初秋の頃、彼方此方に見かけたコスモス畑だが、メッキリと少なくなってきた。村内でも畑一面がコスモスの群落といった姿は余り見掛けず、僅かな数量がポツリポツリと・・・・・・いった雰囲気だ。思えば寂しくなってくる。花を育てる余裕が無くなってきたのかも。コスモスはレンゲ草のように、田畑の肥料というわけにはいかない。実利的な効能は無いのだ。専ら観賞用、従って育てる手間暇を必要とする。ある意味、余裕が無いと出来ない技でもある。
それでもソコソコには咲き誇っているので撮影して集めてみた。ご承知のように一箇所のコスモス畑では無い。畑に部分的に咲いてる物を撮影したもの、何ヶ所かの合成物だ。コスモスは秋を代表するような名花・・・・と思っている。決して華麗で艶やかな花では無いが、例えると純朴な村娘さん・・・・・・といった趣であろうか。摘み取られ、花瓶等で飾られる事は少ないだろうが、野にあってこその存在なのかも。
当地は山間部の棚田地帯、大半が狭小で曲がりくねった田圃だ。畑は少なく、必然的にコスモスの存在も限られてくるが、ポツポツと見かけると何故か安堵感を覚える。体内に染み着いた原風景といった特別な存在なのかも。子狸が育った地域も、とある地方の寒村だった。何も存在しない、山と川と原野だけの風景だったが、不思議とコスモスだけが強く印象に残っている。幼少期に記憶に残った花はコスモスだけだった、と言っても過言では無い。今のように、多種多様な花々が存在しなかった故かも知れない。つまり生活場面に多くの花々は無かったのだ。
現在は品種の開発や改良が行われ、より綺麗な花々が次々と出現される。コスモスのように純朴で変わら姿の花々は存在認識が薄いのかも。注目される場面も少ないかと思うが、咲き誇って欲しい花でもある。やはり野にあってこそのコスモスの花、屋内を飾ることは少ないだろうが、初秋の到来と寒さへの巡りを知らせる「時告花」の存在でもある。季節の巡りは変わりなく訪れているようだ。そういえば明日は旧暦の8月15日、仲秋の名月だ。お月様を覗いてウサギさんの活躍を眺めないと。
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