源融とならび、中世を代表する“風流の貴公子”源博雅をご紹介しましょう。
博雅は、平安中期の貴族で音楽家。醍醐天皇の孫にあたり、官位にちなんで博雅三位の通称で知られます。雅楽を極め、世に並びなき管弦の名手として名を遺しました。
能の題材としても高名で、〈蝉丸〉〈玄象〉ではじめて博雅を知った方も多いのではないでしょうか。笛・琵琶・篳篥に通暁し、多くの中世説話集にそのエピソードが見られます。
藤原実資は『小右記』で、
「博雅の如きは文筆・管弦家なり。ただし天下懈怠の白物(しれもの)なり」
と評しました。芸道一筋、風流に命をかけた博雅にとって世事はすべて雑事。「芸術三昧、怠け者の大うつけ」は賛辞であったかもしれません。
さて、面白いのはこうした説話集で博雅と風流を競うのが、人ではなく鬼であるということ。鬼と風流は一見かけ離れて見えますが、他の説話・伝承類を見ても古来鬼は歌や音楽を愛したようです。芸の秘奥が鬼神に通ずるたとえとして世阿弥は「巌に花の咲かんがごとし」という名言を遺しました。鬼と日本の芸能については後日稿をあらためるとして、名高い博雅の逸話を『今昔物語集』『十訓抄』より三篇ご案内しましょう。【言の葉庵】現代語訳でお届けします。
■今昔物語集
・源博雅が逢坂の関の盲人を訪ねる (巻二十四第二十三話)
今は昔、源博雅朝臣という人がいました。醍醐天皇の子、兵部卿親王の子にあたります。よろずの道に通ずる人でしたが、とりわけ管弦を極めていました。琵琶の音は妙技に達し、笛の音は艶やかに響きわたったもの。村上天皇の御代に、とかく評判となった殿上人なのです。
さてその頃、逢坂の関に一人の盲人が庵を結んでいました。名を蝉丸といいます。盲人はかつて式部卿の宮、敦実親王のしもべでした。敦実親王は宇多天皇の子で管弦の達人。蝉丸は長年宮の弾く琵琶を聞く内に、琵琶の奥儀を極めるほどになったのです。
博雅も琵琶の道一筋に精進。逢坂の関の盲人が琵琶の名手であると聞き、その演奏をいつか聞きたいものだと思っていました。しかし盲人の住まいがあまりにみすぼらしく、訪ねることもできません。そこで内々に人を遣ってこう伝えさせたのです。
「なにゆえかような所に住んでいるのですか。京に来て住めば良いのでは」
蝉丸は言伝を受け取ると、それには答えず一首。
世の中はとてもかくても過ごしてむ 宮も藁家もはてしなければ
(今生は仮の世。どこでどのように生きても同じことです。立派な宮殿もみすぼらい藁家もそこで永遠に生き続けることなどできないのですから)
使者の復命を聞き、博雅は深く心を動かされるのです。
「われはこの一道をひたと追い求め、なんとしてもかの盲人に会いたいもの、と念じてきた。盲人の命には限りがあり、われもまたしかり。琵琶に〈流泉〉〈啄木〉という秘曲がある。これらの曲は後代に伝えねばならぬ。今はかの盲人のみが知るというのだ。どうあっても蝉丸の弾く琵琶を聞かねばなるまい」
と思い、ある夜逢坂の関を訪ねました。庵の外から伺ってみましたが、蝉丸はかの曲を弾くことはありません。その後三年間、夜ごと逢坂の関へ忍び、かの秘曲を今弾くか、今弾くかと立ち聞きを続けたのですが、ついに聞けなかったのです。
三年目の八月十五夜。名月が雲からのぞき、さやさやと風は渡っていきます。
「ああ、なんと風流な今宵の月。今夜こそ蝉丸の〈流泉〉〈啄木〉を聞くことができよう」
と、博雅は信じ、逢坂に急いで行きました。庵の外で耳を澄ますと、盲人はいつになく琵琶を神妙にかき鳴らしては、物思いにふける様子。博雅はさてこそと喜んで集中すると、盲人は感極まり独り詠じるのでした。
逢坂の関の嵐のはげしきに しひてぞ居たる世を過ごすとて
(逢坂をいかにはげしく嵐が吹き渡ろうとも寄る辺のない私はここにしがみつくしかないのです)
と、琵琶をかき鳴らす。博雅はこれに涙を流し、心も打ちふるえんばかりです。蝉丸の独白は続きます。
「なんと趣深い夜かな。われ以外風流を解する人も世にないものか。今夜は心ある人こそ待ち遠しい。ともに語り合いたいものだ」
博雅はこれを聞くと、初めて声を出しました。
「都から来た源博雅という者が、ここに居りますよ」
「あなたはいったいどのようなお方でしょうか」
「私はかくかくしかじかの者です。この道にひたすら打ち込んできましたので、この三年間、あなたの庵近くを訪ねていたのです。今夜、あなたに逢うことがかないました」
蝉丸はこれを聞くと喜び、博雅も心躍らせ庵に入るのでした。互いに物語りする内、博雅が
「〈流泉〉〈啄木〉をお聞かせいただけませんか」
と願うと、盲人は、
「今は亡き宮はこのように弾かれたものです」
と例の秘曲を博雅に相伝してくれたのです。
博雅はこの時琵琶を携えてはいなかったゆえ、口伝えだけでこれを習い、心より感謝しました。やがて夜明けとともに庵を辞すのでした。
この話を聞くにつけ、世の芸道はかくありたいものです。しかし近頃はこうしたことはなく、末代には名人達人は世に絶えてしまうかもしれません。まことにこれを感動的な逸話です。
蝉丸、もとは卑しい者とはいえ、長年宮の弾く琵琶を聞き、このような名人となりました。しかし盲人となってしまったゆえ、逢坂に住まいしたのです。これより以降、盲人の琵琶師が世に始まったと語り伝えています。
・玄象の琵琶が鬼に盗られる (巻二十四第二十四話)
今は昔、村上天皇の御代に玄象という名の琵琶がにわかに紛失してしまいました。
これは代々皇室に伝わる尊い宝物。天皇の悲嘆はひとかたならず、
「かけがえのない伝来品が朕の代で失われてしまうとは」
とおっしゃられるのも詮方ないことです。
「誰が盗んだのであろうか。しかし誰であろうと世にかくれもなき名器。隠しおおすことはかなうまい。天皇をよろしからず思う者のしわざで、盗んで壊し、捨ててしまったものか」
と心配されるのでした。
さてこの頃、源博雅という殿上人がいました。管弦の道を極めた人でしたので、玄象の紛失にたいそう心を痛めていたのです。
ある夜人々が寝静まった後、博雅が一人清涼殿でいると、南の方から、かの玄象の音色が聞こえてきます。ひどく驚き、空耳かと思ってもう一度よく耳を澄ましてみるとまさしく玄象に間違いありません。博雅ほどの管弦の達人が聞き誤るわけもなく、かえすがえす驚くばかり。
そこで誰にも告げず、直衣姿に沓だけをはき、供の少年一人をつれて侍の詰所を出ました。
しばらく南へ向かうと、さらに南から音が聞こえてくる。さほど遠くではあるまい、と歩く内に朱雀門に着いたのです。しかし依然音は同じように南から聞こえてきます。さらに朱雀大路を南に下っていく。心中に、
「盗人めが玄象を高いやぐらの上でひそかに弾いているのだろう」
と考え、小走りでやぐらに着くとさらに南から、今度ははっきりと聞こえてきます。さらに南へ向かい、とうとう羅生門にたどり着きました。
博雅が門の下に立つと、楼上で誰かが玄象を奏でています。
「これは人の弾く音とも思えぬ。きっと鬼などが弾いているに違いない」
と思った瞬間、はたと音が止む。ややあって、また弾きだしたので博雅は、
「いったい誰が弾いておるのだ。玄象が消え失せてより天皇は探していらっしゃる。今宵われが清涼殿に居ると南の方からこの音が聞こえてきた。それでここまで参ったのだ」
というと琵琶を弾き終えたのです。天井より何かが降りてくる。恐ろしさに、一歩引いて見てみれば、玄象をひもでくくり上から降ろしてきたのでした。博雅は恐る恐るこれを取ると、内裏に持ち帰りました。この顛末を奏上し、玄象をたてまつると、天皇は御感のあまり、
「鬼が盗ったのだなあ」
と仰せられたのです。人みな博雅に賛辞を惜しみませんでした。
かの玄象は今、御物として宮中に保管されます。玄象はまるで生き物のようでした。下手が手にしてうまく奏でられぬ時は、腹を立てて一向に鳴らないのです。塵がつもり、きれいに手入れをしない時も腹を立て鳴りません。その様子が人に見えるというのです。
内裏で火事が起きた時など、誰も取り出していないのに、玄象はひとりでに出て、庭にあったということでした。なんとも不思議なこと、と人々は語り伝えたものです。
■十訓抄
(巻十第二十話)
月の明るい夜。博雅三位が直衣姿で朱雀門の前をそぞろ歩いていました。夜もすがら、笛を吹き遊んでいると、同じように直衣姿の男が笛を吹きながら歩いてきます。
「いったい誰であろうか」
と耳をそばだててみると、その者の笛の音は、世に類のないほど美しい。不審に思い近寄って見たものの博雅のまるで知らない人でした。
われも話しかけず、かれも話しかけず。二人はこのようにして月の夜ごとに行き交い、一晩中笛を吹きあったのです。
その者の笛があまりに見事なので、ためしに笛を交換してみるとかつて見たこともないほどの名笛でした。その後も月夜ごとに笛を吹き交わしたのですが、かの者は「笛を返せ」ともいわないので、笛はそのまま博雅の手元に残りました。
博雅が亡くなった後、帝がこの笛を譲られたため、当時の上手どもに吹かせてみたのですが、誰も博雅のように吹き鳴らせる者はありません。
その後、浄蔵という笛の名人が現れました。帝がこの者を召して吹かせてみると博雅に劣らず吹きこなしたものです。帝は御感のあまり、
「そもそもこの笛の持ち主は朱雀門あたりでこれを得たという。浄蔵よ、そこへ行って吹いてみよ」
と仰せられたのです。月の夜、帝の仰せにしたがい朱雀門へ行きこの笛を吹いてみました。
その時、
「いまだ逸物かな」
と、楼上より雷のごとき音声が落ちてきて、浄蔵の笛を称えたのです。これを帝に奏上したため、はじめてかの笛は鬼のものであったと知れました。
これが葉二(はふたつ)と称される天下第一の名笛です。その後、藤原道長に伝わって御物となり、さらに藤原頼通が平等院を造営した時に経蔵に収めました。
笛には葉の絵が二つあります。一つは赤い葉、もう一つは青い葉。毎朝、葉の部分に露を置くといわれたのですが、藤原師実が見た時は、赤い葉が落ち露はつかなかったと、後に藤原忠実殿が語られたとか。
笛の逸品は、皇帝(おうだい)、団乱旋(とらんでん)、師子、荒序。これらが、四秘曲とよばれています。これらに劣らず秘蔵されるのが、万秋楽の五六帖。現在笛の最上品は、青葉、葉二、大水龍、小水龍、頭焼、雲大丸です。その名にはそれぞれいわれもありますが、長くなるためここでは略します。
(以上三篇 現代語訳 水野聡 能文社2016)
博雅は、平安中期の貴族で音楽家。醍醐天皇の孫にあたり、官位にちなんで博雅三位の通称で知られます。雅楽を極め、世に並びなき管弦の名手として名を遺しました。
能の題材としても高名で、〈蝉丸〉〈玄象〉ではじめて博雅を知った方も多いのではないでしょうか。笛・琵琶・篳篥に通暁し、多くの中世説話集にそのエピソードが見られます。
藤原実資は『小右記』で、
「博雅の如きは文筆・管弦家なり。ただし天下懈怠の白物(しれもの)なり」
と評しました。芸道一筋、風流に命をかけた博雅にとって世事はすべて雑事。「芸術三昧、怠け者の大うつけ」は賛辞であったかもしれません。
さて、面白いのはこうした説話集で博雅と風流を競うのが、人ではなく鬼であるということ。鬼と風流は一見かけ離れて見えますが、他の説話・伝承類を見ても古来鬼は歌や音楽を愛したようです。芸の秘奥が鬼神に通ずるたとえとして世阿弥は「巌に花の咲かんがごとし」という名言を遺しました。鬼と日本の芸能については後日稿をあらためるとして、名高い博雅の逸話を『今昔物語集』『十訓抄』より三篇ご案内しましょう。【言の葉庵】現代語訳でお届けします。
■今昔物語集
・源博雅が逢坂の関の盲人を訪ねる (巻二十四第二十三話)
今は昔、源博雅朝臣という人がいました。醍醐天皇の子、兵部卿親王の子にあたります。よろずの道に通ずる人でしたが、とりわけ管弦を極めていました。琵琶の音は妙技に達し、笛の音は艶やかに響きわたったもの。村上天皇の御代に、とかく評判となった殿上人なのです。
さてその頃、逢坂の関に一人の盲人が庵を結んでいました。名を蝉丸といいます。盲人はかつて式部卿の宮、敦実親王のしもべでした。敦実親王は宇多天皇の子で管弦の達人。蝉丸は長年宮の弾く琵琶を聞く内に、琵琶の奥儀を極めるほどになったのです。
博雅も琵琶の道一筋に精進。逢坂の関の盲人が琵琶の名手であると聞き、その演奏をいつか聞きたいものだと思っていました。しかし盲人の住まいがあまりにみすぼらしく、訪ねることもできません。そこで内々に人を遣ってこう伝えさせたのです。
「なにゆえかような所に住んでいるのですか。京に来て住めば良いのでは」
蝉丸は言伝を受け取ると、それには答えず一首。
世の中はとてもかくても過ごしてむ 宮も藁家もはてしなければ
(今生は仮の世。どこでどのように生きても同じことです。立派な宮殿もみすぼらい藁家もそこで永遠に生き続けることなどできないのですから)
使者の復命を聞き、博雅は深く心を動かされるのです。
「われはこの一道をひたと追い求め、なんとしてもかの盲人に会いたいもの、と念じてきた。盲人の命には限りがあり、われもまたしかり。琵琶に〈流泉〉〈啄木〉という秘曲がある。これらの曲は後代に伝えねばならぬ。今はかの盲人のみが知るというのだ。どうあっても蝉丸の弾く琵琶を聞かねばなるまい」
と思い、ある夜逢坂の関を訪ねました。庵の外から伺ってみましたが、蝉丸はかの曲を弾くことはありません。その後三年間、夜ごと逢坂の関へ忍び、かの秘曲を今弾くか、今弾くかと立ち聞きを続けたのですが、ついに聞けなかったのです。
三年目の八月十五夜。名月が雲からのぞき、さやさやと風は渡っていきます。
「ああ、なんと風流な今宵の月。今夜こそ蝉丸の〈流泉〉〈啄木〉を聞くことができよう」
と、博雅は信じ、逢坂に急いで行きました。庵の外で耳を澄ますと、盲人はいつになく琵琶を神妙にかき鳴らしては、物思いにふける様子。博雅はさてこそと喜んで集中すると、盲人は感極まり独り詠じるのでした。
逢坂の関の嵐のはげしきに しひてぞ居たる世を過ごすとて
(逢坂をいかにはげしく嵐が吹き渡ろうとも寄る辺のない私はここにしがみつくしかないのです)
と、琵琶をかき鳴らす。博雅はこれに涙を流し、心も打ちふるえんばかりです。蝉丸の独白は続きます。
「なんと趣深い夜かな。われ以外風流を解する人も世にないものか。今夜は心ある人こそ待ち遠しい。ともに語り合いたいものだ」
博雅はこれを聞くと、初めて声を出しました。
「都から来た源博雅という者が、ここに居りますよ」
「あなたはいったいどのようなお方でしょうか」
「私はかくかくしかじかの者です。この道にひたすら打ち込んできましたので、この三年間、あなたの庵近くを訪ねていたのです。今夜、あなたに逢うことがかないました」
蝉丸はこれを聞くと喜び、博雅も心躍らせ庵に入るのでした。互いに物語りする内、博雅が
「〈流泉〉〈啄木〉をお聞かせいただけませんか」
と願うと、盲人は、
「今は亡き宮はこのように弾かれたものです」
と例の秘曲を博雅に相伝してくれたのです。
博雅はこの時琵琶を携えてはいなかったゆえ、口伝えだけでこれを習い、心より感謝しました。やがて夜明けとともに庵を辞すのでした。
この話を聞くにつけ、世の芸道はかくありたいものです。しかし近頃はこうしたことはなく、末代には名人達人は世に絶えてしまうかもしれません。まことにこれを感動的な逸話です。
蝉丸、もとは卑しい者とはいえ、長年宮の弾く琵琶を聞き、このような名人となりました。しかし盲人となってしまったゆえ、逢坂に住まいしたのです。これより以降、盲人の琵琶師が世に始まったと語り伝えています。
・玄象の琵琶が鬼に盗られる (巻二十四第二十四話)
今は昔、村上天皇の御代に玄象という名の琵琶がにわかに紛失してしまいました。
これは代々皇室に伝わる尊い宝物。天皇の悲嘆はひとかたならず、
「かけがえのない伝来品が朕の代で失われてしまうとは」
とおっしゃられるのも詮方ないことです。
「誰が盗んだのであろうか。しかし誰であろうと世にかくれもなき名器。隠しおおすことはかなうまい。天皇をよろしからず思う者のしわざで、盗んで壊し、捨ててしまったものか」
と心配されるのでした。
さてこの頃、源博雅という殿上人がいました。管弦の道を極めた人でしたので、玄象の紛失にたいそう心を痛めていたのです。
ある夜人々が寝静まった後、博雅が一人清涼殿でいると、南の方から、かの玄象の音色が聞こえてきます。ひどく驚き、空耳かと思ってもう一度よく耳を澄ましてみるとまさしく玄象に間違いありません。博雅ほどの管弦の達人が聞き誤るわけもなく、かえすがえす驚くばかり。
そこで誰にも告げず、直衣姿に沓だけをはき、供の少年一人をつれて侍の詰所を出ました。
しばらく南へ向かうと、さらに南から音が聞こえてくる。さほど遠くではあるまい、と歩く内に朱雀門に着いたのです。しかし依然音は同じように南から聞こえてきます。さらに朱雀大路を南に下っていく。心中に、
「盗人めが玄象を高いやぐらの上でひそかに弾いているのだろう」
と考え、小走りでやぐらに着くとさらに南から、今度ははっきりと聞こえてきます。さらに南へ向かい、とうとう羅生門にたどり着きました。
博雅が門の下に立つと、楼上で誰かが玄象を奏でています。
「これは人の弾く音とも思えぬ。きっと鬼などが弾いているに違いない」
と思った瞬間、はたと音が止む。ややあって、また弾きだしたので博雅は、
「いったい誰が弾いておるのだ。玄象が消え失せてより天皇は探していらっしゃる。今宵われが清涼殿に居ると南の方からこの音が聞こえてきた。それでここまで参ったのだ」
というと琵琶を弾き終えたのです。天井より何かが降りてくる。恐ろしさに、一歩引いて見てみれば、玄象をひもでくくり上から降ろしてきたのでした。博雅は恐る恐るこれを取ると、内裏に持ち帰りました。この顛末を奏上し、玄象をたてまつると、天皇は御感のあまり、
「鬼が盗ったのだなあ」
と仰せられたのです。人みな博雅に賛辞を惜しみませんでした。
かの玄象は今、御物として宮中に保管されます。玄象はまるで生き物のようでした。下手が手にしてうまく奏でられぬ時は、腹を立てて一向に鳴らないのです。塵がつもり、きれいに手入れをしない時も腹を立て鳴りません。その様子が人に見えるというのです。
内裏で火事が起きた時など、誰も取り出していないのに、玄象はひとりでに出て、庭にあったということでした。なんとも不思議なこと、と人々は語り伝えたものです。
■十訓抄
(巻十第二十話)
月の明るい夜。博雅三位が直衣姿で朱雀門の前をそぞろ歩いていました。夜もすがら、笛を吹き遊んでいると、同じように直衣姿の男が笛を吹きながら歩いてきます。
「いったい誰であろうか」
と耳をそばだててみると、その者の笛の音は、世に類のないほど美しい。不審に思い近寄って見たものの博雅のまるで知らない人でした。
われも話しかけず、かれも話しかけず。二人はこのようにして月の夜ごとに行き交い、一晩中笛を吹きあったのです。
その者の笛があまりに見事なので、ためしに笛を交換してみるとかつて見たこともないほどの名笛でした。その後も月夜ごとに笛を吹き交わしたのですが、かの者は「笛を返せ」ともいわないので、笛はそのまま博雅の手元に残りました。
博雅が亡くなった後、帝がこの笛を譲られたため、当時の上手どもに吹かせてみたのですが、誰も博雅のように吹き鳴らせる者はありません。
その後、浄蔵という笛の名人が現れました。帝がこの者を召して吹かせてみると博雅に劣らず吹きこなしたものです。帝は御感のあまり、
「そもそもこの笛の持ち主は朱雀門あたりでこれを得たという。浄蔵よ、そこへ行って吹いてみよ」
と仰せられたのです。月の夜、帝の仰せにしたがい朱雀門へ行きこの笛を吹いてみました。
その時、
「いまだ逸物かな」
と、楼上より雷のごとき音声が落ちてきて、浄蔵の笛を称えたのです。これを帝に奏上したため、はじめてかの笛は鬼のものであったと知れました。
これが葉二(はふたつ)と称される天下第一の名笛です。その後、藤原道長に伝わって御物となり、さらに藤原頼通が平等院を造営した時に経蔵に収めました。
笛には葉の絵が二つあります。一つは赤い葉、もう一つは青い葉。毎朝、葉の部分に露を置くといわれたのですが、藤原師実が見た時は、赤い葉が落ち露はつかなかったと、後に藤原忠実殿が語られたとか。
笛の逸品は、皇帝(おうだい)、団乱旋(とらんでん)、師子、荒序。これらが、四秘曲とよばれています。これらに劣らず秘蔵されるのが、万秋楽の五六帖。現在笛の最上品は、青葉、葉二、大水龍、小水龍、頭焼、雲大丸です。その名にはそれぞれいわれもありますが、長くなるためここでは略します。
(以上三篇 現代語訳 水野聡 能文社2016)
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