門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

人間国宝による厳島神社能イベント!

2010-07-14 17:05:08 | 日記
現代最高の能役者、人間国宝友枝昭世師による
「第十四回友枝昭世厳島観月能」が、10/5
世界遺産である宮島厳島神社能舞台で開催されます。

昨年は「紅葉狩」。
舞台にありえない自然による奇跡が起こりました。
当方もその場におり、実際に体験しました。
場の霊力と舞手の神がかった芸の力によるものです。
今年は「八島」を舞われます。
どのような素晴らしい舞台となるか、予想もつきません。

さて今年も当方の能楽ガイド付で、観月能観劇ツアーを
企画しています。詳細は8月頭頃お知らせいたします。
能楽堂では絶対に味わえない、神々の競演。
ぜひ一度ご鑑賞してみてください!

(参照)第十三回厳島観月能レポート
http://bit.ly/aLsG8o

奥の細道行脚。第十三回「象潟」

2010-07-10 18:44:12 | 日記
【おくのほそ道】

 海山川陸の佳景を見尽くした上、今、心は象潟へとせきたてられている。
酒田の湊より東北方面へ、山を越え、磯を伝い、砂子を踏んでその距離十里。
日影やや傾くころ、潮風がふいに真砂を吹き上げ、雨朦朧として 鳥海山を隠してしまう。暗中に莫索して「雨もまた奇なり 」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、と海人の苫屋に膝を入れて雨の止むのを待つ。
 翌朝、天よく晴れ上がり、朝日はなやかに差し出でるころ、象潟に舟を浮かべる。まず能因島に舟を寄せ、能因法師三年幽居の跡を訪ねた。

 向かい岸に舟を上がれば、「花の上こぐ」と詠んだ桜の老い木、西行法師の記念が残る。

 水辺に御陵あり。神宮皇后のお墓だという。
 寺の名は干満珠寺。ここに行幸されたこと、いまだ聞かぬ。いかなることであろうぞ。

 この寺の方丈に座して、簾を巻き上げれば、風景一望の内に見渡され、南に鳥海山、天をささえ、その影が映って水上にあり。西は、むやむやの関 まで道が続き、東には堤を築いて、秋田へ通う道遥か。海は北にかまえ、波が江に入るところを汐こしという。
 入り江の縦横約一里。俤は松島に通じて、また異なるもの。松島は笑うがごとく、象潟は恨むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、この地は魂を悩ますかのようである。

 象潟や雨に西施がねぶの花

鑑賞(雨に煙る象潟は、西施が長いまつげを伏せて眠る凄艶な美しさ、合歓の花を想わせる)


 汐越や鶴はぎぬれて海涼し

鑑賞(汐越の浅瀬をゆったり水遊びしている鶴。あの長い足なら着物も濡れず、江の内一里の涼しさをひとり占めできようものを)

祭礼

 象潟や料理なにくふ神祭 曾良

鑑賞(汐越の熊野権現の祭礼には魚肉を食わぬそうな。せっかくの名所のお祭にもったいないことよ)

美濃の国の商人
 蜑の家や戸板を敷て夕涼み 低耳(ていじ)

鑑賞(浜辺の海人の家では、今日も漁を終え、みなみな小屋の戸板をはずし、敷き並べて涼んでいる)

岩上に雎鳩(みさご)の巣をみる

 波こえぬ契ありてやみさごの巣

鑑賞(古人が「末の松山波も越えなむ」と固く契りを交わしたが、鳥類ですら夫婦となればあのような高い巌(いわお)の上にさえ巣をかけ、波も越せぬ一世の契りを誓うものか)

【曾良旅日記】

○十五日。象潟へおもむく。朝より小雨。吹浦に着く前より豪雨。昼頃、吹浦に雨宿り。この間、六里。砂浜に船渡し場が二ヶ所ある。佐吉の添え状が届く。晩方、番所へ書状に裏印をつき届ける。

○十六日。吹浦発。番所を過ぎると雨が降り出す。一里で女鹿。これより難所である。馬では通れぬ。番所に手形を納める。大師崎とも、三崎ともいう。一里半あった。小砂川 は直轄領。鶴が岡藩の預かり番所となる。入領に手形は不要。塩越まで三里。途中に関という村あり(これより
六郷庄之助殿 の領地である)。うやむやの関と呼ぶ。この間雨強く、はなはだ濡れる。船小屋に雨宿りする。
○昼におよんで塩越に着く。佐々木孫左衛門をたずね休む。衣類を借り、濡れ衣を干す。うどんを食う。地元の祭りで女客があるというので、向かいの旅籠にうつり泊まる。まず、象潟橋へ行き、雨暮れの景色をみる。今野加兵衛たびたび訪れる。

十七日。朝、小雨。昼より止んで日が照る。朝飯をとって、皇宮山蚶満寺へ行く。道々の眺望を楽しむ。帰ると地元の祭り行列が出る。通り過ぎ、熊野権現の社 へ行き、踊りを見る。夕飯が終わって、潟へ船を出した。
 加兵衛が、茶・酒・菓子など持参してくれる。帰って夜に入り、今野又左衛門 来訪。象潟の縁起などが絶えてしまったことを嘆く。翁も同感。弥三良低耳、十六日にあとより追いつき、方々へ同行する。

【奥細道菅菰抄】

今、心は象潟へとせきたてられている

 象潟は羽州由利郡にある。日本十景のひとつであり、当国第一の名所、佳景の地。八十八潟、九十九森あると言い伝える。江の形がきさに似ている。ゆえに、きさかたという、と。(きさとは、象の和名)また、蚶潟ともいう。

 蚶(かん)は小さな蝸牛(かたつむり)に似た貝。関東の子供がもてあそぶ、きさごというのがこれである。(上方では、しただみという)この江はいたって浅瀬であり、かろうじて蚶などが生育するのみ。それでこのように名付けたものらしい。(この地の寺を、蚶満寺と名付けたところからおして、
蚶潟を正字とすべきであろうか。なお以下にくわしくある)江中の広さ、松島になかなか劣るものではないが、舟を操るにはすべて棹を用いる。艪を立てることはない。これまたかけ離れたところである。もろこしの西湖も、大船を入れることはできない。ただ遊覧船のみという。この江と比較して語るべきであろう。

雨朦朧として鳥海山を隠してしまった。暗中に莫索して「雨もまた奇なり」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、と海人の苫屋に膝を入れて

 「雨朦朧として」とは、『詩経』に、「楼閣朦朧たり細雨の中」という風情をあらわし、朦朧は、『円機活法』に、「日いまだ明らかならざるなり」とある。物がおぼろげに見えることをいう。

 鳥海山も由利郡すなわち象潟の上の山であり、高さは月山と拮抗する。年中雪に覆われる。祭神は、羽黒山と同じ。大物忌太神と称す。当国一の宮である。

 「暗中に莫索して」とは、俗に暗がりで、探ってみてもわかる、ということである。ここでは、ただ闇中に坐って、近辺を知りえぬことの形容と解釈すべき。

 「雨もまた奇なり」とすれば、雨上がりの晴色、また楽しからずや、とは、東坡の西湖の詩に、「水光斂灔として晴れ偏に好し。山色空濛として雨も又奇なり。西湖を捉えて西子に比せんと欲すれば、淡粧濃抹また相よろし」。
 この詩に取材したものである。この詩は本朝では必ず象潟の形容となる。ゆえに祖翁もまた象潟眺望の吟に、西施の寝顔を詠もうとして、まずかすかにその意を予告する。これは漢文にも尊ぶところであり、文書にもこの修辞法がある。またわが翁の文では、奇中の妙と呼ぶべきものである。

 「海人の苫屋に膝を入れ」とは、小屋の狭苦しい中に、ようやく坐るさまをいう。もともと象潟には海人の苫屋を詠む歌が多い『後拾遺集』、「世の中はかくてもへけりきさがたのあまの苫やをわが宿にして」、能因。
『新古今集』、「さすらふやわが身にしあればきさがたやあまの苫屋にあまたたび寝ぬ」、藤原顕仲朝臣。『方角抄』、「象潟や蜑の苫屋にきぬる夜は浦風寒みたづ鳴きわたる」の類である。

 「膝を入れる」は、陶潜の帰去来の辞に、「膝を容るるの之安じ易きをつまびらかにす」という文を取ったものである。

三年幽居の跡を訪ねた

 能因奥羽下向のことは、『袋草紙』に説がある。前述。能因幽居の句も右に記した。

「花の上こぐ」と詠んだ桜の老い木、西行法師の記念が残る

 「花の上こぐ」と詠んだ桜は、干満寺(かんまんじ)の境内、地蔵堂の前の汀に、水面へ伸び出して生えている。古木は枯れ、現在は若木である。西行の歌、
「きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟」。
 西行は、『和漢三才図会』によると、俗名、佐藤兵衛の尉藤原の憲清。秀郷九世の子孫、武衛
校尉、藤原の康清の子である。弓馬に達し、管弦を習い、和歌をよくする。奥州より出て、鳥羽法皇に仕え奉り、北面の武士となった。しかし、世を厭う心が起こり、ついに出家。円位と号す。後に、西行と名乗った。建久四年二月十五日入寂。

 記念(かたみ)の解説は前述した。

○象潟遊覧船のこと。明和二年常州水戸の三日坊五峰という俳人が、この象潟へ来た時、銭一貫文を奉納。永代この地にいたる風流の人へ、島々一見の船賃として、長途行脚の費用を負担した。その風流心に感ずるべきである。よって、今ここに贅し、世の中にその志を伝えるところである。

水辺に御陵あり。神宮皇后のお墓だという。寺の名は干満珠寺

 神功皇后は、人皇十四代仲哀天皇の妃、応神天皇の母君で、気長足姫と号す。干満珠寺は、別名干満寺ともいう。または、蚶満寺とも書く。禅宗で、千体仏を安置する。山門などあって、巍巍たる荘厳である。
○案ずるに、この寺は蚶潟のほとりにあるため、元は蚶満寺と号していたのだが、いつの頃よりか、干満と書き改める。やがて好事家が、神功皇后が三韓征伐の時、干珠満珠の二つの玉を携えたことを付会して、干満の下に珠の字を書き加え寺号となし、また、この二つの玉をここに埋めたとも伝えたのだ。(地元の説にいう)そして皇后の御陵をも造立したものであろうか。
 この近く、汐越川の中に、烏帽子岩という石があり、蕉翁行脚の時、「むかし誰岩に烏帽子をきせぬらんかたかたとしてよい男也」、という戯れ歌があったので、その後この石を蚶満寺の庭上に移し、親鸞上人の腰掛け石と名付けた、とする地元の話を聞いたものだ。その石はいまなお寺庭にあり、傍らに標札を立て、親鸞腰掛石と書いている。皇后の御陵もあるいはまた、この手の虚構であろう。

この寺の方丈に座して、簾を巻き上げれば

 方丈は、寺の勝手向きの間をいう。『釈氏要覧』にいう。「唐の顕慶二年、王玄索を西域に遣わせた。比耶離城に到る。維摩居士の石室あり。手板(笏のことである)でこの石室の縦横を測ってみると、笏の十の長さであった。ゆえに、僧室を方丈と名付けた」と。

 笏は(日本のしゃくのことである)元一尺を基準とした。(日本の手板を尺というのも、すなわちここから来ている)十笏は、一丈である。石室の縦横一丈ずつあったので、方丈という。(一丈四方)

 簾を巻くとは、王勃の滕王閣の詩に、「朱簾暮に捲く、西山の雨」という形容である。

西は、むやむやの関まで道が続き

 むやむやの関は、別名うやむやの関ともいう。その跡とされるところが二ヶ所ある。いずれも名所、「武士の出さ入さにしをりするとやするとやどりのむやむやの関」。

 また、うやむやの関と名付けたのは、ある説に、「この山に鬼神が住んでいた。折々出ては道を行く人を獲る。ここにうやむや(有や無や)と鳴く鳥がいて、その鬼神の有無を報せる。通行人は、鳥の鳴き声を聞き分け、鬼神の有無を判断して往き来した。ゆえに、うやむやの関という」と。この
関跡、一ヶ所は、象潟の南、小砂川という里と、汐越駅との間の海辺、関村というところ。ここであるとする。もう一ヶ所は、『歌林良材』に『八雲御抄』を引用していうところの以下の地点である。「むやむやの関は、陸奥と出羽との間にある。ただし、関は出羽よりに位置する。草木茂り、通行人は、枝折を目印に行くという。ここは、現在笹屋越えといって、出羽より陸奥へ行く山路。すなわち奥羽の境であり、今も木が鬱蒼と茂り、物さびしい場所である」。

○案ずるに、関の名を「むやむや」としたのは、元よりここに草木が、むやむやと生え茂っていたからであろう。ゆえに、旅人も枝折したのである。うやむやとは、音の聞き違いにより、有無の響きと結びつき、やがて鬼神のことなどを取り合わせた作り話であろうか。右にいう、羽州、関村のあ
たりは、海沿いの平地であり、山にほど遠く、昔であっても林木茂り通行人の迷うようなところではない。いわんや鬼神などの住む地であるはずもなく、「出さ入さにしをりする」と詠むべきいわれがない。しかれば、『良材集』の、陸奥と出羽の間、現在の笹屋越えなるものを、この関の正しい場所としたい。汐越は、あら海より象潟へ、潮の行き来する川の名で、橋がかかる。しほこし橋という。南北の人家を汐越町といい、秋田への街道の宿駅である。

象潟や雨に西施がねぶの花

 この句に、西施が立ち入ったいわれは、前にくわしく記した。また、『尺牘無雙魚』に、「道の傍ら雨中の花を見る。湘娥、面上の啼跡彷彿たり」とある。この句の面影に似ていようか。

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

 この句、翁の自筆が現在汐越町庄官のもとに残り、五文字が「腰だけや」となっている。しほこし川の中ほどに、腰だけと呼ぶ浅瀬がある。そこに鶴が舞い降りたのを見ての即興であると言い伝える。


7/13(火)「奥の細道」講読会↓
http://bit.ly/alUNRw

奥の細道行脚。第十二回「羽黒」

2010-07-06 21:03:33 | 日記
【おくのほそ道】

 八日、月山に登る。木綿しめ を身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力と
いうものに導かれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏んで登ること八里。この
まま日月の軌跡に乗り、雲関に入ってしまうのではないかと不安となり、
息もあがり身も凍えて頂上に至れば、日は沈み月が現れる。笹を敷き、篠
を枕に伏して、夜明けを待つ。日が出て雲が消えたので、湯殿山へと下った。

 谷のかたわらに鍛治小屋 というものがある。この国の鍛治は、霊水を選
び、ここに潔斎沐浴して剣を打つ。最後に「月山」と銘を切り、世間に賞せ
られる名刀となる。かの竜泉に剣を鍛えると聞く、干将・莫耶の故事 にな
らうものか。道の達人、執心浅からぬことを思い知らされる。岩に腰掛け
しばらく休んでいると、三尺ほどの桜のつぼみが半ば開いている。降り積も
る雪の下に埋もれても、春を忘れぬ遅桜の花の心がいじらしい。炎天の梅花 、
ここに香るようである。行尊僧正の歌 の哀れも思い出され、それにさえ勝
って感じられる。そもそもこの山中の詳細は、行者の法度として他言を禁じ
ている。よって筆をとどめ、記すわけにはまいらぬ。坊に帰れば、阿闍梨の
求めに応じて、三山巡礼の数句短冊に書く。


 涼しさやほの三か月の羽黒山


鑑賞(すっとした三日月が、黒々とした羽黒山にかかっている。里に下りて
もなお高山の冷気が思い起こされ清々しいものだ)


 雲の峰幾つ崩れて月の山


鑑賞(昼間は湧き上がる入道雲の峰に隠されていたが、夜となって冴え冴えと
月光が雲を割り、厳かな山の峰を顕した)


 語られぬ湯殿にぬらす袂かな


鑑賞(法度により語ってはならぬ湯殿山中の神々しさを、思うにつけてもあ
りがたく、袂もこうして濡れるのだ)


 湯殿山銭ふむ道の涙かな 曾良


鑑賞(山中の禁制に地に落ちたものは、拾ってはならぬという。道に落ちた
賽銭の上を無心に歩む道者の尊さに自ずと感涙をもよおすばかり)


【曾良旅日記】

○六日。天気よし。登山する。三里で強清水 。二里で平清水 。二里で高
清水に着く。ここまでは馬でも登れる道である(人家、小屋がけあり)。弥
陀原 に小屋あり。昼食をとる。(ここから、補陀落、にごり沢、御浜など
へかかるという)難所となる。御田がある。行者戻り には小屋がある。申
の上刻、月山頂上に至る。まず御室を拝して、角兵衛小屋に行く。雲が晴
れて、御来光は見えなかった。夕方には東に、明け方には西に見えるとい
う。

○七日。湯殿山へ行く。鍛冶屋敷に小屋あり。牛首 (これより本道寺へも、
岩根沢 へも行ける)に小屋あり。不浄垢離の場、ここで水浴びする。少し
行ったところで草鞋を履き替え、木綿締めをかけなどして湯殿山神社神前
に下る(神前よりすぐのところに注連掛口(しめかけ)の注連寺・大日坊 を
通って鶴が岡へ出る道がある)。ここから奥は、所持した金銀銭を持って
帰ることはできない。下に落としたものすべて、拾うことも禁じられる。
浄衣・法冠・木綿しめだけで行くのだ。昼時分、月山に帰る。昼食をとり、
下向。強清水まで光明坊から弁当を持たせ、逆迎えにくる。日暮れに及ん
で南谷に帰る。はなはだ疲れる。

△草鞋脱ぎ替え所より、志津 というところへ出て、最上へ行く。
△道者坊 に一泊。宿賃は、三人で一歩。月山では一夜宿。小屋
賃、二十文。あちこちの拝観料が二百文以内。賽銭も二百文以内。あれや
これやで、銭は一歩もあまらなかった。


【奥細道菅菰抄】

木綿しめを身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力というものに導かれて(中
略)日月の軌跡に乗り、雲関に入ってしまうのではないかと不安となり(中
略)日は沈み月が現れる

月山・湯殿に登るには、潔斎修行しなければ許されない。

木綿しめは、こよりで仕立てた修験袈裟のこと。当山へ登る人は、潔斎中よ
り下山まで、これを襟にかける。この木綿しめ、および旅硯・銭袋・蓑笠な
ど、後に翁の門人、惟然坊に伝わり、その弟子、播州姫路千山に帰属する。
千山の子、寒瓜が、同国増位山に風羅堂を造立し、これらの調度ならび、惟
然坊作の翁の木像を納めた。

宝冠は、白い布で頭を包むことをいう。

強力は、修験の弟子で、笈などを担がせ従わせた者。すなわち登山の案内先
達である。ゆえに、別名先達ともいう。

 日月の軌跡に乗り、雲関に入るとは、『詩経』に、「平歩雲霄に入る、
というがごとし」。高山に登るさまを、雲を凌ぐ、とたとえたのだ。雲関は、
道家の説に、天上の六関などという。(例が多いので他は記さず)

谷のかたわらに鍛治小屋というものがある(中略)かの竜泉に剣を鍛えると聞
く、干将・莫耶の故事にならうものか。道の達人、執心浅からぬことを思い
知らされる

鍛治は、本字、鍛冶。たんやと読むべき。日本の俗字、瑕治と混同し、その
音にて誤って綴ったものであろう。月山の鍛冶小屋は現在後嗣が絶え、ただ
名のみ残って、道者の宿となっているばかり。

 竜泉に剣を鍛えるとは『史記』、荀卿の伝の註、晋の太康の地理記にいう。
「汝南の西、平原に、竜淵水あり。刀剣を用いて淬すべし」とある。淬すと
は、俗にいう水で刀を鍛えることである。

 干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)は、いにしえの鍛冶の名工の名。『呉越
春秋』にいう。「干将は呉の人である。欧冶子と同じ師につき、闔閭(こうり
ょ)より二本の剣を作るよう命ぜられる。その一を干将といいい、二を莫耶と
いう。莫耶は干将の妻の名である。金鉄を炉に入れたが、なかなか溶けぬ。
干将夫妻は、すなわち髪を断ち、指を切って、炉中に投じる。たちまち溶け、
ついに剣となった。陽剣には干将が亀紋を刻み、陰剣には莫耶が縵様を入れ
る。干将は陽剣を隠し、陰剣をもって闔閭に奉じた」。『太平広記』にいう。
「干将・莫耶の剣はすべて銅をもって鋳る。鉄ではない」と。

炎天の梅花、ここに香るようである

 この句はきっと出典があるはずだ。いまだ判明せず。
(訳者注 『禅林句集』(坤巻)の中の「雪裏芭蕉摩詰画。炎天梅蘂簡斎詩」に
よる。「雪裏芭蕉摩詰画」は、雪の中の芭蕉の株は摩詰(唐代の詩人・画家)が
描いたもの、「炎天梅蘂簡斎詩」の、炎天の梅花は簡斎(宋代の詩人)が詩で
詠んだものといった意味である。「雪裏芭蕉」と「炎天梅蘂(花)」は、いずれ
も現実には見られないもの。ところが、禅宗ではこれを鍛錬によって心眼で見
えるものとし、一般には珍しいものの例えとされている)

行尊僧正の歌の哀れも思い出され

 行尊は『元享釈書』にいう。「諫議大夫。行尊は源の基平の子である。十二
の年、三井寺の明行に預け、出家させられる。もとより托鉢修行を好む。十
七の年、ひそかに園城寺を出て、名山霊区を跋渉する。永久四年、園城寺の
に補せられる。保安四年、延暦寺の座主を任じ、長承三年、勅を受け衆
僧の上座となる」と。

 僧正は、日本の僧爵。(行基より始まることは前述)

 歌の哀れとは、『金葉集』に、大峰にて思いがけず桜の咲く景色を見て詠む、
とある。
「もろともにあはれと思へ山ざくら花より外にしる人もなし」行尊。

湯殿山銭ふむ道の涙かな 曾良

 この山中の掟で、下に落ちた物を拾うことはできない。ゆえに道者の投げ捨
てた金銀は、小石のごとく、銭は土砂に等しい。人は、その上を行き来する
のだ。

芭蕉の名言講座 7/14より
http://bit.ly/doMKCP

きのふの我に飽くべし。松尾芭蕉

2010-07-05 23:27:28 | 日記
俳聖芭蕉の名言、「きのふの我に飽くべし」。

師にもよらず、流派にもよらず、素質にもよることは決してない。ただ、日々句を案じ、吟じ続け、あれもだめ、これもつまらない、と昨日の句、昨日の自分自身に"飽きる"ことが、名人につながるただ一筋の道である、と芭蕉は説きます。
いくら上達して、名人といわれようとも、自分に満足してしまえば、そこですべては終わってしまうのです。
最晩年のチャップリン、「あなたのこれまでの最高傑作は?」という質問に、「もちろん、次回作だ」とウィンクして答えたといいます。

芭蕉名言講座
http://bit.ly/doMKCP

【名言名句】カルチャー講座@川崎開始!

2010-07-03 09:58:41 | 日記
 【言の葉庵】ホームページが、そのままカルチャー講座になりました!
■「心にしみる名言・名句」読売・日本テレビ文化センター川崎
http://bit.ly/bu0KP7

7月より毎月第2水曜日13:00~14:30開講です。
「一期一会」「秘すれば花」「名人は危うきに遊ぶ」など、珠玉の名言・名句をご紹介。一句、一句にこめられた深い意味と歴史、文化を知り、現代生活へのヒントを見つけます。原典・原文もあわせて鑑賞。皆様とご一緒に、各時代を代表する名文を声に出して読み、味わいます。またHPではなかなかご紹介しきれない、日本文化史の秘話・関連裏話も満載です。



第一回 7/14 世阿弥「秘すれば花」「初心忘るべからず」 
第二回 8/11 松尾芭蕉「名人は危うきに遊ぶ」「きのふの我に飽くべし」 
第三回 9/8 千利休「一期一会」「叶うはよし、叶いたがるは悪しし」

今回はじめて、言の葉庵講座を川崎にて開講します。教室はJR川崎駅コンコース内、駅ビル川崎BEの5階。改札を出て30秒!横浜、川崎方面の方のご参加を心よりお待ちしています。