最近になって、「歎異抄」がやたら目につき、どうにか理解できないものかと現代語訳を読んでみたりしました。
カルチャーで「歎異抄を読む」という講座があるくらいなので、まあ、難しいです。
なので、先ず、吉川英治著の「親鸞」読んでいるのですが、「修行」とはなんぞや?です。
折しも、オウムの話題が多く、当時の修行という名のもと、現実から隔離された共同生活を見て、
やっぱり「これは違う」と。
現実を生き抜くことこそ、修行ではないかと。
親鸞もお坊さんですが、現実世界を生きた人ではないかと思います。
山に籠ったり、瀧に打たれたりする修行も、そこで得た気づきを現実にもどって活かせてこそ
悟りではないかと思います。
現代では、心理学を学んだり、自己啓発セミナーなどで気づきがあることは確かなのですが、
その気づきを現実に取り入れて、しかもずっと継続する事は至難の業です。
日々の出来事に対して、気持ちの流れをずーっと穏やかに保つことは誰しも難しいと感じているはずです。
でも、その日々の生活を修行(成長)と思えれば、どれだけたくさん積み重ねられるでしょうか。
何か頭にくることやイライラ、うまくいかない事がでてきたら…
「修行」…キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!!!
くらいに思うと、そう思った時点で怒りは半減しているはずです。
あとは、この怒りの修行をどんな風に自分の糧にしていこうか、何が自分の成長になるのかを
考えていると、その怒りはどのように変化するでしょうか。
また、何もない普通の日を感謝することって簡単なようで難しいです。
数日ならばできそうな気がしますが、継続するのはどうでしょう。
とすれば、それもまた修行ととらえれば、修行の種はいくらでもありますね。
私もまだまだ日々精進です。
カルチャーで「歎異抄を読む」という講座があるくらいなので、まあ、難しいです。
なので、先ず、吉川英治著の「親鸞」読んでいるのですが、「修行」とはなんぞや?です。
折しも、オウムの話題が多く、当時の修行という名のもと、現実から隔離された共同生活を見て、
やっぱり「これは違う」と。
現実を生き抜くことこそ、修行ではないかと。
親鸞もお坊さんですが、現実世界を生きた人ではないかと思います。
山に籠ったり、瀧に打たれたりする修行も、そこで得た気づきを現実にもどって活かせてこそ
悟りではないかと思います。
現代では、心理学を学んだり、自己啓発セミナーなどで気づきがあることは確かなのですが、
その気づきを現実に取り入れて、しかもずっと継続する事は至難の業です。
日々の出来事に対して、気持ちの流れをずーっと穏やかに保つことは誰しも難しいと感じているはずです。
でも、その日々の生活を修行(成長)と思えれば、どれだけたくさん積み重ねられるでしょうか。
何か頭にくることやイライラ、うまくいかない事がでてきたら…
「修行」…キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!!!
くらいに思うと、そう思った時点で怒りは半減しているはずです。
あとは、この怒りの修行をどんな風に自分の糧にしていこうか、何が自分の成長になるのかを
考えていると、その怒りはどのように変化するでしょうか。
また、何もない普通の日を感謝することって簡単なようで難しいです。
数日ならばできそうな気がしますが、継続するのはどうでしょう。
とすれば、それもまた修行ととらえれば、修行の種はいくらでもありますね。
私もまだまだ日々精進です。