『思 い の 生 ま れ る 場 所』
思いとはどこからやってくるのか?自分を育てた環境なのか?家族の歴史なのか?
食べ物なのか?すべてなのでしょうが、私自身がなぜこの場所に存在し、生を受け、生きていられるのか?必然なのか?偶然なのか?
自分という存在が成立しているのは全ての相互作用なのでしょうが、その相互作用はどこまでが眼に見える力でどこまでが眼に見えない力が及んでいるのか?
私たちはそれを知るにも周りが教えてくれるわけではありませんし、自分を見つめるしかないのです。
その自分というものが、まっさらでむき身の様な無垢な自分ではなく、色々な過去や伝統や価値観をまとった状態で向き合うのです。
まさに鳳凰をまとった人の様に。
日本では全てにおいて対立する力がバランスを取りながら生を営むといった思想を象徴的な事物に置き換えて認識してきました。
日本文化の象徴的な形態の一つとして鳳凰と龍があります。
鳳凰と龍の関係性は、太陽と大地を象徴し、火と水、太陽と月、
天空から俯瞰して物事を見通す力である政治力と大地を潤す力は五穀豊穣をもたらす力というように
それぞれの形に対して色々な共通する概念をあてはめている。
鳳凰と龍の概念の様に両方の力が存在するからこそ
エネルギーの循環が生まれ、安定した世界が生まれるのでしょう。
人の異種混合した者が自己の内面を覗き込もうとする姿は実はその先にある外界の異次元の世界を見ている。
宇宙を超越する日月眼と第三の眼である真理眼をもってして。
人型の空洞部分に描かれている雲は八雲といい出雲大社社殿の天井に描かれているものです。そして「尋」という文字もあります。
尋という感じは左と右という漢字が合わさって生まれたもので、左のエの部分は密教の道具でもあるのですが神様を呼び出すための鈴の形で、
右の口は祝詞が入っている箱であり、左手に鈴を持ち鳴らし、右手に祝詞の箱をもち、神に唱える。という意味だそうだ。
神に尋ねるということがこの漢字に込められた意味なのです。
日本人が自己を見つめるには八百万の神に対しての「尋」という畏敬の念が必要なのではないだろうか。
内面を見つめるという行為はもう一つの世界に波動を合わせるという事の様に思う。
そして鳳凰の羽根は炎となり、炎は不動明王のように魔を焼き尽くす力を持つ。
人はそれぞれの思いのルーツがある。それは誰もが大切にしなければならない。
八尋晋