暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

再び、用土城(寄居町)

2018-03-15 18:49:56 | 城館跡探訪
今回は、用土城への再訪問についてレポートいたします。

調査日は、2018.01.29です。

今回もしつこく絡んでみたつもりなのですが、なかなか絡む余地が少なかったです。

前回、訪問は1985年頃のことでした。

当時はこのような状況でした。







用土城は深皿を伏せたような、なだらかな丘の上にあります。

その丘の北東の隅にある、小さな公園は今も健在で、用土城の石碑もありました。




正直、開発の波に耐えきれず、状況が大きく変化していると思ったのですが、そんなことも無く、

地元の人たちの努力で、守られているようです。












城と推定される範囲は広いので、遺構の存在を期待してしまうのですが、通りがかりの地元の人は

「この一帯が城跡だっつーんだけど、なんにも残ってねーな」とつれない返事です。

まあ、実際、わたしも資料を漁った結果、「何にも残って無さげ」だとは思っていましたけどね。

ススキの生えた土の道も、今やりっぱな舗装道路です。




ここから私の無駄な抵抗の始まりです。

折角、丘の上に立ったのですから、斜面の状況くらいは観察しないとね。











上の写真は、東側斜面の写真なのですが、城特有の一種の険しい表情が全くないのですね。

遠方、駐車場わきに土の盛り上がりがあったりしますが、残土を積んだもののように見えますね。すごく。

城址碑は丘の中腹にあるので、今度は丘の頂上に上がってみます。





いまでも、立派に農業が営まれているのはいいことです。

緩やかな坂をアッというまに登り切ります。



頂上ということのほども無く下り坂です。

写真はその坂下から城跡を見上げて撮ったものです。




丘のすそ、平地との接続部分には、一段下がった荒れ地があり、もともとが低湿地だった可能性をうかがわせています。





直接に堀跡だと言えませんが、用土城の防衛機構というのは、こうした自然地理的条件の利用にあったのかもしれません。




さて、このまま大通りに出ては、調査が終わってしまうので、一度城址碑まで戻り、

今度は、かつて泥道だった道を南に走ります。

かつては用土城の南端にちょっとした林があっったので、遺構が残っているとすればその辺りだろうという読みです。

少し走ると水路がありました。

この付近がかつて林だった場所なのです。












上の写真はいずれも、同じ水路を橋の左右から撮影したものです。

もし水堀があったとすれば、この堀などは有力な遺構の候補でしょうね。

この水路の脇に竹林があるのですが、その中に土塁状の盛り上がりがありました。








城址碑のあった方が本丸でしょうから、外側に土塁、内側に水堀は防衛機構としては逆になるので、

すると、この水路は単なる水路なのか?などと思いました。

もう少し、城跡に付属した低地などを観察して、大胆な視点を打ち出したかったのですが、

そうそう、うまく行くものではないです。

桜澤八幡大神社(寄居町)

2018-03-14 18:06:45 | 神社仏閣・その他
本日は、寄居町の桜澤八幡大神社について紹介いたします。



桜澤八幡大神社は、寄居警察署の裏手、鐘撞山などの連なる山塊の、東端のすそ野に鎮座しております。

神社背後の丘の上には桜沢砦跡があります。








秩父盆地入り口の、近年、住宅開発が進んでいる寄居町ですが、桜澤八幡一帯は身の引き締まるような空気が流れて

来ます。



今年の冬はえらく寒かったのですが、この日は穏やかな日差しに包まれていて、安心しました。










神楽殿もあります。








この碑によれば、この地の猪俣党、桜沢四郎左ヱ門宗氏が郷土の守護神として祀ったとされていますが、

新編武蔵風土記稿では、猪俣党山崎三郎左衛門尉小野光氏の霊を祀ったともされており、いずれにせよ、

猪俣党の守護神的な神社であったようです。


この神社前には関所があり、地域の境界として、、境内周囲、山崎二十三夜堂の裏にかけての斜面に、

辻の神である道祖神が数多くあり、目を奪われます。







































石仏好きの方は垂涎のスポットではないでしょうか。

阿左美氏館跡 (皆野町)

2018-03-13 18:12:05 | 城館跡探訪
城館巡りをすると、どうしても平場の城館跡に行くことが多くなります。

1日に訪ねられる城館跡の数を稼げるからです。

しかし、平場の館跡などの場合、遺構がはっきりと残存している場合はいざ知らず、

宅地に食い込まれている場所などで、妙味が乏しい時には、刺激が欲しくなってきます。

今回は、思い切って、秩父の山城を尋ねようと思いました。

特に、埼玉県内では珍しい石積みの残った城跡が見たい・・・・。

ということで、秩父の城郭ファンの間で、よく知られた設楽氏館跡と阿左美氏館跡を初めて訪ねました。

本日は、その中から、阿左美氏館跡について紹介いたします。


阿左美氏は皆野町の栗谷瀬橋を経由して、日野沢地区に入ります。

日野沢川に沿って上流に行くと秩父札所34番水潜寺の手前の右側に高い丘があります。

その頂上にあるのが、阿左美氏館跡です。

写真は遠景ですが、木立に隠れて見えにくいです。この山道を登っていきます。




阿左美氏館に至るまでかなりの急傾斜でしたが、車で登ると、1分ほどで到着します。













阿左美氏館跡は石積が張り巡らされ、見事なものです。

この石積は、後年積まれたものであるとされています。

斜面にせり出した石積は堂々たるものだと思います。


館跡は眺望に優れています。





土塁に慣れている私としては、石積を見るのは新鮮です。どうしても石積に目が行ってしまいます。










すぐ近くにある札所34番水潜寺は、阿左美氏が創建した寺です。

今回は、同日行った設楽氏館跡調査に多くの時間を割いてしまったため、遺構探しは中途半端なままでしたが、

次の訪問の時には、門の礎石などについて確認を行いたいと思います。





こいしつ 東城(旧妻沼町)③

2018-03-12 17:09:53 | 城館跡探訪
さて、東城三つ目の遺構ですが、第2東城遺構の南、遺構を分割していた北河原用水路沿いにあります。

これを便宜上、ここでは第3東城と呼びましょう。

第3東城もやはり用水路で分割されています。土塁などの遺構は不明です。

『埼玉の中世城館跡』によれば、周囲よりも低く細長い水田(現在は他作物に転用されている)が、

水堀跡と思われ、これをつなげていくと方形の城跡が検出されるとされています。

第1遺構、第2遺構との関連性はつまびらかではありません。

周囲より低く細長い水田を探して、用水路沿いを進みます。

『埼玉の中世城館跡』では、南に0.5kmほど離れたところとしているので、500m圏内に絞って該当する条件をみたす

細長く低い耕地を探しました。

第一遺構からみて、300~400m程度離れた水路の西側に、それらしい圃場を発見しました。









下の写真は、この耕地の西側です。






ここは、『埼玉の中世城館跡』所載の実測図を参照すると、ここは、おそらく方形の堀跡の南側だと思われますが、

実測図の当時と、現況に著しい相違のある部分があって、これが本当に第3遺構なのか、自信が持てませんでした。

念のため1時間ほど周囲で、他に該当する地形を探しましたが、見つからず、この耕地を堀跡と、判断した次第です。

最後は、雲をつかむような話になってしまいました。平地の城館跡ではしばしばこういう結末になりがちです。

平地の城館には、独特の面白さがありますが、わかりにくいので、たまには、山城の記事を書きたいと思いました。


こいしつ 東城(旧妻沼町)2

2018-03-11 17:55:07 | 城館跡探訪
次に東城の2つ目の城郭遺構といわれている場所を見て見ましょう。

ここでは、便宜上第二東城と呼ばせていただきます。

それは①で示した八幡大神社裏の農地、福川に流れ込んでいる北河原用水路脇にあります。

この遺構は、北河原用水路掘削のおりに東西に分割されてしまったとさています。、

西側には西城神社があります。

妻沼には西城跡があり、東城のある上須戸地区に隣接する西城地区、萬有製薬工場の

敷地が城跡になります。

さて、本題の第二東城ですが、水路脇のあぜ道を通っていきます。



奥に土塁が見えますが、この背後には、森を挟んで、八幡大神社のゲートボールがあります。












ここのあぜ道はとにかくドロボウ草(タチアワユキセンダングサ)が一面に生えて、体中ドロボウ草だらけです。



ここが郭に相当するのでしょう。





次に西側の西城神社周辺を見ましょう。

西城神社は北河原用水路を渡ってすぐの道沿いにあります。

こじんまりとしていますが、神社らしい神社です。










神社の社殿は小高くなっております。ここは第二東城の土塁に相当すると思われます。










社殿の背後まで見てみます。



あるいは櫓台なのでしょうか。

かなりしっかりとしております。

最後に鰐口を撮影しました。




次は、第三東城の遺構です。

(つづく)