【奥の細道】
こころもとなく日数を重ねるままに、白川の関 にかかり旅心が定まった。古人が「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である。中でもこの関は、奥羽三関の一で、風騒の人は心ひかれるところ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なおあわれである。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそえて、雪の中をこえるような心地がする。古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと聞く。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
鑑賞(古人が正装して越えた関という。われら風狂の旅人であれば、今を盛りに咲き誇る卯の花をかんざしに差し、これを晴着にこの関越えるがふさわしかろう)
【曾良旅日記】
○白河の古関跡は、簱の宿の下へ一里ほど下野にある。追分というところに関の明神があるという。相楽乍憚より聞く。以下、丸印の文は乍憚よりの聞書き。
○忘れず山は、今は新地山という。但馬村というところより半道ほど東に行く。阿武隈河の側。
○二方の山は、今は二子塚村という。右、忘れず山より阿武隈河を渡って行く。二ヶ所とも関山より白河方面にあり、旧道となる。二方の山を詠んだ古歌がある。
みちのくの阿武隈河のわたり江に
人(妹とも)忘れずの山は有りけり
○うたたねの森は、白河からも近く、鹿島神社からも近い。今は木が一、二本残るのみ。
かしま成うたたねの森橋たえて
いなをふせどりも通はざりけり
(八雲御抄にあるという)
○宗祇(そうぎ)戻し橋は、白河の町より右手(石山からの入口である)、鹿島へ行く道のえた町にある。その片側に、なるほどそれらしき橋があった。むかし、結城氏 が何代目かに白河を知行したおり、一門衆が寄り集まって、鹿島で連歌興行 を催した。この時、難句あり。三日経っても誰にも付け句できない。旅行中の宗祇が宿でこれを聞き、鹿島へ行こうとすると、四十がらみの女がやってきて、宗祇に
「何用にて、何処方(いずかた)まで」
と問う。右の由、説明すると、女、
「それは、妾、さきほど付けました」
と答えて消えた。
月日の下に独りこそすめ
付句
かきおくる文のをくには名をとめて
と、書いてあったので、宗祇は感じ入り、その橋から引き返したと伝える。
【奥細道菅菰抄】
白川の関にかかり
この関は、奥州の入口、宮城郡の名所で古歌も多い。
○調べてみると、白河の手前、白坂という駅の南に、下野と陸奥との境がある。境の明神といって、ここに二社が立ち並ぶ。南を下野、北を陸奥の社であるという。ここが、あるいは昔の関跡ではなかろうか。今、白河といっているのは榊原家の城下にある宿駅のことである。
「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である
『拾遺集』、「便りあらばいかで都へ告やらんけふ白川のせきはこゆると」、平兼盛。
三関の一で
旧説によると、逢坂・鈴鹿・不破を三関という。白川の関を三関の一とすること、いまだ聞かず。
風騒の人
本字は「風繰」と書き、風雅に遊ぶことをいう。あるいは、通称にて、風藻、風操とも書いている。
秋風を耳に残し
『後拾遺集』、「都をば霞とともに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」、能因法師。
清輔の『袋草子』にいう。
「能因、実際奥州に下向してはいなかった。この歌を詠むために、ひそかに篭居(ろうきょ)。それで人々に能因は奥州にいった、と風聞をたてさせたとか。二度下向しているともいう。一度くらいは行ったのであろうか。八十島記を書いた」と。
『古今著聞集』にいう。
「能因は際立った数寄者で、この歌を都に居ながらにして出したのでは能がない、と考えた。人に知られず久しく籠って、自宅で日に当たり日焼けした後、陸奥の方へ修行に出かけた途路に詠んだもの、と披露した」。
紅葉を俤にして
『千載集』、「もみぢ葉の皆くれないに散しけば名のみ成けり白川の関」、左大弁親宗。
青葉の梢なおあわれである
「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしくしらかはのせき」、頼政。
ただし、本文のあわれは、「頼政の身のなれはてはあわれなりけり」、と詠んだあわれのごとく、天晴れという意味である。
卯の花の白妙に
『千載集』、「見て過ぐる人しなければうの花の咲(さく)る垣根やしら河の関」、藤原季通朝臣。
茨の花の咲きそえて
読み解くと、この句前後の言葉はすべて、古歌故事を折りはさんだ、ひたすら優美のみで、いわば歌人の文に似ているが、この一句をはさむことにより、すべてが俳文となったのだ。文章を学ぼうとする人、これを亀鑑(きかん)とすべきであろう。
雪の中をこえるような心地がする
『千載集』、「東路も年も末にやなりぬらん雪ふりにけり白川の関」、僧都印性。
古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと聞く
清輔の『袋草子』にいう。
「竹田の大夫国行という者、陸奥下向の時、白川の関を越える日は、ことさら装束を飾りつくろい、向かったと伝える。ある人が、その理由を聞いたところ、答えて、古曾部の入道が、『秋風ぞふく白川の関』と詠まれたところを、なぜ普段着などで通れようか、といった。殊勝なことである」。(古曾部の入道は能因のこと。伝来は以下にある)
『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW
こころもとなく日数を重ねるままに、白川の関 にかかり旅心が定まった。古人が「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である。中でもこの関は、奥羽三関の一で、風騒の人は心ひかれるところ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なおあわれである。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそえて、雪の中をこえるような心地がする。古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと聞く。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
鑑賞(古人が正装して越えた関という。われら風狂の旅人であれば、今を盛りに咲き誇る卯の花をかんざしに差し、これを晴着にこの関越えるがふさわしかろう)
【曾良旅日記】
○白河の古関跡は、簱の宿の下へ一里ほど下野にある。追分というところに関の明神があるという。相楽乍憚より聞く。以下、丸印の文は乍憚よりの聞書き。
○忘れず山は、今は新地山という。但馬村というところより半道ほど東に行く。阿武隈河の側。
○二方の山は、今は二子塚村という。右、忘れず山より阿武隈河を渡って行く。二ヶ所とも関山より白河方面にあり、旧道となる。二方の山を詠んだ古歌がある。
みちのくの阿武隈河のわたり江に
人(妹とも)忘れずの山は有りけり
○うたたねの森は、白河からも近く、鹿島神社からも近い。今は木が一、二本残るのみ。
かしま成うたたねの森橋たえて
いなをふせどりも通はざりけり
(八雲御抄にあるという)
○宗祇(そうぎ)戻し橋は、白河の町より右手(石山からの入口である)、鹿島へ行く道のえた町にある。その片側に、なるほどそれらしき橋があった。むかし、結城氏 が何代目かに白河を知行したおり、一門衆が寄り集まって、鹿島で連歌興行 を催した。この時、難句あり。三日経っても誰にも付け句できない。旅行中の宗祇が宿でこれを聞き、鹿島へ行こうとすると、四十がらみの女がやってきて、宗祇に
「何用にて、何処方(いずかた)まで」
と問う。右の由、説明すると、女、
「それは、妾、さきほど付けました」
と答えて消えた。
月日の下に独りこそすめ
付句
かきおくる文のをくには名をとめて
と、書いてあったので、宗祇は感じ入り、その橋から引き返したと伝える。
【奥細道菅菰抄】
白川の関にかかり
この関は、奥州の入口、宮城郡の名所で古歌も多い。
○調べてみると、白河の手前、白坂という駅の南に、下野と陸奥との境がある。境の明神といって、ここに二社が立ち並ぶ。南を下野、北を陸奥の社であるという。ここが、あるいは昔の関跡ではなかろうか。今、白河といっているのは榊原家の城下にある宿駅のことである。
「いかで都へ」と便りを求めたのも道理である
『拾遺集』、「便りあらばいかで都へ告やらんけふ白川のせきはこゆると」、平兼盛。
三関の一で
旧説によると、逢坂・鈴鹿・不破を三関という。白川の関を三関の一とすること、いまだ聞かず。
風騒の人
本字は「風繰」と書き、風雅に遊ぶことをいう。あるいは、通称にて、風藻、風操とも書いている。
秋風を耳に残し
『後拾遺集』、「都をば霞とともに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」、能因法師。
清輔の『袋草子』にいう。
「能因、実際奥州に下向してはいなかった。この歌を詠むために、ひそかに篭居(ろうきょ)。それで人々に能因は奥州にいった、と風聞をたてさせたとか。二度下向しているともいう。一度くらいは行ったのであろうか。八十島記を書いた」と。
『古今著聞集』にいう。
「能因は際立った数寄者で、この歌を都に居ながらにして出したのでは能がない、と考えた。人に知られず久しく籠って、自宅で日に当たり日焼けした後、陸奥の方へ修行に出かけた途路に詠んだもの、と披露した」。
紅葉を俤にして
『千載集』、「もみぢ葉の皆くれないに散しけば名のみ成けり白川の関」、左大弁親宗。
青葉の梢なおあわれである
「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしくしらかはのせき」、頼政。
ただし、本文のあわれは、「頼政の身のなれはてはあわれなりけり」、と詠んだあわれのごとく、天晴れという意味である。
卯の花の白妙に
『千載集』、「見て過ぐる人しなければうの花の咲(さく)る垣根やしら河の関」、藤原季通朝臣。
茨の花の咲きそえて
読み解くと、この句前後の言葉はすべて、古歌故事を折りはさんだ、ひたすら優美のみで、いわば歌人の文に似ているが、この一句をはさむことにより、すべてが俳文となったのだ。文章を学ぼうとする人、これを亀鑑(きかん)とすべきであろう。
雪の中をこえるような心地がする
『千載集』、「東路も年も末にやなりぬらん雪ふりにけり白川の関」、僧都印性。
古人が冠を正し、衣裳をあらためた故事など、清輔の筆にもとどめ置かれたと聞く
清輔の『袋草子』にいう。
「竹田の大夫国行という者、陸奥下向の時、白川の関を越える日は、ことさら装束を飾りつくろい、向かったと伝える。ある人が、その理由を聞いたところ、答えて、古曾部の入道が、『秋風ぞふく白川の関』と詠まれたところを、なぜ普段着などで通れようか、といった。殊勝なことである」。(古曾部の入道は能因のこと。伝来は以下にある)
『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW