
駅にあったカレンダー。3月9日火曜日、別にどうという事も無いが、
3_9=“Thank You”
と、月と日にちを掛け合わせるとそうなる。
柄にも無く、
「今、感謝すれば、何に?或は、誰に?」
そんな問い掛けをしてみたりする。
「そんな事、口にして、誰を喜ばせたい?偽善を装うなよ、みっともない」
もう一人の私が、そう、話を進める私自身の裾を踏み付ける。
多分、「感謝の念」とは、「面と向かう物の前で示す」からこそ、「意味がある」と私は思う。もう一人の自分を納得させるには、それしかない。もう一人の私は、「漠然」よりも「具体性」を、「実態ある有形な物」に対して、「気持ちを示せ」と言おうとしている。そして、そこに「強制」や「偽」はあってはならないと。
言葉の叩き売りで、価値が崩れる昨今。私も例外なしに、言葉を叩き売る様に使い、インフレ化させているのは、否めない。
「本当に伝えたい気持ち」は、「軽々しく口にするな」、そう、私の中のもう一人は言う。
「感謝」
その2文字にかかる「意味の重さ」は、本来は、「崇高」なるもの。叩き売りとして、ネタに使ってしまったのは、反省すべき点であるが、「自分自身」 というとてつもなく「馬鹿でダメダメな存在」が、良いも悪いもひっくるめて「許されている」という事に、「感謝」の2文字を。