「君のおかげでこんなに心がなく、物ばかりのいやな日本になってしまった。君の責任で直してもらわなければならない」
鋭い眼光で相手を見据え、大喝する大徳寺の高僧立花大亀老師。その前で黙ってかしこまるのが経営の神様松下幸之助。
大徳寺派最高顧問で政財界とも幅広い交友がある大亀師の教えを乞うため、幸之助が酒飯を共にした。その場での出来事でした。
http://toyokeizai.net/articles/-/61786
同席した側近の江口克彦氏は心酔する経営の師を一喝されて驚く。しかも幸之助は大亀より5歳年長です。「批判してくれる人を大事にせよ」と幸之助から教えられていたにもかかわらず、やりきれぬ思いに身を固くします。さんざん幸之助を批判し尽した大亀が「まあ、こんなもんやろ」というと幸之助は「いや。もっともっとお聞きしたいんですが」とさらに教えを乞い続けたといいます。
やがて退席する幸之助の背中を見送りながら、大亀は江口にぽつり。
「松下さんは、偉い人やな。あんな偉い人はおらん」。
後に大亀は「松下批判」をふっつりと止め、幸之助は松下政経塾を設立。国のリーダーを育て、経済が人を救う経世済民を実現するのです。
さてまた別の日、大亀老師とある経済学者の出会いが、経世済民と侘び茶をいっそう強く結びつけることとなりました。
ケインズの高弟であり経済学の世界的権威、ロイ・ハロッド。講演のため日本を訪れたハロッド一行は、京都見物の途次大徳寺を訪れます。出迎えたのが大亀老師。一行を一休和尚の真珠庵にある二畳台目の茶室へと案内しました。大亀とあわせハロッド一行の七人が、茶を喫するため、狭い小さな部屋に入る…。
(7年前、【言の葉庵】にて『利休に帰れ』より同段落の骨子概略をお届けしましたが、今回は本文より引用してご紹介しましょう。)
するとハロッド氏は、ここは何をするところかと聞いてきました。ここは茶室といってお茶を
飲むところですよと答えました。ハロッド氏はけげんそうな顔をして、向こうにもっと広くて明るい部屋があるのに、どうしてこんな狭いところで飲むのか、と言います。
それで私は、実は日本には佗びという思想がある。イギリスには、タバコを吸う部屋というものがあって、ソファにすわって葉巻を吸う。タバコの喜びを吸う場所がある。それと同じで、日本人は小さな部屋で茶を飲むのです。この小間の薄暗いところで飲む茶は、私たち日本人には何よりもうまいのです、と答えました。
「その佗びというのは、どんな思想なのか」とハロッド氏はさらに聞いてきました。これには私もちょっと困った。日本人同士でも佗びの説明は困難なのに、相手は外国人である。そこで私は
少し考えて、
「佗びとは詫びるということです。すみませんと謝ることです」
と答えました。
「なぜ詫びなければならないのか。私は何も悪いことをしていないのに、どうして謝らなければならないのか」
そうハロッド氏は申しました。
「いや、ハロッドさん、それは違います。あなたがたご夫妻、ならびにお子さんがたによって、これまで牛を何頓食べましたか、豚を何頭殺しましたか。そのためにあなたがたが今日まで生き長らえることができているのなら、牛や豚に詫びないという法はない。あなたの国にも、六日間悪いことをして、七日目に神様に詫びるという思想があるではないか。そういう考えを持たずに、弱肉強食でいったあなたの国は、確かに一時期七つの海を支配しました。しかしその結果はどうでしょう。あなたの国が支配した国々はすべて独立し、離れていってしまったではありませんか。仏教には因果応報という考え方があるが、まさにあなたの国はそうなった。むろん、人であるから、弱肉強食からのがれられる人はいない。生きていくためには、生きとし生けるものをやむをえず殺害せねばならぬ。しかしたいせつなのは、十頭殺さなければならないところを八頭でがまんすることです。つまり、省くということです。そうすれば二頭が残る。二頭生かすことができる。しかもそれはただ十のものを八に省くというだけではない。八で十の働きをさせる。それが私の言う佗びという考え方なのです」
そういう意味のことを申し上げました。するとハロッド氏は驚いて、
「それはまさに私の研発するケインズ経済学です。そんなすばらしい思想が日本にあるとは知
らなかった」
と言って、非常に感動した。彼が帰国してしばらくして、一枚のパンフレットが送られてきました。「日本を訪れて」という題で、それには、日本を訪問して得たいちばん大きな収穫は、佗びの思想を知ったことだ、と書いてありました。
数年後、ハロッド氏は、みずからの希望で再度来日しました。そして私に会うなり、一枚の紙きれをよこしました。通訳の人に読んでもらうと、それには「ワビの語源はギリシヤ語です。前回の日本訪問以来、私はずっと佗びについて研究してきました」と書いてあるではありませんか。それを聞いて、私はハッとしました。
以前から、人類発生の地は、私はギリシヤから中近東あたりだと思っておりました。原始時代の人間にとって、何がいちばん恐怖であったか。それは言うまでもなく、他生物です。とりわけ巨大生物から身を守るためには、海へ逃げても、山へ逃げても無駄です。最も安全なのは、山の斜面に横穴を掘って、そこへ逃げ込むことです。この、生き延びるための穴居生活、それこそが佗びということであったのではありますまいか。ワビの語源がギリシヤ語だということは、そういう意味ではなかったかと私は解釈しているのです。
苦しいけれども、なんとかして命を全うすること、それが佗びです。「鉢木」の佐野源左衛門常世は、極貧の中で命を全うしました。「松風」の行平の中納言は、三年に及ぶ須磨浦での佗び住まいに耐えて、やはり命を全うしました。では、利休もまた、おのが命を全うするために茶をやったのでしょうか。
前にも申しましたように、利休の形姿上のお茶には佗びなどありません。そんな貧困なものではない。利休の「百会記」などを見ると、あるときは太閤秀吉をよび、またあるときには徳川家康をよび、それはそれは絢爛憂華なお茶をやっている。一椀の鶴の扱い物を出すために、鶴一羽を殺しています。園悟の墨蹟、喜左衛門井戸、そういった当時の第一級品を平気で取り扱っている。どこにも佗びらしきものはない。
しかし、もし佗びが生き延びるための道だとするなら、まさしく利休の茶は佗びでした。つまり堺を救うために、自分の命を全うするために、太閤秀吉の茶くみ男となった。
その屈辱に耐え、小間の穴居生活に耐えた。それが利休の佗びであったとするのです。
自刃を命じられたとき、周囲の者は利休に、政所に命乞いをすることをすすめました。しかし利休は、この七十の白髪頭が、あえて女の力で生き残ろうとは思わない、といって拒否した。そしてあの有名な辞世の偈を残して死んでおります。
(『利休に帰れ―いま茶の心を問う』立花大亀 里文出版2010/2/15)
●立花大亀(たちばな だいき)
明治32(1899)年、大阪堺市生まれ
大正10(1921)年、堺市南宗寺にて得度。
昭和6(1931)年、大徳寺塔頭徳禅寺住職。
昭和28(1953)年より34年まで大徳寺宗務総長、のち顧問、管長代務。
昭和43(1968)年5月、大徳寺511世住持となる。以後、大徳寺最高顧問。
昭和47(1972)年、大徳寺山内に如意庵再興。
昭和54(1979)年、奈良大宇陀に松源院再建。
昭和57(1982)年より昭和61年まで花園大学学長。
平成17(2005)年8月25日、107歳にて遷化。
鋭い眼光で相手を見据え、大喝する大徳寺の高僧立花大亀老師。その前で黙ってかしこまるのが経営の神様松下幸之助。
大徳寺派最高顧問で政財界とも幅広い交友がある大亀師の教えを乞うため、幸之助が酒飯を共にした。その場での出来事でした。
http://toyokeizai.net/articles/-/61786
同席した側近の江口克彦氏は心酔する経営の師を一喝されて驚く。しかも幸之助は大亀より5歳年長です。「批判してくれる人を大事にせよ」と幸之助から教えられていたにもかかわらず、やりきれぬ思いに身を固くします。さんざん幸之助を批判し尽した大亀が「まあ、こんなもんやろ」というと幸之助は「いや。もっともっとお聞きしたいんですが」とさらに教えを乞い続けたといいます。
やがて退席する幸之助の背中を見送りながら、大亀は江口にぽつり。
「松下さんは、偉い人やな。あんな偉い人はおらん」。
後に大亀は「松下批判」をふっつりと止め、幸之助は松下政経塾を設立。国のリーダーを育て、経済が人を救う経世済民を実現するのです。
さてまた別の日、大亀老師とある経済学者の出会いが、経世済民と侘び茶をいっそう強く結びつけることとなりました。
ケインズの高弟であり経済学の世界的権威、ロイ・ハロッド。講演のため日本を訪れたハロッド一行は、京都見物の途次大徳寺を訪れます。出迎えたのが大亀老師。一行を一休和尚の真珠庵にある二畳台目の茶室へと案内しました。大亀とあわせハロッド一行の七人が、茶を喫するため、狭い小さな部屋に入る…。
(7年前、【言の葉庵】にて『利休に帰れ』より同段落の骨子概略をお届けしましたが、今回は本文より引用してご紹介しましょう。)
するとハロッド氏は、ここは何をするところかと聞いてきました。ここは茶室といってお茶を
飲むところですよと答えました。ハロッド氏はけげんそうな顔をして、向こうにもっと広くて明るい部屋があるのに、どうしてこんな狭いところで飲むのか、と言います。
それで私は、実は日本には佗びという思想がある。イギリスには、タバコを吸う部屋というものがあって、ソファにすわって葉巻を吸う。タバコの喜びを吸う場所がある。それと同じで、日本人は小さな部屋で茶を飲むのです。この小間の薄暗いところで飲む茶は、私たち日本人には何よりもうまいのです、と答えました。
「その佗びというのは、どんな思想なのか」とハロッド氏はさらに聞いてきました。これには私もちょっと困った。日本人同士でも佗びの説明は困難なのに、相手は外国人である。そこで私は
少し考えて、
「佗びとは詫びるということです。すみませんと謝ることです」
と答えました。
「なぜ詫びなければならないのか。私は何も悪いことをしていないのに、どうして謝らなければならないのか」
そうハロッド氏は申しました。
「いや、ハロッドさん、それは違います。あなたがたご夫妻、ならびにお子さんがたによって、これまで牛を何頓食べましたか、豚を何頭殺しましたか。そのためにあなたがたが今日まで生き長らえることができているのなら、牛や豚に詫びないという法はない。あなたの国にも、六日間悪いことをして、七日目に神様に詫びるという思想があるではないか。そういう考えを持たずに、弱肉強食でいったあなたの国は、確かに一時期七つの海を支配しました。しかしその結果はどうでしょう。あなたの国が支配した国々はすべて独立し、離れていってしまったではありませんか。仏教には因果応報という考え方があるが、まさにあなたの国はそうなった。むろん、人であるから、弱肉強食からのがれられる人はいない。生きていくためには、生きとし生けるものをやむをえず殺害せねばならぬ。しかしたいせつなのは、十頭殺さなければならないところを八頭でがまんすることです。つまり、省くということです。そうすれば二頭が残る。二頭生かすことができる。しかもそれはただ十のものを八に省くというだけではない。八で十の働きをさせる。それが私の言う佗びという考え方なのです」
そういう意味のことを申し上げました。するとハロッド氏は驚いて、
「それはまさに私の研発するケインズ経済学です。そんなすばらしい思想が日本にあるとは知
らなかった」
と言って、非常に感動した。彼が帰国してしばらくして、一枚のパンフレットが送られてきました。「日本を訪れて」という題で、それには、日本を訪問して得たいちばん大きな収穫は、佗びの思想を知ったことだ、と書いてありました。
数年後、ハロッド氏は、みずからの希望で再度来日しました。そして私に会うなり、一枚の紙きれをよこしました。通訳の人に読んでもらうと、それには「ワビの語源はギリシヤ語です。前回の日本訪問以来、私はずっと佗びについて研究してきました」と書いてあるではありませんか。それを聞いて、私はハッとしました。
以前から、人類発生の地は、私はギリシヤから中近東あたりだと思っておりました。原始時代の人間にとって、何がいちばん恐怖であったか。それは言うまでもなく、他生物です。とりわけ巨大生物から身を守るためには、海へ逃げても、山へ逃げても無駄です。最も安全なのは、山の斜面に横穴を掘って、そこへ逃げ込むことです。この、生き延びるための穴居生活、それこそが佗びということであったのではありますまいか。ワビの語源がギリシヤ語だということは、そういう意味ではなかったかと私は解釈しているのです。
苦しいけれども、なんとかして命を全うすること、それが佗びです。「鉢木」の佐野源左衛門常世は、極貧の中で命を全うしました。「松風」の行平の中納言は、三年に及ぶ須磨浦での佗び住まいに耐えて、やはり命を全うしました。では、利休もまた、おのが命を全うするために茶をやったのでしょうか。
前にも申しましたように、利休の形姿上のお茶には佗びなどありません。そんな貧困なものではない。利休の「百会記」などを見ると、あるときは太閤秀吉をよび、またあるときには徳川家康をよび、それはそれは絢爛憂華なお茶をやっている。一椀の鶴の扱い物を出すために、鶴一羽を殺しています。園悟の墨蹟、喜左衛門井戸、そういった当時の第一級品を平気で取り扱っている。どこにも佗びらしきものはない。
しかし、もし佗びが生き延びるための道だとするなら、まさしく利休の茶は佗びでした。つまり堺を救うために、自分の命を全うするために、太閤秀吉の茶くみ男となった。
その屈辱に耐え、小間の穴居生活に耐えた。それが利休の佗びであったとするのです。
自刃を命じられたとき、周囲の者は利休に、政所に命乞いをすることをすすめました。しかし利休は、この七十の白髪頭が、あえて女の力で生き残ろうとは思わない、といって拒否した。そしてあの有名な辞世の偈を残して死んでおります。
(『利休に帰れ―いま茶の心を問う』立花大亀 里文出版2010/2/15)
●立花大亀(たちばな だいき)
明治32(1899)年、大阪堺市生まれ
大正10(1921)年、堺市南宗寺にて得度。
昭和6(1931)年、大徳寺塔頭徳禅寺住職。
昭和28(1953)年より34年まで大徳寺宗務総長、のち顧問、管長代務。
昭和43(1968)年5月、大徳寺511世住持となる。以後、大徳寺最高顧問。
昭和47(1972)年、大徳寺山内に如意庵再興。
昭和54(1979)年、奈良大宇陀に松源院再建。
昭和57(1982)年より昭和61年まで花園大学学長。
平成17(2005)年8月25日、107歳にて遷化。
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