暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

おかると様(狩所大神:皆野町金沢)

2018-03-18 22:14:29 | 神社仏閣・その他
地元ではおかると様と呼ばれていますが、正式には狩所大神(かるとたいじん)。



元来、豊穣の神であったものが、安産子育ての神として、信仰されるようになったようです。

里に近い山の中にありますが、深い沢筋を渡る足場の悪い場所が多く、道にも迷いやすい、

わかりにくい場所にあるので、無理をしないように。


金沢男岳祭神瀧守様 (皆野町金沢)

2018-03-18 15:56:36 | 神社仏閣・その他
本日は、金沢男岳祭神瀧守様についてご紹介いたします。

訪問は、2018.02.11です。

皆野町金沢地区には、男岳・女岳という山がありました。

この山で採掘される土が、建築材料に適するということで、現在は採土のための鉱山となり、

山体はほぼ消滅してしまいました。

男岳・女岳は双体の霊山として信仰を集めてきたようで、山頂にはそれぞれ社がありましたが、

男岳はこの金沢、女岳は日野沢の住吉神社に降ろしてお祀りされたそうです。

男岳の祭神は、金沢の源流付近に祀られ、地元の人からは瀧守様、あるいは権現様と呼ばれています。

この地域は水にまつわる神に対する信仰を示す、遺跡や伝説が多く、水の神に関心がある私としては、

今後も継続的に調べたいと思っております。


さて、瀧守様は金沢川沿いに道路を奥に進むと、集落の最奥の山中にあります。

訪問時は、関東が猛烈な寒波に襲われていた時期です。

雪が残っており、足場もよくありませんでした。







水が猛烈に冷たそうに見えました。

厳しい冷え込みの中で、瀧守様の杜に入ると、はっきり気温が下がるのがわかりました。

あまりの寒さに、デジカメが何度も動かなくなります。


参道に大きな岩があります。







目の前に瀧守様の鳥居が現れました。











巨石に対する信仰と、水源に対する信仰がセットになっているようですね。



こちらが男岳の神様でしょうか。





とにかく、極寒で、度々、デジカメがとまるのには参りました。

高城城 1987年(旧妻沼町)

2018-03-17 19:44:00 | 城館跡探訪
本日は、旧妻沼町の永井太田地区にある高城城についてご紹介いたします。

高城城は妻沼町中心部から、県道45号線を深谷方面、西に向かって走ります。

永井太田地区は利根川氾濫原につくられた水田地帯の中に、島のように浮かんだ

自然堤防上にあります。

東側は水堀跡のような深田に囲まれ、城跡のある自然堤防との高低差は1m以上もありました。


当時は民家がありました。下の写真は城跡内の平場の様子です。



平安時代にできたといわれるこの城は、その後ずっと存続しつづけたようで、この民家は城主の子孫にあたる方でした。

実は、このおうちの当時のご当主は、わたしの父の知り合いで、たまたま、代理で届け物をしたときに、

「ここは、城の跡ではないでしょうか?」と伺ったことから、驚いたご当主に気に入っていただき、

懇意にしていただいたのです。

先祖代々の位牌も実際に見せていただいたばかりか、手に取らせていただきました。今でも懐かしく思い出されます。



さて、城跡は土塁の一部と思われる盛り土に板碑とともに八幡社や地蔵が祀ってあり、「四方八幡」と呼ばれていました。

















わたしにとっては、思い出に残る城跡の一つです。

忍城 1984年(行田市)

2018-03-16 17:32:29 | 城館跡探訪
本日は、忍城についてご紹介いたします。

忍城については『のぼうの城』などで、つとに有名です。地元では「のぼう」ではなく、「のんぼう」といいますが。

現在は、本丸跡に資料館と復元櫓が建ち、重要な観光資源となっております。


さて、1984年頃の忍城です。

この写真を撮影した時は、新年の松の内だったと思います。皿尾城も一緒に訪問した記憶があります。



当時は、まだ資料館などなく、本丸跡は野球場になっておりました。




むしろ城址のシンボルとして目立ったのは、諏訪曲輪の土塁上にある時の鐘でした。







現在、この土塁は残っているものの、やぶ状態になってしまったようです。

時の鐘は博物館内に保管展示されております。


この土塁の裏には、下の写真のような諏訪曲輪の水堀が残されていました。