの言いで、鹿人は宇一に声をか
けてきた。
「あれ、そんなところにどでかいお墓があっ
たんだね。ぼくは全然気づかなかった」
ばかなことを、お前がおれをここまで案内
したんじゃないか、それも妖艶な姿をしたと
きのと平山ゆかりの声で、と反論したかった
が鹿人は何かに憑依されている。
宇一はそれには応えず、黙ったままでいる
ことにした。
「ああ、なんておいしい空気なんだろ。ご
たごたした人込みの中へなんてもう帰りたく
ないな。でも、おにいちゃんがいるからさ。
占い師さんのもとに、ちゃんとおにいちゃん
をとどけなくっちゃ。それじゃ行くよ。遅れ
ないでついてきてね」
田崎家とゆかりのあるこの墓地へ行くため
だろう。
山の反対側の斜面に、きちんとした道が造
られてあった。
宇一と鹿人少年は、細いつづら折りの道を
ゆっくりと下って行った。
途中山の泉を発見してからは、それを水源
とする渓流沿いを歩いた。
どれくらい歩いたろう。
川幅が一気にひろがると、そこを行きかう
船がひとつふたつと増えた。
K市で見た大川じゃないなと、宇一は歩き
ながら思う。
宇一と鹿人は、いつかのように、大川沿い
をとぼとぼと歩いた。
「ちょっと休んで行かないかい?おれ、も
うしんそこ疲れてしまったよ」
宇一は率直に言う。
「そうだよね。もうかなり歩いたもの。お
れだってほんとうはそうさ」
鹿人も宇一に同調した。
人目に付かないところがいいと、ふたりは
密集した葦のあいだに寝ころんだ。
いつの間にか、ふたりしていびきをかきは
じめた。
どのくらい時間が経っただろう。
宇一が目を覚ましたとき、わきで眠ってい
たはずの鹿人がいなかった。
もはや、宇一は驚かなかったが、ふいにあっ
と声をあげ、ポケットというポケットをまさ
ぐった。
どのポケットにも、もともと金目の物が入っ
ていなかったのを、宇一は確認し、にこりと
した。
宇一は気を取りなおすと、ようやく若草の
生えはじめた土手をのぼった。
そして、土手近くまで、小さなあばら家が
いくつも寄り集まっているのに気づくと、あっ
と声をあげた。
鶏や犬の鳴き声が聞こえる。
(この集落には明らかに人が住んでいる)
そう思った宇一は最寄りの人家めざし、土
手を勇んでかけおりた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます