今回は、村岡館跡について書きたいと思います。
村岡館跡は村岡五郎平良文の館跡です。館跡として、村岡の茶臼塚跡がよく上げられます。
その茶臼塚も、明治期に役場を建てるために削平され、現在は全く面影がありません。
現在は地域の集会所になっております。
茶臼塚跡には、現在、大きな青石塔婆がありますが、この板碑は村岡氏に関係のあるものではなく、
熊谷氏に関係のあるものだということです。
ここには、地域の石製遺物が集められています。
さて、この茶臼塚跡から、200mほど離れた場所に、高雲寺というお寺があります。
実は、高雲寺は1986年頃(1988年でした)、訪ねたことがありました。
当時、寺の周囲は農業用水路があり、コンクリートや石製の橋がかけられていました。
それをいくつも渡った記憶があります。
なぜ、高雲寺を訪ねたのかといえば、当時、購入した『埼玉県の中世城館跡』に、この高雲寺が
備考欄に掲載されていたためですが、正直、高雲寺がなぜ、データに記載されているのか計りかねました。
高雲寺域が村岡館跡であると解すれば、下の水路と畦畔などは遺構の一部と考えてもよいのでしょうか。
この塚と上写真の畦畔ですね。ここは土塁遺構の可能性はあると思います。
ただ、ここは、幾つも石橋を渡った記憶があるということからもわかる通り、元来、水路の多い場所であり、
どの水路が堀跡かと判断するのは、非常に難しいと思われます。
さて、高雲寺境内には、稲荷社があり、石の稲荷像は非常に古いものに見えました。
先ほど、写真に写っていたマンションを見てもわかる通り、ここ20年程でかなり住宅開発が進んで地域でもあります。
住んでいる方は、遠方から越してきた方が多く、地元の地史についてお尋ねするのはかなり難しい状況に
なりつつあると言えます。
村岡館跡は村岡五郎平良文の館跡です。館跡として、村岡の茶臼塚跡がよく上げられます。
その茶臼塚も、明治期に役場を建てるために削平され、現在は全く面影がありません。
現在は地域の集会所になっております。
茶臼塚跡には、現在、大きな青石塔婆がありますが、この板碑は村岡氏に関係のあるものではなく、
熊谷氏に関係のあるものだということです。
ここには、地域の石製遺物が集められています。
さて、この茶臼塚跡から、200mほど離れた場所に、高雲寺というお寺があります。
実は、高雲寺は1986年頃(1988年でした)、訪ねたことがありました。
当時、寺の周囲は農業用水路があり、コンクリートや石製の橋がかけられていました。
それをいくつも渡った記憶があります。
なぜ、高雲寺を訪ねたのかといえば、当時、購入した『埼玉県の中世城館跡』に、この高雲寺が
備考欄に掲載されていたためですが、正直、高雲寺がなぜ、データに記載されているのか計りかねました。
高雲寺域が村岡館跡であると解すれば、下の水路と畦畔などは遺構の一部と考えてもよいのでしょうか。
この塚と上写真の畦畔ですね。ここは土塁遺構の可能性はあると思います。
ただ、ここは、幾つも石橋を渡った記憶があるということからもわかる通り、元来、水路の多い場所であり、
どの水路が堀跡かと判断するのは、非常に難しいと思われます。
さて、高雲寺境内には、稲荷社があり、石の稲荷像は非常に古いものに見えました。
先ほど、写真に写っていたマンションを見てもわかる通り、ここ20年程でかなり住宅開発が進んで地域でもあります。
住んでいる方は、遠方から越してきた方が多く、地元の地史についてお尋ねするのはかなり難しい状況に
なりつつあると言えます。