暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

村岡館跡(熊谷市)

2018-03-25 21:48:04 | 城館跡探訪
今回は、村岡館跡について書きたいと思います。

村岡館跡は村岡五郎平良文の館跡です。館跡として、村岡の茶臼塚跡がよく上げられます。

その茶臼塚も、明治期に役場を建てるために削平され、現在は全く面影がありません。





現在は地域の集会所になっております。





茶臼塚跡には、現在、大きな青石塔婆がありますが、この板碑は村岡氏に関係のあるものではなく、

熊谷氏に関係のあるものだということです。








ここには、地域の石製遺物が集められています。








さて、この茶臼塚跡から、200mほど離れた場所に、高雲寺というお寺があります。

実は、高雲寺は1986年頃(1988年でした)、訪ねたことがありました。

当時、寺の周囲は農業用水路があり、コンクリートや石製の橋がかけられていました。

それをいくつも渡った記憶があります。

なぜ、高雲寺を訪ねたのかといえば、当時、購入した『埼玉県の中世城館跡』に、この高雲寺が

備考欄に掲載されていたためですが、正直、高雲寺がなぜ、データに記載されているのか計りかねました。








高雲寺域が村岡館跡であると解すれば、下の水路と畦畔などは遺構の一部と考えてもよいのでしょうか。



この塚と上写真の畦畔ですね。ここは土塁遺構の可能性はあると思います。










ただ、ここは、幾つも石橋を渡った記憶があるということからもわかる通り、元来、水路の多い場所であり、

どの水路が堀跡かと判断するのは、非常に難しいと思われます。

さて、高雲寺境内には、稲荷社があり、石の稲荷像は非常に古いものに見えました。









先ほど、写真に写っていたマンションを見てもわかる通り、ここ20年程でかなり住宅開発が進んで地域でもあります。

住んでいる方は、遠方から越してきた方が多く、地元の地史についてお尋ねするのはかなり難しい状況に

なりつつあると言えます。

江南猿田彦神社(旧江南町)

2018-03-25 17:07:14 | 城館跡探訪
わたしの城館跡報告は少し長すぎるかなと、思うことがよくあります。

しかも、手元にあるのが長文連載報告になりそうなものばかりで、

今日は分かりやすく、でも、面白そうな場所をご紹介します。


熊谷市旧江南町地区の浄水場向かい側に、ちょっと変わった雰囲気の祠があります。

猿田彦神社です。




和田吉野川が削り込んでできた、江南台地の突端にあるこの神社は、台地の上り坂の

雑木林に独特のアクセントを与えています。









ちょっと異界の入り口のような雰囲気もあって、わたしが高校生の頃、走り屋のみなさんも

気持ち悪がっていた場所です。そりゃあ、夜中こんなところを通れば気味も悪いでしょうよ。

当日は寒い日で、残された雪が荒涼とした雰囲気を作り出しています。









夏は大変涼しそうで、ベンチなどもあって、雰囲気は昔のバス停といった感じです。

周囲も綺麗の掃除が行き届いております。

祠の中には、猿田彦像が安置されております。

また、銅製の大きな鈴も奉納されていて、周囲の民家に大事にされているようです。








諏訪平の己已塔(皆野町金沢)

2018-03-24 15:12:58 | 水の神
わたしは、水の神様に関心があり、出先に水神がまつられていると、撮影します。

写真は、皆野町金沢地区にある、「己已塔」(きしとう)と呼ばれる水の神です。



これまで、既に男岳瀧守様を紹介いたしましたが、水神様の多い地域です。



解説板にある如く、「みみっとう」と呼ばれていたのは「巳」(ヘビ)の字に似ていたからであり、

ヘビは水の神の化身ともされることから、水神としてあがめられたわけですね。




北廓館(旧大里村)

2018-03-24 12:46:25 | 城館跡探訪
旧大里村の吉見地区に北廓館という館跡があります。

館跡としてはかなり古い時期のもので、過去、発掘調査で縄文期から平安期にかけての集落跡・遺物が発掘されて

いるそうです。

また地元では有名なとうかんやま古墳というかなり大きな古墳を中心とした古墳群もあり、古代から発展した地域だったと

思われます。

館跡は、現在、小学校がある荒川低湿地に突き出た岬状の先端部分にあったとされています。

早速、現場に行ってみましたが、聞き取りをしたところ、地元の方も館跡の認識が全くなく、「これは相当な難物だ」と

思わざるをえませんでした。

ただ、自分の母方の一族がこの地域にゆかりが深く、地元の伝説などを知っていて、地域の成り立ちに若干の知識が

あったので、あとは、フィールド・ワーカーらしく歩き回って、情報収集を行い再構成をはかる

という、いつもの方針をとろうと思いました。


まず、当該地域には吉見神社という上毛野国造御諸別王の直系須長氏が宮司を務めている神社があります。

北廓館はこの吉見神社の道路を挟んで反対側にあります。







また、吉見神社には大蛇伝説があります。現在、吉見神社の裏の湿地、






現在は農業排水用開削された九頭竜川があります。










わたしの子供時代にも、ここで大蛇を目撃して毒気に当てられて入院した人が出たという、世間話を聞かされて

ビビったことがあります。

実際そういうものがいてもおかしくない雰囲気がありました。

さて、大蛇伝説といえば、民俗学などの知見から水神を示すと同時に、河川沿いに産する砂鉄を用いた製鉄の発展を

示唆するものであると知られています。ヤマタノオロチ伝説などがその好例ですが、古代須長氏もまた、権力基盤を、

ここから産出される砂鉄においていた考えられます。








現在は、堤防整備が充実し、砂質の河川敷などどこにも見当たりませんが、かつて蛇行を繰り返していた時代には、

砂の溜まる場所も多かったのでしょう。

以上のような理由から、須長氏に関係する館跡であろうというのが、わたしの推定です。


さて、北廓館跡とされる地域です。

まず、北側から登ります。

登り口附近で道が、ほぼ90°に折れ、そこに土壇状の盛り上がりがあります。下の写真の左側部分がそれです。

よく解釈すれば、ここが虎口らしい部分だと言えます。





その後なだらかな坂道を直進します。









学校の敷地はがけのギリギリのところまで迫っていて、この辺りが館跡だったことを示していると思いました。



その北側は、一段低いテラス状の平場になっています。



人手がそれなりに加わっているものと見たのですが、遺構なのかは判断に苦しむところです。


下の写真は南側から、今見た道を撮影したものです。



南側にある耕地端に残存した土の盛り上がりですが、これが土塁とは断定できませんね。




直接的に土塁や堀と思われるものを見つけるのは現状かなり難しいと思います。

付近住民の方に館跡という認識が希薄なために、質問がほとんどかみ合わないのです。

また、当日寒かったこともあり、外出する住民の方も少ないのです。



巨大な土塁なのかと一瞬思いましたが、これがとうかんやま古墳でした。

お話を伺った方も、多くの人は、「館跡は知らないが、古墳が大きいからそこに行ってごらんなさい」と、

盛んに勧められました。



とうかんやま古墳を土塁として用いたという説もあるようですが、そう考えたくなる気持ちもよくわかるものの、

現状では否定も肯定も言えないと思います。

結局、この調査では3時間を費やしてしまいました。なかなか難しい館跡だったと思います。

日も傾き、冷たい風が強くなったところで、北廓館跡を後にしました。

山田城跡と山崎城跡 1985年(滑川町)

2018-03-23 23:52:25 | 城館跡探訪
本日は、埼玉県滑川町にある武蔵丘陵森林公園内にある山田城と山崎城跡について、紹介したいともいます。

山田城は、松山城の支城の一つといわれています。

森林公園内にあるので保存状態もよく、芝生に覆われており、遺構の観察もしやすいので、

おすすめの城跡です。

芝生に覆われと書きましたが、わたしが写真を撮影したのは、新年松の内の雪に覆われた姿でした。






山田城址内部は楕円形の広場のようになっており、子供の頃、訪ねた時には、オークギターを持った大学生らしい

若い人たちが歌を歌っておりました。

まあ、今思い起こせばそういう時代だったですね。赤いシャツにオーバーオールのジーンズの後姿が

左右に揺れている光景が今でも記憶に残っております。

山田城跡からは、展望も得られます。



空堀もなかなか深いです。






山田城は楕円形ですが、山崎城跡はL字型の堀が残っております。




わたしが訪ねた当時は、山田城址は分かりやすかったのですが、山崎城跡は見つけにくかった記憶があります。