「うぜー」・・・鬱陶(うっとう)しい
「へたれ」・・・根性(こんじょう)なし
「じこまん」・・自己満足
「でぶす」・・・デブで、ブス
「うざってー」・うるさい
「まじぎれ」・・本当に怒ってる
「きもい」・・・気持ち悪い
「むかつく」・・・腹が立つ
「エーッ! ウッソー マジ? ホント!」・・・間投詞(感動詞)の集合
こういう言葉を、「あばずれ語」と、命名した人がいる。
言いえて妙 ! もう、思考停止の何者でもない。持続的思考が不得手。
再近、若い人と話す機会があるたびに、「言葉・・・日本語」について、
話しているわ。このあばずれ語と命名した人は、
「内的言語の貧困によって、持続的思考が困難になったため、感嘆符や
疑問符付きの間投詞だらけになってしまう。
思考力の退化は、人類のサル化の始まりかも知れない。放置すれば、国語は
ただの叫び声の集合にすぎなくなる」
って。同じ危惧を抱きつづけている私は、くいるように読み、同感したのよ。
新聞の番組欄を見ると、すでにもうその域に入ってるわね。
「どぎつさ」と「叫び」の表題でしょう。 だから、TVはなるべく見ない!
若いお友達がいっぱいいる私だけど、10代(いるのよ~~!)の人の言葉には、ちょっ
と微苦笑が混じる程度だけど、20代、ましてや30代、それ以上の人達の、特に女性
達の言葉の中に、以上のような言葉が一つでも混じったら、もう、す~~~~っと、気
持ちが萎えて離れてしまうのよ。
そして、会話で「~だよ」で〆る女性もね。こちらは、いい大人達も、大勢ね。
「ああ、この子(人)もこの程度の子(人)なのね」って、寂しい気持ちでね。本当に
寂しい!
「~だよ」で、〆る話方しかしない女の人とは、会わないようにしているわ。何かが濁っ
てるようで、嫌なのよね。
若者言葉にすりよる大人、と言うより、た~だ年長というだけの人達。 若さへの異常な
しがみつきに、そら恐ろしい気がするのよ。成熟を拒否してる中途半端な人達。
感動詞が
「かっわいい~~!」「でしょう?」
気持ち悪い、の何者でもない。どう見ても可愛くないお年頃の女性達が、追い求めるそれ!
可愛いには、「純粋」と「無垢」が存在しなきゃならないのに。
いつの時代も、そう私達の時代も。必ずその時代の、肩をいからせた、大人達への挑戦があっ
たし、仲間意識の共有があったわ。あくまでも一過性のものが。けれども、私達のまわりにい
た大人達は、「貧すれば鈍する」や「人生意気に通ず」あるいは、「品性」なんて言葉を持っ
ていたし、決して譲らない、背筋を伸ばした、信念を持っていたからねぇ。今にして思えば、
そんな親の、人生観や、我が子に向かう姿勢が、子どもの生き方に、どれほど大きな影響を与
えたか、わかるのよね。 その影響かどうか定かではないけれど、かつての私は、見たり聞い
たりの限りでは、その仲間には加わらなかったわ。大人達への挑戦状は、心の中へ秘めて。
「付和雷同」を、軽蔑してた女の子だったからね。
「フン、そんな安い人間じゃぁない!」
「誰かに操られるほどのバカじゃあない。絶対にそうはならない!」
って、恐ろしいほどの信念でいたものよ。そうねえ、14~5才くらいだったかしら。
「誇りの塊」みたいだったわね。皆と同じが大っ嫌いだった女の子よ。
長じて、人の子の親となって、吐く言葉はいつも
「烏合の衆となるなかれ!」
「とかくめだかは群れたがる」
「龍尾たるより鶏頭たれ!」
なんてね。噛み砕いてなんか言わない。
息子達が覚えてるかどうか、知らないけれど。
青春真っ只中は、悩みまくって、もがいてもいたけれど、「みんなと同じ」では、その迷路から
抜け出せるなんては、思わなかったし、そこに居る自分を想像する事すら、いとわしいものだっ
たのよ。
だから、今頃の若者の状況を見ていると、
「安売りしないで~~!!」
って、叫ばずには居られないほどの焦燥感を持つのよ。
なぜ、志を高く掲げないの?って。
「そのへんの大人達なんか」
って、思っているなら、なぜ、そのへんの大人達が瞠目するほど、美しい言葉を遣わないの?
「うっせえんだよ!」の代わりに、
「あのー、失礼とは思うのですけれど、もう少し静かにしていただけないでしょうか?」とか、
「干渉は、ご勘弁を!」くらい言って、大人達の度肝を抜いて欲しい!
嫌でも年は取るのよ。これは美醜やお金持ちか貧乏かに関係なくね。さあ、どうするの?
汚いあばずれ語を駆使する大人、年食っただけの大人になるの?食後にその場でお化粧直しを
へいきでするような、それこそ軽蔑してた同じ大人になるの?
「類は類を呼ぶ」同じ仲間と「ねえ」「ねえ」って、同じ穴の狢(むじな)に?
どうぞ、自分の夫を「だんな」なんて平気で言う大人にはならないでね。アレは花柳界あるいは
商家の、又は 下町の言葉。ごく普通の堅気(かたぎ)の女が遣う言葉ではない事を知って欲しい。
言葉が乱れると、立ち居振舞いも崩れ易いのよ。
みんな、誰でも、心から褒めて欲しいし、尊敬されたいのよ。ウッソー!?だって?
いいえ、嘘じゃないの! もっともっと素直になりましょう。多分愛された実感がもてないで、
大人になっちゃった人達なのよね。あばずれ語を遣う人は。可哀想に!
だからって、やたらカタカナ言葉を遣う人間も、要注意!売国奴です!(過激?ええそうね)そし
て、根っこは同じかも知れないわね。やはりキーワードは「愛」。そんな人達は、意識・無意識に
日本を売り飛ばそうとしている人達です。誰に?ゲルマン民族にかしら?好きですものねぇ、外人、
特に白人が。
私はこの日本に生まれた事を、心から幸せに思う女だから、胸を張って日本人をやってくわ。だって、
こんなに小さな国だけど、北海道から沖縄まで、同じ季節でも微妙に気候が違うのよね。食材もお料
理も、風習も。そして言葉もね。「どさ?」「ゆさ」東北の、ある有名な表現よ。
「どさ?」は、「どこに行くの?」、「ゆさ」は、「湯(お風呂)よ」。
私が生まれた鹿児島は、「頑張らなきゃ!」を「はめっけな!」。
そんな土地柄からも誕生した様々な文化を背負う私達って、幸せ民族なのに、なぜ多くの四足の血を
流して、自分達の命をつないできた血まみれ民族を称えなきゃならないの?よ。攻撃型民族を。
グローバル・スタンダードだって?違うでしょう?嘘つき!
「足るを知る」「分相応」なんて、今こそ心に住まわせなければいけない言葉だと思うのよ。
私達は、理屈ではなく、自然との調和を知って生きることを知っていた民族だったのに、アメリカの
「消費は美徳」なんて、とんでもない思想に追従してきた結果がこの有り様よ。
明治になって、言葉を統一。標準語の制定ね。その時、「母親」を「お母さん」、「父親」を「お父
さん」に決まった時に、「なんて、下品な!」という批判があったらしいわ。
「ホラ!言葉は変わるのよ」って、鬼の首でも取ったような気持ちになったとしたら、心の傷は、
癒しがたいほどに深いかもしれないわねぇ。 可哀想に・・・・・。
でも、美しい日本語をつかいましょうよ!
◎ 本日の言葉・・・「貧すれば鈍する」「人生意気に通ず」「品性」
「付和雷同」「類は類を呼ぶ」「同じ穴の狢」
「足るを知る」「分相応」
「へたれ」・・・根性(こんじょう)なし
「じこまん」・・自己満足
「でぶす」・・・デブで、ブス
「うざってー」・うるさい
「まじぎれ」・・本当に怒ってる
「きもい」・・・気持ち悪い
「むかつく」・・・腹が立つ
「エーッ! ウッソー マジ? ホント!」・・・間投詞(感動詞)の集合
こういう言葉を、「あばずれ語」と、命名した人がいる。
言いえて妙 ! もう、思考停止の何者でもない。持続的思考が不得手。
再近、若い人と話す機会があるたびに、「言葉・・・日本語」について、
話しているわ。このあばずれ語と命名した人は、
「内的言語の貧困によって、持続的思考が困難になったため、感嘆符や
疑問符付きの間投詞だらけになってしまう。
思考力の退化は、人類のサル化の始まりかも知れない。放置すれば、国語は
ただの叫び声の集合にすぎなくなる」
って。同じ危惧を抱きつづけている私は、くいるように読み、同感したのよ。
新聞の番組欄を見ると、すでにもうその域に入ってるわね。
「どぎつさ」と「叫び」の表題でしょう。 だから、TVはなるべく見ない!
若いお友達がいっぱいいる私だけど、10代(いるのよ~~!)の人の言葉には、ちょっ
と微苦笑が混じる程度だけど、20代、ましてや30代、それ以上の人達の、特に女性
達の言葉の中に、以上のような言葉が一つでも混じったら、もう、す~~~~っと、気
持ちが萎えて離れてしまうのよ。
そして、会話で「~だよ」で〆る女性もね。こちらは、いい大人達も、大勢ね。
「ああ、この子(人)もこの程度の子(人)なのね」って、寂しい気持ちでね。本当に
寂しい!
「~だよ」で、〆る話方しかしない女の人とは、会わないようにしているわ。何かが濁っ
てるようで、嫌なのよね。
若者言葉にすりよる大人、と言うより、た~だ年長というだけの人達。 若さへの異常な
しがみつきに、そら恐ろしい気がするのよ。成熟を拒否してる中途半端な人達。
感動詞が
「かっわいい~~!」「でしょう?」
気持ち悪い、の何者でもない。どう見ても可愛くないお年頃の女性達が、追い求めるそれ!
可愛いには、「純粋」と「無垢」が存在しなきゃならないのに。
いつの時代も、そう私達の時代も。必ずその時代の、肩をいからせた、大人達への挑戦があっ
たし、仲間意識の共有があったわ。あくまでも一過性のものが。けれども、私達のまわりにい
た大人達は、「貧すれば鈍する」や「人生意気に通ず」あるいは、「品性」なんて言葉を持っ
ていたし、決して譲らない、背筋を伸ばした、信念を持っていたからねぇ。今にして思えば、
そんな親の、人生観や、我が子に向かう姿勢が、子どもの生き方に、どれほど大きな影響を与
えたか、わかるのよね。 その影響かどうか定かではないけれど、かつての私は、見たり聞い
たりの限りでは、その仲間には加わらなかったわ。大人達への挑戦状は、心の中へ秘めて。
「付和雷同」を、軽蔑してた女の子だったからね。
「フン、そんな安い人間じゃぁない!」
「誰かに操られるほどのバカじゃあない。絶対にそうはならない!」
って、恐ろしいほどの信念でいたものよ。そうねえ、14~5才くらいだったかしら。
「誇りの塊」みたいだったわね。皆と同じが大っ嫌いだった女の子よ。
長じて、人の子の親となって、吐く言葉はいつも
「烏合の衆となるなかれ!」
「とかくめだかは群れたがる」
「龍尾たるより鶏頭たれ!」
なんてね。噛み砕いてなんか言わない。
息子達が覚えてるかどうか、知らないけれど。
青春真っ只中は、悩みまくって、もがいてもいたけれど、「みんなと同じ」では、その迷路から
抜け出せるなんては、思わなかったし、そこに居る自分を想像する事すら、いとわしいものだっ
たのよ。
だから、今頃の若者の状況を見ていると、
「安売りしないで~~!!」
って、叫ばずには居られないほどの焦燥感を持つのよ。
なぜ、志を高く掲げないの?って。
「そのへんの大人達なんか」
って、思っているなら、なぜ、そのへんの大人達が瞠目するほど、美しい言葉を遣わないの?
「うっせえんだよ!」の代わりに、
「あのー、失礼とは思うのですけれど、もう少し静かにしていただけないでしょうか?」とか、
「干渉は、ご勘弁を!」くらい言って、大人達の度肝を抜いて欲しい!
嫌でも年は取るのよ。これは美醜やお金持ちか貧乏かに関係なくね。さあ、どうするの?
汚いあばずれ語を駆使する大人、年食っただけの大人になるの?食後にその場でお化粧直しを
へいきでするような、それこそ軽蔑してた同じ大人になるの?
「類は類を呼ぶ」同じ仲間と「ねえ」「ねえ」って、同じ穴の狢(むじな)に?
どうぞ、自分の夫を「だんな」なんて平気で言う大人にはならないでね。アレは花柳界あるいは
商家の、又は 下町の言葉。ごく普通の堅気(かたぎ)の女が遣う言葉ではない事を知って欲しい。
言葉が乱れると、立ち居振舞いも崩れ易いのよ。
みんな、誰でも、心から褒めて欲しいし、尊敬されたいのよ。ウッソー!?だって?
いいえ、嘘じゃないの! もっともっと素直になりましょう。多分愛された実感がもてないで、
大人になっちゃった人達なのよね。あばずれ語を遣う人は。可哀想に!
だからって、やたらカタカナ言葉を遣う人間も、要注意!売国奴です!(過激?ええそうね)そし
て、根っこは同じかも知れないわね。やはりキーワードは「愛」。そんな人達は、意識・無意識に
日本を売り飛ばそうとしている人達です。誰に?ゲルマン民族にかしら?好きですものねぇ、外人、
特に白人が。
私はこの日本に生まれた事を、心から幸せに思う女だから、胸を張って日本人をやってくわ。だって、
こんなに小さな国だけど、北海道から沖縄まで、同じ季節でも微妙に気候が違うのよね。食材もお料
理も、風習も。そして言葉もね。「どさ?」「ゆさ」東北の、ある有名な表現よ。
「どさ?」は、「どこに行くの?」、「ゆさ」は、「湯(お風呂)よ」。
私が生まれた鹿児島は、「頑張らなきゃ!」を「はめっけな!」。
そんな土地柄からも誕生した様々な文化を背負う私達って、幸せ民族なのに、なぜ多くの四足の血を
流して、自分達の命をつないできた血まみれ民族を称えなきゃならないの?よ。攻撃型民族を。
グローバル・スタンダードだって?違うでしょう?嘘つき!
「足るを知る」「分相応」なんて、今こそ心に住まわせなければいけない言葉だと思うのよ。
私達は、理屈ではなく、自然との調和を知って生きることを知っていた民族だったのに、アメリカの
「消費は美徳」なんて、とんでもない思想に追従してきた結果がこの有り様よ。
明治になって、言葉を統一。標準語の制定ね。その時、「母親」を「お母さん」、「父親」を「お父
さん」に決まった時に、「なんて、下品な!」という批判があったらしいわ。
「ホラ!言葉は変わるのよ」って、鬼の首でも取ったような気持ちになったとしたら、心の傷は、
癒しがたいほどに深いかもしれないわねぇ。 可哀想に・・・・・。
でも、美しい日本語をつかいましょうよ!
◎ 本日の言葉・・・「貧すれば鈍する」「人生意気に通ず」「品性」
「付和雷同」「類は類を呼ぶ」「同じ穴の狢」
「足るを知る」「分相応」