涼風鈴子「はい、おはよざいますぅ~、“Morning on”どすぅ~、さ~、やって来たよ、いや~んな月曜日が。今日はブルーマンデー、嫌ですね、嫌ですねっ、嫌ですねっ!本当嫌だよ、来なくて良いよ月曜日です。11月はまだ半ばと言う長さも嫌になる原因になりますかね。今週もなっがーいですが、インチキDJ涼風鈴子の“Morning on”は一先ずやりました。ではまた」
10数年前のファンのシンガーの深夜放送のコーナーにあった、リレー形式の小説コーナーの最終話と言うか最後のテーマは「普通とはなんですか?」だった事は以前何かの折で書いたように思う。
普通、よく使われるものの、それらの意味は、様々であり、画一的なものはない、ようにさえ思う。曖昧さがある。時に、平均的と言う意味にもあろうが。
先週、普通ってなんだろう?と言うことをなんとなしに考えた時、それは、ある特定の枠組みの範囲に収まるか、と言うことなのかなと思った。
X、Yの軸の領域みたいに0≦X10、0≦Y≦10の中にあればよいみたいな。無論、0や10は自在に変化する、ゆえに画一的なものなどありはしない変動的なものである。ゆえに曖昧さがあるな、と思う。
自分と言う数値が、そんな特定の範囲の中に入り切りはしても、どこか外れの方で、仮に0~9の範囲としてそれの平均である4.5と言う数字からは離れた1か8か、0か9か、あるいは、はみ出した-1や10と言う位置に至ることさえある。
或いは、Y=Xと言う平均的な関数からは大幅に離れた位置にあることもありそうである。
普通であることは無個性であることでつまらないものなんだ、と気付いてと言うか気付かされてと言うか決めつけて走り続けている今だが、認められぬ個性や特定の値の中に入りきらない事に目を細められてばかりで、意気消沈と言う所。そんなだから、こんな話を考え付くんだろうなと思う。意味もなくまた伝わらずで。
一昨日に入手出来た、深夜アニメ“LITTLE BUSTERS”のオープニングテーマ曲。
歌詞を見て聴いてみると、いつか先月あたりに書いた「誰ひとりかけてもならない」と言う雰囲気が見えるのは、テレビアニメを観ているからだろうか?
「誰ひとりかけてはならない」、それは、どうしても昨年の震災を思い出してしまうのだが、この曲はそれよりも昔に創られたようで、それとの関連性は無いようだが。
しかし私は、誰かと共にあれること居れること、親しくなれること、理想的な絵にしか見えず、私には手に入らないものと思う。それは私が生きてきた人生がそれを証明している。
誰かと共にあるより、「ひとり」のが似合うようで。私は誰か達から見れば消えて、欠けてよい存在であり、誰かと共にある、誰ひとり欠けてはならない、と言う話の中には含まれないし、含まれたいとも思わない。欠けて皆が幸せになれるなら、欠けて誰か達の毎日が楽しくなるのなら喜んで…。