暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

こいしつ 中条氏館跡(熊谷市)②

2018-03-22 21:19:28 | 城館跡探訪
昨日に続いて、中条氏館跡について書きます。

まずおさらいです。

今回は、永享2年の中条氏館跡古図を踏まえながら歩いているわけです。



昨日の記事では、古都中央の郭(ここを本郭としましょう)を中心に、向かって左側の郭(現在は墓地)の背後を

見てきました。

中央の郭にはうっすらと本堂が描いてあるのが見えますが、その裏にある水堀に、本堂裏の池と思われる

膨らんだ部分が描いてあります。

この辺りから、常光院の外に出て、墓地裏を歩いたのが、昨日の記事だったわけです。

今日は、常光院裏に戻り、向かって右側の郭の方を見ることにします。

古図に描かれている常光院裏の川は、浄蓮寺川といいます。古図に従えば浄蓮寺川が北の水堀を担っていたようですが、

現在は改修されており、少々、古図と雰囲気が違っています。


それでは、常光院裏の池の辺りから出発します。



常光院裏には荒れ地がありますが、この辺りは、周囲よりも高くなっており、建造物があったのではないかと思われます。

この荒れ地の北側に堀があります。

これが遺構なのかどうかは、わかりません。古図に従うと元の浄蓮寺川はここではないかと思いますが、

どうなのでしょうか。






古図には北東側に、七軒続きの民家らしいものがありますが、その遺構はまだ残っておりました。

まず、その背後を流れている堀がこれです。





ここは確実に、元の浄蓮寺川だったようです。

下は、北から見た、7軒並びの民家跡です。








さて、民家あとに行って見ます。



やはり先ほどのU字溝が元の浄蓮寺川の一部のようです。

現在の浄蓮寺川は、更に50mほど北にあります.









民家跡も、もともとは館跡の一部なので、古図に描かれた雰囲気が残されているのには驚きました。

写真で見る限り、わたしの歩いていた農道も、浄蓮寺川の一部だったようです。





これで、ようやく1周したわけです。

最後に、墓地前、館跡南側の水堀の様子です。







従来、中条氏館跡は常光院境内の遺構について紹介されるいとどめられているケースが多かったように思いますが、

今回は思い切って境内外、北側の農地に残されて以降も紹介することができました。

中々収穫の多い調査だと思いました。


追加といっては何ですが、現在の浄蓮寺川は下のような感じです。




こいしつ 中条氏館跡(熊谷市)

2018-03-21 22:42:43 | 城館跡探訪
本日は、中条氏館跡について書きたいと思います。

調査日時は2018.02.02及び02.03です。

中条氏は鎌倉幕府成立前からの、源氏の郎党で、幕府の評定衆を務めた名族です。

また、中条流剣術を創始するなど、優れた事蹟を残しました。

さて、中条氏館跡は熊谷市北東部の中条地区の常光院にあります。常光院は、名族中条氏の館跡にふさわしい

京都風の落ち着いたたたずまいです。周囲は、水堀に囲まれています。







さて、門前には館跡であることを示す石碑があります。





石碑には延享2年に描かれた館跡の古図が刻まれています。

本日は、この館跡古図に基づいて、現況がどの程度保たれているのかを、追いかけてみたいと思います。


まず、館跡の東側に常光院専用の駐車場があります。

この駐車場は館跡を噛んでいます。





ここはすでに発掘調査が行われた場所のようです。




館跡は複数の郭に分かれていたようです。

常光院に隣接した民家脇にも、空堀跡と思われる溝が残されています。










山門をくぐると、すぐ左側に土塁と水堀があります。






また、山門は言って右側にも、郭跡の土塁と平場があります。








さて、常光院本堂です。未だに茅葺きの屋根を保存しています。



次に本堂裏に回り込みます。



本堂裏には水堀を利用した池があります。



本堂裏の平場



本堂裏の土塁



この土塁に沿って移動してみましょう。



土塁の外側には堀跡があるのがわかります。



土塁上を歩きます。













最後の写真辺り土塁が終わります。

中条氏館の中でもこの土塁に囲まれた本堂付近が、本郭に相当すると思われます。

さて、今度は、池の後方にある切れ目から、外に出てみます。



本堂を取り囲む土塁の外側にある堀跡です。

常光院裏はこのようになっています。



墓地裏の状況を確認します。













土塁跡、堀跡と思われる畦畔や溝がしっかり残っています。

次は本堂裏に戻って見ましょう。

(つづく)

権八地蔵(熊谷市久下地区)

2018-03-20 21:37:42 | 城館跡探訪
江戸時代、元鳥取藩士で、辻斬りを繰り返した大悪党、白井権八という人物がいます。

その白井権八の伝説に、この地蔵が登場するものがあります。



平井権八が、中山道、久下堤で商人を斬り、持っていた金子を奪います。

傍を見ると、この石地蔵が立っていることに気が付きました。

悪党の権八にも、未だ良心があったのでしょう。急に気が咎め、地蔵に向かって

「今、見たことは、誰に言ってくれるなよ」と、つぶやきました。

すると、地蔵は「我は言わぬが汝言うな」と、返答をしたことから、権八はハッとして、

この場を逃げるように立ち去りました。

のちに、権八は自首・捕縛され、この事件のことを詳らかに自供せざるをえなくなります。

この地蔵が、その権八地蔵です。

元禄11年(1698)造立された地蔵であるそうで、県内最古のものとされています。

地蔵は、久下地内堤防際、旧中山道沿いにあります。





お堂は古く、中は暗いですが、中には背の高い地蔵が安置されています。

お堂の周囲には、たくさんの地蔵が納められていました。




何度目だ、越畑城跡(嵐山町)②

2018-03-20 19:59:51 | 城館跡探訪
さて、跨道橋を渡り、さらに続く階段を上ると分かれ道があるので、左に曲がります。

右に行くと、道に迷って、急に足元がなくなる場所があるのでかなり危険です。

ここが城跡であること、人為的な要害化がなされていることを忘れないでください。

左に行くと下り坂になります。



山道を直進すると平場が現れます。










上の写真では、平場を削平して、段差がつけられているように目ますね。

そして、二の丸には石祠があります。






愛宕神社の社は、新しくされたものです・・といっても、もう、30年以上は立っているわけですが。



石祠は、古い愛宕社なのかな・・・。


さて、もう少し二の丸内を見て回ります。






二の丸の端は、削り落とされた様な急斜面になっています。



二の丸にからおりる旧道を探しましたが、見つかりませんでした。すっかりやぶになってしまったのでしょうか。

二の丸旧道を搦め手口と理解し、こだわっていたので、わたしとしては少しがっかりです。


さて再び跨道橋を渡ります。

失われた本丸ですが、従来、本丸に登る道はこのルートでした。要するに大手口です。




ようやく、城址碑を見られたこと、大手口を見られたのは収穫でしたが、

二の丸旧道ルートを見つけられなかったのは無念でした。また再チャレンジをしたいですね。


何度目だ、越畑城跡(嵐山町)①

2018-03-19 20:21:22 | 城館跡探訪
本日は、2018.02.07に、久しぶりに訪問した越畑城について書きたいと思います。

越畑城に初めて行ったのは、1983年の晩夏だったと思います。

自転車で片道1時間近くかかる場所で、勇んで出かけたものの、なかなか場所がわからず、

日の暮れ時に地元の人に場所を聞いてやっと判明した・・・・こんなことが記憶に残っています。

以前は、城址碑もあったが、関越自動車道工事のおりに行方不明になった・・・どこにあるのかわからないとの

事でした。城址のふもとの民家の方に伺ったのですから、城址碑は本当になくなってしまったのだと、

残念な気がいたしました。

二度目に尋ねた時は、晩秋・・・その時も、夕暮れ時でした。

下の写真は、おそらくその時に撮影したものだと思います。





わたしの記憶では、もっと写真があったようにも思ったのですが、見つかりません。


さて、今回は、久しぶりに越畑城を訪ねようと思い立ち、2月7日に奈良梨陣屋、越畑城、杉山城の順に回ってみました。


越畑城は関越自動車道の工事に伴って、本丸を失い、現在残っているのは、愛宕神社を祀った二の丸と、その周囲だけです。

今回は、周囲の現況を含めて、探索したいと思いました。

越畑城の周囲には、山仕事で利用された旧道が残されており、そうした場所や二の丸以外の山腹の平場を確認することも

目的となっていました。


越畑城に登るルートは、関越自動車道の北側の陸橋を利用して登るのが一般的になっているようですが、

わたしは、ずっと南側の二の丸側からのルートを利用しておりました。

ですが、前回の訪問から長い年月が経過しているため、いざ現場に立ってみると、記憶がかなりあいまいになっていました。





とりあえず、関越の南側に沿ったルートを登り始めました。ところが、以前・・・といっても、30年近く前のことですが、

以前利用できたはずの道はすっかり篠やぶになって、入ることができません。

いや、実際には、無理をすればはいれたのですが、崖ギリギリの山道になっており、

足を踏み入れた先に地面がなかったので、びっくりして引き返さざるをえなくなりました。

状況から見て、この山道は、ほぼ完全に利用されなくなっているようでした。

そこで、ふもとで道探しをしました。














何か所か登れそうな道がありましたが、ここでは私の記憶に一番近い、沢筋の道を登ることにしました。

いきなり倒木があって進行を遮られます。





ところがこのルート、途中で樹木が道を遮るようにして倒れているのです。

1人で山道を登っているとき、こうした意味ありげな倒木に出会うのはかなり恐怖を感じます。

構わず、のりこえ少し行くと、また1本・・・・また1本・・・・。





この写真の辺りに来ると、人為的に削平した平場があって、興味を惹きますが、沢筋の道がどんどん険しくなり始め、

一度引き返すことにしました。

下に降りると、年配の方が畑仕事をしていました。

何だか、初めて越畑城に来た時とほぼ同じ展開・・・・30年前と同じように道を尋ねることにしました。


その方によれば、私の選んだ沢筋ルートは、イノシシ、シカが出現するかなり危険なエリアで

イノシシは襲ってくるうえ、道も途中で消滅するとのことでした。

関越道の反対側、北ルートを使って登ることを薦められました。

北側の関越道沿いに進み、関越の跨道橋を利用するルートです。

わたしには初めてのルートになります。

また、前回は地元の人に訪ねても所在のわからなかった城址碑も、関越道の反対側にあると教えられました。


まず、跨道橋手前から、関越道沿いに入って城址碑に向います。









30年前の高校時代にはたどり着けなかった、幻の城址碑はあっけなく見つかりました。


さて、次は、いよいよ残された城跡、二の丸に向い、跨道橋を渡りました。







つづく