工房八重の部屋

京都の紹介、日々の出来事や思いを綴ってます

久しぶりの金戒光明寺 静かで菩提樹の花が満開でした

2020年06月17日 | Weblog
真如堂から高台のお墓の道を通つて、会津藩の墓地を通り、徳川秀忠の供養塔の

三重塔を通り、高台から京都の町並みを眺めて、長い階段を降りて、金戒光明寺に行きました。

境内は閑散として、参拝客を1組見ただけです!

御影堂を参拝しました。 御影堂の横に大木の菩提樹の木があり、白い可憐な花が満開でした!

下の道を通ると真如堂が近いので、真如堂の駐車場に車を駐車しているので、戻ることにしました!



会津藩の墓地
なんで京都の金戒光明寺の敷地内に墓地があるのでしょう?


会津藩の墓地
金戒光明寺は、1862年(文久2年)閏8月1日、京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保が本陣を置いた地。
1862年(文久2年)12月24日、容保は家臣一千名を率いて三条大橋に到着し、
金戒光明寺まで行軍が一里余りも続いたと伝えられている。
金戒光明寺は、自然の要塞となっており、粟田口や御所にも近く、
徳川家康も金戒光明寺と知恩院に軍隊が配置できるよう城構えとしていたという。
一千名もの軍隊を駐屯させることができた広い寺域であったことから京都守護職の本陣に選ばれた。
当時の京都は尊王攘夷派による暗殺や強奪が日常化していたが、
1863年(文久3年)8月18日の政変で尊王攘夷派を京都から追放するなど、会津藩士の活躍はめざましいものがあった。
しかし、その犠牲も大きく、徳川慶喜が大政奉還をし、京都守護職が廃止された
1867年(慶応3年)までの6年間で237名もの戦死者を出し、金戒光明寺の山上に葬られている。
のちにその場所に供養塔が建てられ、鳥羽伏見の戦いで戦死した115名が合祀された。


徳川秀忠の供養塔の三重塔


京都市内が見えます
階段を降りて行きます! 周囲はお墓です




階段の周りはすべてお墓で、古いお墓も多い!


秀忠夫人のお江さんの供養塔




金戒光明寺の地図


金戒光明寺の地図




山門


御影堂


御影堂


御影堂に参拝しましょう


内部は荘厳です


御影堂から見た境内


御影堂から見た境内


御影堂の横に菩提樹の大木がありました


菩提樹の花が満開です




金戒光明寺から下の道を通ると真如堂まで近いです