最近、気づいてしまった事。
心理学の勉強をしていると「なるほど、ふむふむ納得」という事は感じているのですが、分析や統計、研究となると「あ~だいたいはそうかもしれないけど、絶対じゃ~ないでしょ、当てはまらない人だっているはず」という気持ちになってそれ以上素直になれない自分に気づいてしまったのです。
私はどちらかというと論理的思考は苦手。(つまり頭は良くない←わかってますって)
だから物事を組み立てて話すということも苦手なのです。
自分の思いをうまく語ろうなんてすれば、それはまったく伝わっていないような感じの時がよくあります。
そこで思ったのは、これ(論理的)は自分に合わない無理な方法なんだと思ったのです。
じゃ~どうしよう…
カウンセラーの原点にもどると、受容(傾聴)、共感、自己一致。
そう、傾聴…聴く事。
クライエントの話しを聴いているだけで、「この人は共感してくれている、心を開いてくれている」ということを伝えるということは、すべて非言語によるということです。
非言語とはそのままですが、言葉ではないもの…
言葉ではない感じる何かってありますよね。
人を識別する時は、顔のみではないはずです。
その人のまわりにある雰囲気という目に見えないもの、気配とかもありますよね。
そう考えた時にカウンセラーの方向性が見えてきました。
フォーカシングやゲシュタルトなど、感覚的カウンセリングを行うものが自分に合っているんだろうなと…
内観も少し近いかな…
私は、どちらかというと、これまで「論理的思考」の対極にある「勘」とか、「感覚」で生きてきたのかもしれません。
感じる事を重要視するカウンセリングを極めていきます。
心理学の勉強をしていると「なるほど、ふむふむ納得」という事は感じているのですが、分析や統計、研究となると「あ~だいたいはそうかもしれないけど、絶対じゃ~ないでしょ、当てはまらない人だっているはず」という気持ちになってそれ以上素直になれない自分に気づいてしまったのです。
私はどちらかというと論理的思考は苦手。(つまり頭は良くない←わかってますって)
だから物事を組み立てて話すということも苦手なのです。
自分の思いをうまく語ろうなんてすれば、それはまったく伝わっていないような感じの時がよくあります。
そこで思ったのは、これ(論理的)は自分に合わない無理な方法なんだと思ったのです。
じゃ~どうしよう…
カウンセラーの原点にもどると、受容(傾聴)、共感、自己一致。
そう、傾聴…聴く事。
クライエントの話しを聴いているだけで、「この人は共感してくれている、心を開いてくれている」ということを伝えるということは、すべて非言語によるということです。
非言語とはそのままですが、言葉ではないもの…
言葉ではない感じる何かってありますよね。
人を識別する時は、顔のみではないはずです。
その人のまわりにある雰囲気という目に見えないもの、気配とかもありますよね。
そう考えた時にカウンセラーの方向性が見えてきました。
フォーカシングやゲシュタルトなど、感覚的カウンセリングを行うものが自分に合っているんだろうなと…
内観も少し近いかな…
私は、どちらかというと、これまで「論理的思考」の対極にある「勘」とか、「感覚」で生きてきたのかもしれません。
感じる事を重要視するカウンセリングを極めていきます。
見ただけで((((((((^^; ススっと
敬遠したくなっちゃうぞい(爆)
自分の気持ちを伝えるのも難しいけど、相手の気持ちを理解するのも難しい
聞く側にと思ってもじっと黙って待ってるだけでは、相手も話してくれないし、話し始めても心を開いていないのを感じちゃう時ってあるよね
感覚的なカウンセリングは、向かい合った瞬間に「あ、この人なら聴いてもらえる」と感じてもらえる事。最低限の問いかけで心を開いてもらえる事。そこを研ぎ澄ますべく心理療法の勉強していくつもり…
自分以外の人の気持ちを理解することは不可能に近いと思う。たとえ親子でも。理解しようと考えると頭で考えてしまうから、納得いかないと「理解できない」…になってしまうんだと思う。
理解するより先ず「受け入れる事」かなと最近感じてます。
100%の理解はありえないから徹底的に聴く…と言うスタンスは大切にしたいな、と思います。