「キャンティ」という店があるということは、なんとなく知っていた。
何を知っていたのかというと、ブルジョアたちが集まって好き勝手なことをしていて、それが「文化」と呼ばれていること。
くらいだった。
そういう店は、私にとっては異次元の世界のことなので、興味もなくどちらかと言えば毛嫌いしていた、と言える。
では、なぜこの本を読んだのか?
それは、林真理子の「アッコちゃんの時代」という物語を読みたくなったからである。
アッコとは川添明子で、まあ、なんというか『奔放』『魔性』というありふれた言葉で形容されている女性である。
そのアッコについて、ネットなのでなんとなく見ていたら、ちょっと知ってみたいと思ったのである。
何故、そのような気持ちになったのかは自分でも説明のしようがないのであるが、ともかくも「アッコちゃんの時代」を購入すべくアマゾンで検索したところ、この本と一緒に読まれているものとして「キャンティ物語」が紹介されていて、では、まあ、つきあいましょう。ということで購入したのである。
本書の主人公は、アッコちゃんの時代の川添明子の夫(正確に言えば元夫)である川添象郎の父・川添浩史、そしてその妻・梶子である。
川添浩史の祖父は後藤象二郎である。
経済的には何不自由のない生活を送った。
となっているが、何不自由のない、ということは、こちら側の目線でいえば「贅沢三昧」である。
昨年、NHKの朝ドラ「ベッピンさん」の主人公も子供時代は何不自由のない生活をしていた。
そして没落を経てまた盛り返すのだが、その根本にあるのは「何不自由のない生活」であるように思える。
我々には思いもつかないことが日常的に行われていたのである。
本書を読むと、やはりそういう生活をしていた人種というか種族というか人たちがいたのは確かのようだ。
浩史は、我々が考えるようないわゆる「正業」に就かないのだが、生まれ持ったものを活かして(本人はそのつもりはないのだろうが)生きていく。
本書を読むと、やはり異次元の世界が語られている、と思う。
異次元の世界とは、私とは考え方そのものが違う、ということである。
もっと若い時に本書を読んでいると、絶対に、大きく反発をしていたと思う。
「なんだこいつら!」
という思いがするのである。
戦後、浩史が開いた店(イタリア料理店)が「キャンティ」であり、そこに集うのはある観点からみれば「一流の人」である。
大げさに言えば日本の新しい文化を牽引した人たち。
彼らがキャンティに集まった理由は、川添浩史、梶子夫妻の人柄だということ。
読み終えて「キャンティ」が現在も営業していることを知ったが、行きたい、とは思わなかった。
私には似合わない、敷居が高い、いっても窮屈なだけ、という風に思うのである。
ただ、川添浩史と梶子には会いたい、と思った。
そして「アッコちゃんの時代」を読もうと思う。
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