昨日に続いて、中条氏館跡について書きます。
まずおさらいです。
今回は、永享2年の中条氏館跡古図を踏まえながら歩いているわけです。
昨日の記事では、古都中央の郭(ここを本郭としましょう)を中心に、向かって左側の郭(現在は墓地)の背後を
見てきました。
中央の郭にはうっすらと本堂が描いてあるのが見えますが、その裏にある水堀に、本堂裏の池と思われる
膨らんだ部分が描いてあります。
この辺りから、常光院の外に出て、墓地裏を歩いたのが、昨日の記事だったわけです。
今日は、常光院裏に戻り、向かって右側の郭の方を見ることにします。
古図に描かれている常光院裏の川は、浄蓮寺川といいます。古図に従えば浄蓮寺川が北の水堀を担っていたようですが、
現在は改修されており、少々、古図と雰囲気が違っています。
それでは、常光院裏の池の辺りから出発します。
常光院裏には荒れ地がありますが、この辺りは、周囲よりも高くなっており、建造物があったのではないかと思われます。
この荒れ地の北側に堀があります。
これが遺構なのかどうかは、わかりません。古図に従うと元の浄蓮寺川はここではないかと思いますが、
どうなのでしょうか。
古図には北東側に、七軒続きの民家らしいものがありますが、その遺構はまだ残っておりました。
まず、その背後を流れている堀がこれです。
ここは確実に、元の浄蓮寺川だったようです。
下は、北から見た、7軒並びの民家跡です。
さて、民家あとに行って見ます。
やはり先ほどのU字溝が元の浄蓮寺川の一部のようです。
現在の浄蓮寺川は、更に50mほど北にあります.
民家跡も、もともとは館跡の一部なので、古図に描かれた雰囲気が残されているのには驚きました。
写真で見る限り、わたしの歩いていた農道も、浄蓮寺川の一部だったようです。
これで、ようやく1周したわけです。
最後に、墓地前、館跡南側の水堀の様子です。
従来、中条氏館跡は常光院境内の遺構について紹介されるいとどめられているケースが多かったように思いますが、
今回は思い切って境内外、北側の農地に残されて以降も紹介することができました。
中々収穫の多い調査だと思いました。
追加といっては何ですが、現在の浄蓮寺川は下のような感じです。
まずおさらいです。
今回は、永享2年の中条氏館跡古図を踏まえながら歩いているわけです。
昨日の記事では、古都中央の郭(ここを本郭としましょう)を中心に、向かって左側の郭(現在は墓地)の背後を
見てきました。
中央の郭にはうっすらと本堂が描いてあるのが見えますが、その裏にある水堀に、本堂裏の池と思われる
膨らんだ部分が描いてあります。
この辺りから、常光院の外に出て、墓地裏を歩いたのが、昨日の記事だったわけです。
今日は、常光院裏に戻り、向かって右側の郭の方を見ることにします。
古図に描かれている常光院裏の川は、浄蓮寺川といいます。古図に従えば浄蓮寺川が北の水堀を担っていたようですが、
現在は改修されており、少々、古図と雰囲気が違っています。
それでは、常光院裏の池の辺りから出発します。
常光院裏には荒れ地がありますが、この辺りは、周囲よりも高くなっており、建造物があったのではないかと思われます。
この荒れ地の北側に堀があります。
これが遺構なのかどうかは、わかりません。古図に従うと元の浄蓮寺川はここではないかと思いますが、
どうなのでしょうか。
古図には北東側に、七軒続きの民家らしいものがありますが、その遺構はまだ残っておりました。
まず、その背後を流れている堀がこれです。
ここは確実に、元の浄蓮寺川だったようです。
下は、北から見た、7軒並びの民家跡です。
さて、民家あとに行って見ます。
やはり先ほどのU字溝が元の浄蓮寺川の一部のようです。
現在の浄蓮寺川は、更に50mほど北にあります.
民家跡も、もともとは館跡の一部なので、古図に描かれた雰囲気が残されているのには驚きました。
写真で見る限り、わたしの歩いていた農道も、浄蓮寺川の一部だったようです。
これで、ようやく1周したわけです。
最後に、墓地前、館跡南側の水堀の様子です。
従来、中条氏館跡は常光院境内の遺構について紹介されるいとどめられているケースが多かったように思いますが、
今回は思い切って境内外、北側の農地に残されて以降も紹介することができました。
中々収穫の多い調査だと思いました。
追加といっては何ですが、現在の浄蓮寺川は下のような感じです。