門前の小僧

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名言名句 第七十五回 千利休 「渡りを六分、景気を四分に据え申し候。」

2023-05-27 10:03:48 | 名言名句
渡りを六分、景気を四分に据え申し候。 千利休~『石州三百ヵ条』





今回は、庭造り、露地の飛び石についての利休の名言です。

茶庭である露地の飛び石は、茶室へと至る庭の通路として設置され、千利休の安土桃山時代頃に成立した、比較的新しいものです。

その名の通り、平らな石を飛び飛びに並べ、その上を客人が伝い歩いたため、古くは「伝い石」とも呼ばれました。これらの石の並べ方、配置について利休は「渡り(歩きやすさ)を六分、景気(美観)を四分」に按配して据えよ、と示したものです。

まずはこの句の出典から、原文と現代語訳をご紹介しましょう。





【原文】



「飛石ハ利休ハ渡りを六ふん、景氣を四ふんに居申候由、織部ハわたりを四ふん、景氣を六ふんにすへ申候、先、飛石ハ渡りのためなれば、わたりを第一とす、然共、まつすくに同じやうにつゝけてハかたく候、それゆへひつミを取也、しかれとも無用の所にて、わさとひつませ候ハ作物にてあししき也、何そ木にても下草にても、いき當りをよけ候ためにひつませ、又ハ石のとめ合により不足成るところにすへ石を置、それより居へつゝくるやう渡りを第一にするなり、尤よき石ハ嫌ふなり、あしき石にて見立よく居なすへし、今時、物すきとてあそここゝと石をひつませ、渡りの心なきハ嫌ふ也」

(『石州三百ヶ条』(『茶道古典全集』第二巻 千宗室編纂 淡交社)



【現代語訳】



飛び石を利休は、渡りを六分、景気を四分として設置、配列したという。弟子の織部は渡りを四分、景気を六分として並べたのだ。

そもそも飛び石は、渡って歩くためのものなので、渡りを第一とする。しかし石をまっすぐ同じように続けたのでは、固くみえる。それゆえ歪みをつけるのである。かといっても、無用の場所でわざとらしく歪ませるのは作り物でよくない。たとえば樹木や下草が障りとなる場合、これをよけるために歪ませ、または石と石とのつなぎに間が開いてしまった時、その足りない所へ据え石を置くとよい。その石より次の石へと続くように、渡りを第一とするのだ。さてまた、見映えのよい石は嫌う。見劣りする石を収まりのよきように見立てて据えよ。今どきの数寄者と称する人が、あちらこちらと石を歪ませ、渡りの心がないのは考えものだ。

(水野聡訳 2023年5月 能文社)





利休のいう、「渡りを六分、景気を四分」は、ぼくたち日本人の美的価値基準が、全き対称ではなく、いずれかの極へ少しずれ、傾く非対称性を象徴しています。

これは伝統的日本文化・芸術の諸相で広く観察される現象です。

なぜ日本人は非対称とわずかなずれを美しいと感じるのか。日本文化のいくつかの分野でサンプルケースをたどっていきましょう。





■利休は美が四分、織部は美が六分



まずは、利休作と伝えられる露地の飛び石と織部作の露地を見てみましょう。





利休のいう「渡りを六分、景気を四分」はいい換れば、機能が六割、美が四割とも考えることができます。すべて実用品であり、“用の美”たる茶道具の美的価値を四分とした利休に対し、弟子の織部が六分としたのは興味深いことです。利休形の代表たる樂茶碗と歪んだ織部焼茶碗を見比べた時、師と弟子のバランス感覚の違いがよく表れているのではないでしょうか。










■日本文化は不足の美



さて、「六分、四分」は機能と美のバランスですが、美そのもののバランスについても、東洋、とりわけ日本では、「五分、五分」すなわち完全なる均衡を理想の美とはしていません。

日本古来の絵、水墨画・山水画では絵の構図として「一角様式」が伝統的に踏襲されています。

これらの作品では、山や川などメインモチーフはいずれかの一隅に偏って描かれ、他は大きな余白として残され、何も描かれないのです。

この「一角」技法は、南宋の画家、馬遠より起こり、禅画を中心として日本でも広く普及していきました。







鈴木大拙は「一角」について、仏教思想(華厳経)の「一即多、多即一」とひもづけて、以下のように論じます。



「日本人の芸術的才能のいちじるしい特色の一つとして、南宋大画家の一人馬遠に源を発した「一角」様式を挙げることができる。この「一角」様式は、心理的にみれば、日本の画家が『減筆体』といって、絹本や紙本にできるだけ少ない描線や筆触で物の形を表すという伝統と結びつている。(中略) 非均衡性・非相称性・「一角」性・貧乏性・単純性・さび・わび・孤絶性・その他、日本の美術および文化の最も著しい特性となる同種の観念は、みなすべて「多即一、一即多」という禅の真理を中心から認識するところに発する。」

(『禅と日本文化』鈴木大拙 岩波新書 1940.9.30)





美術技法として見れば、「一角」の余白部分は、鑑賞者の想像力に働きかけ、創造力を呼び起こすもの、とされます。峻厳たる岩山の何も描かれない余白に、あるいは月を見、あるいは帰雁の連なりを見、時には古寺の晩鐘の音までをも聞くのです。

余白は不完全であり、不足ですが、そこに新たなる価値、生命が生み出される。ぼくたち日本人は、このようにして美を感じ、命を与えてきました。





■五分五分は神の座、人は三分一である



利休の飛び石の「六分、四分」は非均衡、非対称により、茶庭に美と生命を与えようとするものでした。

ひとたび茶道具へと目を転じた時、この非対称性は『南方録』の〈カネワリ〉と呼ばれる茶道具配置法に顕著に表れてきます。

〈カネワリ〉は台子に茶道具を飾り付けるための厳密な配置分法です。

台子の天板の上に五本の線を均等に割り付け、原則としてその線上に各道具を置いていきます。

この五つの線を〈陽カネ〉と呼び、中央の〈第一のカネ〉から、右、左へと〈五番目のカネ〉まで、茶道具の位(価値)に応じて配していく技法です。



面白いのは、この線(位置)の上に置く道具はすべて、真上に置かず少し右か左へとずらして置くというもの。ずらし方には〈三分一〉と〈峰ずり〉と呼ばれる二種類があります。一つ物と呼ばれる、飾りの主役級たる大名物茶道具は中央のカネにただ一つ〈峰ずり〉で置く。その他の道具は、他のカネにすべて〈三分一〉で置くこととされています。







■翁、すなわち神のみが中央の道を行く



「能にして能にあらず」とされる、能の秘曲〈翁〉。能の各流儀、各家では〈翁〉を演じる上で、様々な口伝・秘伝が伝えられてきました。

シテ方某家に伝わる習い(相伝)では、翁が登場する時、シテは橋掛かりの中央を通って本舞台に入る、とされています。そして、その他すべての曲では、シテは橋掛かりの中央線が右肩あたりにくるように、やや左寄りに橋掛かりを運ぶ決まりになっているという。



いうなれば、通路の真ん中は神のみに許される通り道。人間は神の道を憚って、やや脇に寄って通らねばなりません。開演前の鏡の間では、〈翁飾り〉をし、演者は塩で身を清め、舞台は火打石で清められる。

〈翁〉は古代の神が降臨する、神聖なる儀式として今も特別に重んじられています。



もしも神の座を冒す者あらば、いかなる神罰が下ることやら。

日本人が無意識に真中を避ける文化的背景には、超自然的な存在への畏敬があるのかもしれません。しかし怖れ、憚るとはいっても深山、辺境に神を遠ざけることはせず、ごく身近に祭り、共に祝い、共に寿福を享受するために生活の諸所に〈神の庭〉を設けていたのではないでしょうか。



オフィシャルホームページ【言の葉庵】
千年の日本語を読む【言の葉庵】能文社 (nobunsha.jp)

三鷹市民講座「千利休が残した茶の湯の歴史」開講中

2023-02-05 18:26:58 | カルチャー講座


よみうりカルチャーの出張講座が、三鷹市生涯学習センターにて

連続3回で実施されています。



テーマは「千利休が残した茶の湯の歴史~茶道の歴史と意義をやさしく学ぶ」。

千利休が残した茶の湯の歴史~茶道の歴史と意義をやさしく学ぶ | 三鷹中央防災公園・元気創造プラザ (mitakagenki-plaza.jp)

講師 水野聡にて、2月4日土曜日、「第2回 珠光・紹鴎・利休の茶」を

開講しました。





今回申込制の公開講座へ、定員を超える多数のご応募をいただき40数名の

受講生の方々がご参加くださいました。

日本文化の代表である、茶の湯の歴史に皆様深い関心をもたれ、

熱心な質問も多く寄せられ、充実した学びの時間を共有することが

できました。

ご参加の皆様、市とカルチャー担当者の皆様にも深く感謝いたします。

次回は「第3回 唐物道具・侘び道具・草庵小座敷」を最終回として

2月18日 土曜日に開催予定です。

【名言名句 空海】物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。

2023-01-22 13:45:51 | 名言名句

今回の名言は、空海晩年の著、『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)から、この句をご紹介しましょう。

 物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。
 (物には定められた性質はない。どうして人はいつまでも悪人であり続けることがあろうか。)

 悪とは何か―。
 人の善悪については、孟子の性善説、荀子の性悪説以来、長く論争されてきました。
 空海最奥の教義書たる本著において、冒頭の第一章「異生羝羊心」では、畜生にも劣る、もっとも愚かな凡夫の心性を「第一住心」と称し、一分の善もない全くの悪心、一分の明もない全くの暗心、自らの欲望に終始する、人面獣心のような心のあり方を説いています。

 この暗黒の世界に、はじめて一条の光が射し、人の人たる世界が開けゆくのが、第二住心と呼ばれる「愚童持斎心」の段階です。それは倫理、道徳の道が開ける儒教的精神の発揚段階。
 そしてよき教えに導かれ、善心がすくすくと伸び育つ、すべての精神の発達可能性も示唆します。

 「物に定まれる性なし」は、この宇宙の天然自然において永遠不変のものなど一つもないことを表し、「人、何ぞ常に悪ならん」は、人の心もこの万物変性の法則を受け、いかなる極悪人も生涯、悪に徹し続けることはできない、と説いているのです。
(※参照 【言の葉庵】救われる極悪人『今昔物語』 https://bit.ly/3XFkCPq ) 
 その変化のご縁となるのが、儒教の五常であり、仏教の十善戒(五戒)である、と説明します。

 「愚童持斎心」は、幼な子がはじめて他者との接し方を悟った、いわば倫理のヨチヨチ歩きの状態である、ということに注意しなければなりません。人に施したのに、「返してくれない」「感謝されない」と不満に思うかもしれないからです。こうした心の縛りから解き放たれるために、第三から、第十住心へと至る空海の精神発展の階段がここに用意されました。
 しかし弘法にも筆の誤り―。この階段は、時につまづいたり後戻りすることもある、と気づくことも大切です。人は悪であり続けることは難しく、逆にいつまでも善であり続けることも、なかなか骨の折れることですから。

 以下、『秘蔵宝鑰』の解題と、〔第二 愚童持斎心〕の原文、現代語訳をそれぞれご案内していきましょう。


『秘蔵宝鑰』 弘法大師空海


〔解題〕

淳和天皇の天長七年(八三〇)に各宗の宗義を差出すように命があったとき、弘法大師空海は『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』の二書を献上した。この二部作は空海の数多い著作の中で文字通りの双璧の主著である。
前著の精髄を要約したものが『秘蔵宝鑰』(略称宝鑰)である。書名は秘(密)蔵、すなわち「われわれの心の真実相として秘められている世界」を開示する鍵を意味する。空海がいう心の真実相の世界は、第一住心より第十住心にいたる心の十の発達段階である。これらは動物精神的な世界から、倫理的世界、さらに宗教的世界の目ざめ、そして宗教的自覚の次第に深化してゆく心の発展過程を克明に説き、最後に第十秘密荘厳住心にいたる。現実的にはこの第十住心は空海の真言密教であるが、しかし、第一住心より第九住心までのすべての心の世界は、そうした第十住心に包摂され、かつ一々の住心は第十住心の顕現にほかならないとするのが、空海の十住心体系の基本的立場である。
このように、『秘蔵宝鑰』の全体をつらぬくものは内面的精神の発達相であるが、それとともに見落してならないことがある。それは倫理以前の領域から儒教、道教、奈良仏教の諸宗、平安の天台、真言という移りゆきがそのまま、ほぼわが国における思想史の形成を示しているということであろう。そして本著作は、わが国における宗教的なすぐれた求道の書というだけにとどまらず、稀右の思想書といわなければならない。訓み下しに当り、テキストは『弘法大師全集』所収のものを用いた。


〔原文〕

第二 愚童持斎心*1

夫れ禿なる樹、定んで禿なるに非ず。
春に遇ふときは栄へ華さく。増(かさ)なれる氷、何ぞ必ずしも氷ならん。
夏に入るときは則ち泮(と)け注ぐ。穀牙、湿ひを待ち、卉菓(きか)、時に結ぶ。
戴淵(たいえん)*2、心を改め、周処*3、忠孝あつしが如くに至つては、磺石(こうしゃく)、忽ちに珍なり。魚珠*4、夜を照す。

物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。縁に遇ふときは則ち庸愚も大道を庶幾(こいねが)ふ。教に順ずるときは則ち凡夫も賢聖に斉(ひと)しからんと思ふ。羝羊(ていよう)、自性な
し。愚童も亦愚にあらず。
是の故に、本覚、内に薫し、仏光、外に射して、欻爾(くつじ)に節食し、数数に檀那*5す。
牙種疱葉(びょうよう)の善、相続して生じ、敷華結実(ふけけつじつ)の心、探湯(くかたち)不及なり。

五常*6漸く習ひ、十善*7讃仰す。五常と言つぱ仁・義・礼・智・信なり。仁をば不殺等に名づく。己を恕して物を施す。義は則ち不盗等なり、積んで能く施す。礼は曰く、不邪等なり、五礼*8、序有り。智は是れ不乱等なり、審かに決し能く理(こと)はる。信は不妄の称なり、言つて必ず行ず。
能く此の五を行ずるときは則ち四序*9、玉燭し、五才*10、金鏡なり。国に之を行へば則ち天下昇平なり。家に之を行へば則ち路に遺を拾はず。名を挙げ、先を顕すの妙術、国を保ち、身を安んずるの美風なり。外には五常と号し、内には五戒*11と名づく。名、異にして、義、融し、行、同じうして、益、別なり。断悪修善の基漸、脱苦得楽の濫觴*12(らんしょう)なり。



*1愚童持斎心 愚童は凡夫を指し、持斎は戒律に則った生活をするという意味である。空海の十住心体系の第二である、愚童持斎心は節食し布施をするなど道徳に目覚めた状態であり、儒教などにあたる。
*2 戴淵 他人の船を襲い、掠奪しようとしたが、却って教誠され、改心して趙王に仕え予章太守となる(『晋書』)。
*3 周処 初め暴悪乱行であつたが、老父の訓誠によって改心し、呉王の忠臣となったという(『晋書』)。
*4 魚珠 鯨の目。
*5 檀那 danaの音写。布施すること。
*6 五常 仁、義、礼、智、信。この一節は、善心の実践として第二住心の当分を述べる。
*7 十善 不殺生、不倫盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貧欲、不瞑志、不邪見。
*8 五礼 古、凶、軍、賓、嘉で、周礼の説。
*9 四序 春夏秋冬の四季和順なることをいう。
*10 五才 五才は木、火、土、金、水の五行。この五行が各々その位を保って混乱せず、金鏡のように明了であること。
*11 五戒 不殺生、不倫盗、不邪淫、不妄語、不飲酒。
*12 濫觴 揚子江のような大河も源は觴 (さかずき) を濫 (うか) べるほどの細流にすぎないという、『荀子』子道にみえる孔子の言葉から。物事の起こり。始まり。起源。

(『日本の思想 1 最澄・空海集』筑摩書房 1973.8.30)



〔現代語訳〕

そもそも裸の枯れ木は、いつまでたっても枯れたままではない。春になれば、芽ばえて花が咲く。厚い氷も、いつまでも氷ったままではない。夏になれば溶けて流れ出すのだ。穀物の芽も湿気があれば発芽し、時至れば実をもむすぶ。
戴淵は陸機にいましめられ、改心して将軍になった。周処は老父にいましめられ、忠孝をつくす人となった。原石がみがかれて宝石となり、鯨の目が夜を照らす明月珠となったという伝説の通りである。

物には定められた性質はない。どうして人はいつまでも悪人であり続けることがあろうか。ご縁があれば、愚かな者でも大道を志すのである。教えにしたがえば、凡人も聖賢を目指すではないか。「羝羊」とても、それ自体固定の性質ではない。愚か者もまた愚かなままでいるわけではない。
ゆえに本覚が心の内に起こり、目覚めた者の光が外にかがやき出せば、たちまちに自らの欲望をおさえ、しばしば他の者へ施すようになる。あたかも、樹木の芽が種より芽ばえてつぼみとなり葉がのびるように、善心の芽ばえは次第に生長する。そして花が咲き、実をむすぶように、善心の発展は、神に誓って疑いもない。

こうして儒教の五常を次第に習い、仏教の十善を仰ぎ称えるようになる。五常とは仁、義、礼、智、信のことである。仁を仏教では不殺と呼ぶ。おのれの身になって人に施すのだ。義はすなわち不盗である。みずから節約して他人に与える。礼はいわば不邪といおうか。五礼に秩序があるのだ。智は不乱である。事細かに決定し、よく道理をとおすこと。信は不妄。口から出したことは必ず実行するべし。
人がこの五つをよく行なえば四季滞りなく、木、火、土、金、水の五行は明らかとなる。国家がこれを行なえば、天下太平となるのである。一家にこれを行なえば路に落ちたものを拾う者はいなくなろう。
我が名を上げ、祖先を顕彰する秘策であり、国を保ち身を安んずる美風なのだ。
これを儒教では「五常」といい、仏教では「五戒」という。名は違えども意味は同一である。
しかし行為が同じであるといっても、その益は異なる。五戒は、悪を断ちきり善を修める根本であり、苦を抜き、楽を得るはじめとなるものだ。

(現代語訳 水野聡/能文社 2023.1.18)


うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ。(良寛)

2022-11-06 17:59:20 | 名言名句
うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ。 良寛~『蓮の露』貞心尼


良寛の最期をみとった愛弟子、貞心尼の良寛歌集、『はちすの露』に収められた良寛の辞世の句です。

良寛の最晩年の法弟が、三十歳の美しい尼、貞心尼。二人の出会いから、良寛遷化までの四年余り、師と弟子は深く心を通わせた歌を互いに贈りあいました。
良寛と貞心尼、そしてその歌集『はちすの露』について、詳しくは下記リンクをご参照ください。


1. 良寛落葉の句碑 野島出版


2. 蓮の露(はちすのつゆ)


3. 良寛さんと貞心尼さんの師弟愛


4. 良寛さん から 貞心尼さん への手紙


5. 名言名句 第五十六回 良寛 死ぬ時節には死ぬがよく候



さて、良寛の病いよいよ篤く、危篤の床にあるわが師を悲しんだ、貞心尼の詞書と歌です。


 かかれば昼夜御かたはらにありて、御ありさま見奉りぬるに、ただ日にそへてよわりによわり行き給ひぬれば、いかにせん、とてもかくても遠からずかくれさせ給ふらめと思ふにいとかなしくて

 生き死にの境はなれて住む身にも さらぬ別れのあるぞ悲しき  貞

これに返した良寛の句が実質の辞世となりました。

 御かへし
 うらを見せおもてを見せて散るもみぢ  師

 こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへのたまふいとたふとし

(『はちすの露を読む』喜多上 春秋社 1997)


人は臨終に当たって、何を隠し、何を取り繕う必要があるのでしょうか。
童と無心にまりをつき、在郷すべての人に慕われ、愛された良寛の<裏の顔>とはいったいどのようなものでしょうか。病の苦しさからついもらした弱音なのか。あるいは、決して人にはいえぬ隠し事でもあったのか。

良寛末期の記ともいえる、貞心尼の『はちすの露』には、そんなものは影すらもありません。
「おもての顔もうらの顔もぜんぶよく見ておくれ。良寛はみんなと同じ、弱くちっぽけな人間だけど、お前がいてくれて本当にしあわせだった」
と、尼の手を弱々しくにぎりかえしただけなのでしょう。


 焚くほどは風がもてくる落ち葉かな

一方、これは良寛、還暦の歳の句です。長岡藩主が、良寛を自らの菩提寺の住持に迎えようと庵を訪れた時、返事の代わりに差し出した句とされます。

「ありがたい仰せです。が、一日の煮炊きや暖をとるだけの落ち葉は、『それ良寛。今日の分じゃ』と、風が門前へ吹き運んでくれます。よって、朝夕せっせと庭掃きもせず、菜は近在の百姓がざるに入れて持ってきてくれる。托鉢にもずいぶんと前から立っておりませぬ。
年寄りで怠け者の良寛に、大寺のさばきは勤まりますまい。この儀はご放念くださいますよう」。
この良寛の句を見た藩主は、無言で庵を辞したといいます。

風の施しを受け、太陽の恩を受け、まさに自然のままで自ら足りる老僧の姿。
そして、この人は最期にあたって、生の枝からはらりと解き放たれ、うらを見せ、おもてを見せながら、本住である大地へと還っていきます。
やがて風がその落ち葉を運び、誰かの助けとなることを願って。

逆もまた真なり。【逆説名言辞典】

2022-07-14 18:27:23 | 名言名句

【言の葉庵】ホームページは名言名句をご紹介するサイトです。

千年の日本語を読む【言の葉庵】能文社 (nobunsha.jp)

中世日本を中心に、世界中からこれまで多くの偉人の格言をご案内してきました。

今振り返ってふと気づいたのが、本来の意味と真逆の言い回しを意図的に使用する“逆説的”な名言が多いことです。

「急がば回れ」などのように、ストレートに表現しないことで、注意を呼び、深く意味を考えさせる逆説表現。一瞬、誤りのようですが、立ち止まって思いを巡らすと偉人の深い意図に至り、長く心に刻まれるものです。

【言の葉庵】HP過去掲載分も含め、いくつかの味わい深い逆説的名言をご紹介しましょう。







【逆説名言辞典】



『風姿花伝』世阿弥



・上手は下手の手本、下手は上手の手本。

上手が下手の手本になるのは当たり前。だが、下手を見て、上手が「あんな下手から何を学ぶのだ」という自身の慢心に気づかせてくれるから先生となりお手本となる。



・秘すれば花なり。

本当の秘伝は、いままで誰も気づかなかったからこそ秘となり、絶大な効を発する。その内容ではない。



・初心忘るべからず。

初志貫徹という意味ではない。その時々、年代のもっとも得意であったもの(芸や考え)を「あれはもう幼い、古い」と捨てず、自分の中に保ち続け、必要に応じて取り出して応用する。





『歎異抄』親鸞



・善人なをもて往生す、いわんや悪人をや。

浄土宗の教えでは、自らを救済できる善人でも亡くなれば往生できる。ましてや自らを救うすべのない極悪人こそ、阿弥陀様がもっとも哀れに思い救ってくださるのだ。





『源平盛衰記』平敦盛



・仇をば恩で報うなり。

人と人とは前世の縁で導かれるもの。もともと敵同士であったわけではないので、仏の慈悲で敵にも報うのだ。





『葉隠』鍋島直茂



・わが気に入らぬことが、わがためになるなり。

良薬口に苦し、のたとえの通り。トップの耳に入るのは追従の言葉が多く、忠義無私の諫言は、受け入れ難いもの。



・大事な思案は、軽くすべし。

重要な議案は会議のメンバーすべて、日頃から熟慮に熟慮を重ねているはず。提議されれば、すばやく一決し、実行に移されるような意思決定システムを作っておくこと。



・耄碌は、得意な分野から進んでくる。

人は加齢とともに記憶力が衰えても、自負心だけが強いままである。





『紹鷗遺文』武野紹鷗



・すべての芸に、下手の名をとるべし。

一芸の名人になるためには、他芸に目移りしてはならない。





『山上宗二記』千利休



・上を粗相に、下を律儀に。

賓客には飾らず接し、並みの客は丁寧にもてなすべし。





『貞観政要』唐の太宗



・楽しみは極むべからず。楽しみを極めれば悲しみを生ず。





『スッタニパータ』釈迦



・人々が安楽と称するものを、聖者は苦しみであるという。





『道徳経』老子



・知る者は言わず、言う者は知らず。 第五十六章

高い見識のある者は誤りを恐れて無口となり、

浅薄無知なものほど聞きかじったことを得意げにぺらぺらしゃべるものだ。



・学を絶てば憂い無し。

学ぶことによって、かえって苦悩が深くなる。 第二十章



・曲なれば則ち全し、枉がれば則ち直し。第二十二章

まっすぐな木よりも、曲がっている木こそ、その天寿を全うできる。



・道は常に無為にして、而も為さざるは無し 第三十七章

道は常に何事もなさないが、それでいて全てを成し遂げている。



・知りて知らずとするは上なり。 第七十一章

知っていても知らないとするのが最上である。